第26話 それは反則だ

 ふわふわと弾力のある柔らかい雲の上を、ぽよんぽよんと跳ねている夢を見ていた。パステルカラーの優しい世界。星や虹がごちゃ混ぜに浮かぶ空の中を、ルルと一緒に飛んでいく。

 雲の下では青空を吸い込んだような蒼い鱗を煌めかせて、エスターシャが悠然と飛んでいる。その背にいるはずのひとを探して視線を巡らせれば、ピンク色の雲の上で手を振っているヴィクトールが見えた。

 えいっと強く黄色の雲を踏み込んで、跳ねる。雲から雲へ。星の海を通り抜けて、虹の橋を滑り落ち、月の舟に乗ってヴィクトールの元へ辿り着く。両腕を広げて抱きとめてくれたヴィクトールを巻き込んで、そのままピンク色の雲の中にダイブした。


 ふわり。ふうわり。肌を撫でるピンクの雲が綿菓子みたいに甘く香る。やわらかくて、あたたかくて、体に回された腕の強さが心地いい。見上げると夜を溶かした紺色の瞳に、幸せそうに笑う自分の姿が映っていた。


 ――団長さん。


 言いかけて、やめる。

 違う。本当はもっと、呼びたい名前がある。


 ――ヴィクトール、さん。


 口にすると、ヴィクトールが驚いた顔を浮かべた。かと思うと二人を包んでいたピンク色の雲がぼふんと消えて、フィオナはそのままパステルカラーの空を真っ逆さまに落ちていった。



 ***



 酔ったフィオナを抱えて、ヴィクトールは離れの部屋に戻ってきていた。揺り籠に似て適度に揺れるからか、フィオナは気持ちよさそうに眠っている。ルルもフィオナの胸にしがみ付いたまま眠っており、時々まるで寝言のように「くるぅぅっぷ」と小さく声を漏らしていた。


 部屋の中。床に置かれた何かしらの鉱石の置物が、淡く発光している。暗くなると自動で光る鉱石のようだ。そういえばここに来る途中で通った緑のトンネルの中にも自然と光る花のランプを見たが、あれと同じような原理なのだろうか。

 そんなことを考えながら、ヴィクトールはフィオナを起こさないようにそっとベッドへ身を屈めた。

 ギシッとかすかに軋む音に釣られて、腕の中でフィオナがかすかに身を捩る。背中に回した腕をゆっくりとベッドに降ろそうとしたところで、軽く呻いたフィオナが一呼吸分の間を開けて小さく呟いた。


「……ヴィクトール、さん」


 不意打ちに加え、酔った状態の甘ったるい声音に、ヴィクトールの体がおかしいくらいにぎくりと震えた。その振動でルルがフィオナの上からごろんと転がり落ちたが、目を覚ますほどではなかったようだ。今度はシーツに体を埋めて、再びすぴすぴと規則正しい寝息を立て始めている。


 それとは逆にヴィクトールの胸は、音が漏れ出ているのではないかと思うくらいに騒がしい。フィオナの声は未だ鼓膜をあまく痺れさせており、気を抜けば腕を引き戻して強く抱きしめてしまいそうになる。


 それでも必死に理性を保っていられたのは、フィオナが眠っていたからだ。いくら何でも眠っている女性に手を出すことは、ヴィクトールの信念が許さない。このままフィオナをベッドに預け、早々に部屋を出なくてはと焦ったその先で――幸か不幸か瞼が震え、空色の瞳が戸惑うヴィクトールの顔を見つけてしまった。


「……ヴィク、トー……ル、さん?」


 舌足らずで、声に甘えた響きが残るから、フィオナはまだ寝惚けているのだ。分かっていても至近距離で名を呼ばれる破壊力に、ヴィクトールの心は大きく揺れ動いてしまう。

 他意はない。寝惚けているだけ。酔っているだけだと、そう言い聞かせても……。こんな時になってヴィクトールの脳裏に浮かぶのは、少し前にこの部屋で訪ねたことに対するフィオナの答えだ。何もこんな時に思い出さなくてもと、振り払おうとすればするほど記憶はより鮮明に、フィオナの声でヴィクトールの脳を揺り動かす。


『君は私に触れられることを、どう思っている?』


 勇気を振り絞って訊ねれば、予想もしないほどフィオナは顔を赤く染めて。


「……わたし……嫌じゃない、ですよ……」


 ヴィクトールの記憶の中で。

 あるいはヴィクトールの目の前で。

 まるで記憶から抜け出したかのように、フィオナが同じ言葉を口にした。


「っ、……それは反則だ」


 どこまでが許されるのだろう。

 どこまで許してもらいたいのだろう。

 境界は未だ曖昧なまま許しだけが与えられ、目を覚まし始めたヴィクトールの熱は行き場をなくしてさまよっている。フィオナをベッドに横たえようとして止まったままの姿勢は、さながら眠り姫に目覚めのキスをするかのようで――そう考えてしまう自分をヴィクトールはもう抑えることが出来なかった。


 そっと。近付くほどにフィオナが瞼を閉じるから、求められているのだと勘違いしてしまう。

 硬く引き結んだ唇が吐息を掠め、触れるか触れないかのキスをした。それはまるで初めてのキスのように初々しく。ままごとのように幼くて、ぎこちない。けれど背徳にも似たぬくもりは、ヴィクトールの唇に確かな痕を残して。


「ん……」


 無意識にこぼれたフィオナのあまい声に、ヴィクトールは自分の中で何かが焼き切れたのを感じた。


「……っ」


 離したはずの唇を、気付けば無我夢中で押し戻していた。引き合うように。吸い寄せられるように。触れて、重ねて、交じり合う。

 知ってしまったあまやかな熱はなけなしの理性をいとも簡単に弾き飛ばし、やわらかな感触を、こぼれる吐息を、もっともっと欲しいのだと底なしの欲求がヴィクトールの奥で鎌首をもたげた。

 奪い尽くしてしまいたい。息継ぎすらままならぬほどのくちづけに、それでも必死についてこようとしがみ付くフィオナのからだを、めちゃくちゃに壊してしまいたい。


 仮初めの関係であることも、ルルを聖竜に育てることも、何もかもが吹き飛んだ。漏れ落ちる切ない吐息は花の香りの酒気を帯び、それがなおさら蠱惑的にヴィクトールを翻弄する。

 背に回した腕でフィオナを抱き寄せ、後頭部を掴んで自由を奪う。苦しげに喘ぐ唇を何度も塞いでは、そのやわらかさに堕ちていく。呼吸も忘れて貪り合う。

 酒に酔ってもいないのに、くらくらと意識が酩酊するのは酸素が足りていないからだ。既に正常な判断を放棄したヴィクトールが、体重をかけてフィオナをベッドに押し倒すと、視界の端でルルが小さく身じろぎしたのが見えた。


「きゅ……ぅー」


 行為を咎められたかのようにぎくりと震えたヴィクトールが、フィオナから慌てて体を引き剥がした。紺色の瞳に宿る熱は収まらないまま、けれど眉間に深く刻まれた皺が彼の後悔をあらわにしている。


「……っ、すまない……」


 絞り出した声音は罪悪感に満ちていて。

 未だ欲の消えない顔を右手で覆い隠すと、ヴィクトールはフィオナが何か言う前に急いで部屋から出て行ってしまった。


 彼にしては珍しく、扉を閉める音が荒々しい。まるでその先へ踏み込むことを拒絶されているかのようだ。ほんの少しの寂しさを覚えたが、それがヴィクトールの我慢の表れであることはわかった。


 酒に酔った勢いで誘った自覚はある。あんな質問をするくらいだから、少なくとも嫌われてはいないのだという安心材料もあった。

 もうごまかせないほどに気持ちが傾いていることを認めてしまうと、その次は触れるだけでは物足りず、触れて欲しいと願ってしまう。ルルの聖竜化のためではなく、蕾にまで育ってしまった恋心のために。その花を、ヴィクトールの手で咲かせて欲しいと望んだのだ。


「……ヴィクトール、さん」


 名を呼ぶだけで、胸がとくんと脈を打つ。誰もいないのに恥ずかしさに耐えられず、フィオナはぽすんとベッドに倒れ込んだ。幸せそうに眠るルルをそっと引き寄せると、喉を鳴らしながら頭をすり寄せてくる。


「ルル。……わたし、すごくはしたないこと……やっちゃったかも」


 体を抱きしめる腕は強く、いつものようにフィオナを気遣う優しさはなかった。見下ろす紺色の瞳に宿るのは男の熱で、余裕なくぶつけられた唇の記憶はただただ荒々しく――。けれども、濡れた唇が闇にてらりと光る様子は体を震わせるほど煽情的で、ヴィクトールの情欲を引き出したのが自分であると言うことに、フィオナはかすかな喜びすら感じた。


「わたし……いやじゃ、なかったです」


 よみがえるキスの記憶に唇があまく痺れ、フィオナの心はいつまで経っても落ち着かない。ここにはいないヴィクトールも同じ気持ちでいてくれたらと、フィオナは心地良い酩酊感に揺れながらそう思うのだった。



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