第28話 私も君に見られたくないものがある
山の中の露天風呂は解放感に溢れていて、あまりの気持ちよさにフィオナはつい、とぷんと頭まで潜ってしまった。
秘湯ではあるが綺麗に手を加えられており、小さめの岩風呂の中にはバラだろうか。赤い花びらが浮かべられていて、熱に溶け出したあまい香りがほんのりと湯気に混ざって漂っていた。
緑の蔓で出来た壁はあるものの、見上げれば早朝の澄んだ青白い空が視界いっぱいに広がっている。少し肌寒い空気と、熱めの湯が何とも言えず心地良い。
ルルも入れていいものかどうか迷ったが、考えている間にばしゃんと飛び込んでしまった。それでもすぐに上がって「きゅぅぅ」と切なく鳴いたので、どうやら竜にとって温泉はあまり気持ちのいいものではなかったようだ。温かい水というものに驚いたのかもしれない。
濡れた羽毛で風邪を引かないようにタオルでくるんでやると、そのふわふわの感触が気持ちよかったのか、口を大きく開けて欠伸をこぼしていた。
「まだ眠いよね。ちょっと早く起こしちゃったし……ごめんね」
「きゅるぅぅ」
顎の下を撫でてやると、フィオナの指に頬を寄せてくる。眠気と戦っているのか何度か瞬いたルルの目に、ふと違和感を覚えて手を止めた。
「あれ……? ルル、ちょっと顔よく見せて」
「るぅー?」
両手で顔を包み込むと、ルルが眠たそうな目でとろんとフィオナを見上げた。澄んだ宝石みたいに綺麗な蒼い瞳が色を薄くして、代わりに金色へと変化しているように見える。蒼い瞳も綺麗だったが、金色に輝く瞳は美しいだけでなくどこか神々しさに似た雰囲気も感じられた。
「これって……聖竜、化?」
断言は出来ないが、少なくとも暗黒化の時に感じた不気味さは全くない。もしもこの金色の瞳が聖竜への変化であるなら、その理由に思い当たることはもうひとつしかなかった。
『……フィオナ』
激しいキスの合間に、吐息に絡めて名を呼ばれたことを思い出す。ぞくりと体が芯から震え、終わったはずのキスの余韻が再びフィオナの唇をあまく痺れさせた。
ルルに愛を与える方法として、出来るだけ仲良く仮初め夫婦を演じてきたつもりだ。自分のそれが演技でないことはとっくの昔から自覚していたのだが、いずれ終わる関係なら深く踏み込まないようにとも意識していた。
でもいま金色に変化したルルの瞳を見れば、否が応でも期待してしまう。
もしかして、ヴィクトールも同じ気持ちでいてくれたのだろうかと。
仮初め夫婦でも互いを心から思うことがなければ、きっと一日でルルがここまで聖竜に傾くことはなかったはずだ。
たった一日。けれど昨夜重なり合った
「ヴィクトール、さん」
名を呼ぶだけで、胸がきゅんと響く。昨夜のキスを思い出しながら、そっと指先で唇に触れた瞬間。不意に脱衣所の方から聞こえた物音に、フィオナはぎくりと体を震わせた。と同時に、エルミーナの言葉が頭にパッとよみがえる。
『アイツにも後から来るように言ってある』
秘湯は二つ。こことは別の温泉には、いま王様とエルミーナが一緒に入っているはずだ。ならば後から訪れたヴィクトールが案内されるのは……。
「……っ!」
ざばぁっと慌てて湯から上がると、フィオナはルルを包んでいたタオルを勢いよく引っ掴んだ。その中で微睡むルルを気にしている余裕が全くない。
濡れた体にタオルを巻いたところで、視界の端に転がる白い物体に気付いたフィオナが「あっ」と小さく声を上げた。突然床に放り出されたルルは、何が起こったのか分からずに首を振って目を瞬いている。
「ごめんっ、ルル」
床に転がったルルを拾い上げようとしたその先で、ガラリと勢いよく扉が開いた。焦ったフィオナの空色の瞳が、驚きに見開かれた紺色の瞳とかち合った瞬間。
「きゃああっ!」
フィオナは今までにないくらい大声を上げて、逃げるように後退した。その足が濡れた床につるりと滑ったのは事故で。
「きゃっ!」
「危ないっ」
目の前で転倒するフィオナの腕を掴んで引き寄せたのは、ヴィクトールの体に染みついた騎士道の癖で。
つまり体にタオルを巻いただけの二人が身を寄せ合っている状態に、そういう意味の他意は全くない。ないのだが、昨日の今日でこの状況は
直に触れ合う肌の感触。湿った熱。フィオナは顔を上げることも出来なくて、けれど目の前には鍛え上げられた逞しい胸元があって、正直どこに目を持っていけばいいのか分からない。焦りすぎて目を瞑るという選択肢すら吹き飛んでいる。
「あっ、あぁぁぁ、あのっ、えと……」
「あぁぁ、いやっ、これはその……つまり、えぇと」
「ちょ、と……一旦離れ……っ!? やっ、待って。えっ! ルル!?」
「きゅるーぅん」
空気を読んでいるのかいないのか。あろうことか、ルルがフィオナの体に巻いたタオルの端に噛み付いている。さっき強引に奪い取ったので、取り返しに来たのだろうか。
濡れたルルの体はいつもよりも重い。おまけに噛み付いたままぶらぶらと揺れるものだから、ついにフィオナの体からタオルがはらりと床に落ちてしまった。
「きゃーっ! ダメダメっ、ダメです! 見ないで下さいーっ!」
「ふがっ!」
べしんっと殴るほどの勢いで、フィオナがヴィクトールの目を両手で塞いだ。見られることは回避できたが、これではどちらも動くに動けない。全裸でヴィクトールの目を塞いでいるという状況に、フィオナは恥ずかしさのあまり泣いてしまいそうである。
「ヤダヤダ……どうしようっ」
「フィ、フィオナ。おおお落ち着いて考えよう。大丈夫、ここには私たちしかいないから……大丈夫、だ」
「落ち着けませんっ。ルルっ、タオル! タオル返して!」
「きゅーん」
「ルルぅ……」
パニック状態の二人の足元では、ルルがタオルとじゃれ合ってひとり遊びを満喫している。足の指でタオルを持ち上げようとしても、ルルが意外に重くて適わない。おまけにバランスを崩しかけて、フィオナは全裸のままヴィクトールの方へ倒れ込む寸前だ。ぎりぎりのところで、密着することは免れたのだが。
「団長さんのタオル、貸して下さい!」
「それは困る!」
「だってこのままじゃ動けません」
「では私が拾おう」
「なに言ってるんですか! 見えちゃうからダメに決まってます!」
「む……しかしだな、早くしないと……その、色々と問題が……」
「問題だらけです! 私が拾うんで、団長さんは目を瞑ってて下さい。絶対開けちゃダメですよ!」
「いいや、それはダメだ! 私も君に見られたくないものがある!」
「じゃぁ、どうするんですかぁー!」
フィオナはもう半泣き状態で、対するヴィクトールも実は泣きたいほどに危機的状況である。いつもならヴィクトールに頭突きを食らわせるはずのルルも、今日はなぜか二人の間に割り込むことをしない。絶対に分かっていて知らぬふりをしているのではないかと、そう邪推したくもなる。
「よ、よしっ。二人で一緒に屈もう。そうすれば見えないし、私もずっと目を閉じている。だから安心していいぞ!」
「……ほんとですか?」
「君の同意なく、触れることはしない。ゆっ、昨夜はそのっ……抑えきれずに、ふ……触れてしまったが」
「いっ、いま言わないで下さいっ!」
「すまない。こういうことは早めに謝罪しておかねばと……」
「どうして謝るんですか。わたし、嫌じゃないって……言いました」
「……っ! き、君こそこの状況でそれは……、さすがにキツいんだが」
「ごめんなさいっ」
結局そのあと無事にタオルを拾ったフィオナは、すっかり冷めてしまった体を温めるためにもう一度温泉へ。その間ヴィクトールは温泉に足先さえも浸からず、フィオナが出てくるまで外でひとり悶々と頭を抱えていたのだった。
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