第29話 君に惹かれている

 温泉を出た二人は、離れまでの山道を言葉少なに歩いていた。

 温泉に入ったフィオナよりも、なぜかヴィクトールの方が真っ赤になっている。耳まで赤い。


 あれだけ騒いだのだ。くれないの騎士たちにも絶対聞こえている。それでも帰ろうと門をくぐった後も、彼らはからかう素振りなく「お疲れ様でした」と形式的な挨拶をしただけだった。別の意味で疲れたが、今は変に蒸し返されるのも嫌だったので、フィオナたちは軽く頭を下げてそそくさとその場を後にした。


 こういうことに一番喜んで食いつきそうなセレグレスは、なぜか警護から外れていた。他の騎士の顔は覚えていないが、交代の時間だったのだろうか。何にせよ、この場にセレグレスがいないことに、フィオナはホッと安堵の溜息をついたのだった。


「あの……さっきは、すみませんでした」


 勇気を振り絞ってそう告げると、少し前を歩くヴィクトールがぴたりと足を止めた。振り向きはしなかったが、困ったように口元を押さえている。


「いや……私も確かめずに入ってしまった。お、驚かせてしまってすまなかった」

「びっくりしましたけど……でも、……い……や、じゃなかった、です」


 おかしいくらいにヴィクトールの背中が震えた。

 昨夜のキスも、温泉でのハプニングも。どちらも驚きはしたが、忘れ去りたいほどの嫌悪感はない。よみがえる記憶に恥ずかしさはあれど、甘酸っぱいときめきのようなものも確かにあって。


「団長さん以外の人だったら嫌ですけど……昨日も今日も、団長さんだったので……大丈夫です。だからそのっ、あ、安心して下さい」


 真面目なヴィクトールのことだ。今回の件にしても、自分を必要以上に責めてしまうのではないだろうか。そのせいで縮まりかけた距離が開くのは嫌だったし、何よりキスも全部なかったことにされるのが怖かった。


 思いをきちんと伝えること。「好き」だというたった一言を口にするにはまだ怖く、けれどヴィクトールを拒否していない気持ちを、今できる精一杯で伝えたい。

 こちらに背を向けたヴィクトールの表情は見えなかったが、ダークブラウンの髪からのぞく耳朶がまるでベリーのように真っ赤に熟れていて。


「安心できるわけがない」

「え?」

「君が可愛すぎて……正直、どうにかなりそうだ。無自覚に私を煽らないでくれ」

「あ、煽ってなんか、してないですっ。ちゃんと嫌じゃなかったって伝えておかないと、団長さんとの距離が離れてしまいそうで……」

「もう離れられないくらい、君に惹かれているっ」


 声が強く響いてしまったのは、決して怒っているからではない。フィオナを振り返ったヴィクトールの顔は、いつものように真っ赤に染まりきっている。それでも今日だけは紺色の瞳が、まっすぐにフィオナを見つめてくるから落ち着かない。


 優しい顔も、照れている顔も、随分と見慣れてきたはずだ。けれど真面目なヴィクトールを前にすると、元々の端整な顔立ちに加えて昨夜の「男」の顔がちらついてしまい、フィオナの心臓がバクバクと早鐘を打ち始める。

 だから、つい。


「フィオ……むふぁっ」


 フィオナはたまらず、ルルをヴィクトールの顔面に押し付けてしまった。


「だ、団長さん! そう! そういえばルルの瞳が変わったんですっ」

「……まさか君にまで遮られるとはな」

「そういうつもりじゃないんですけど……あれ? ルル、今日は団長さんに爪を立てないの?」

「まるで爪を立てて欲しいみたいだぞ!」


 そう返すも、確かにルルはヴィクトールの顔面を塞いだまま頭にぎゅぅっとしがみ付いているだけだ。いつものように騒ぎ立てることもしなければ、フィオナが言ったように爪を立てることもない。ただ顔だけは眉間に皺を寄せたような、渋い顔をしていたが。


「……本当だな。瞳が……これは金色か? うっすらと蒼も残ってはいるが」


 顔面からルルを引き剥がして見れば、確かに瞳の色が金色に薄く変わっている。ヴィクトールを見つめる視線からも、ほんのわずかだが棘がなくなったような気がするのはそう思いたいからかもしれない。

 けれどもさっきは爪を立てなかったし、ルルの中でヴィクトールに対する評価が上がったのは確かだろう。何が原因か分からなかったが、瞳が変わったことが聖竜化によるものならば――思い当たることはやっぱりヴィクトールにもひとつしかなかった。


「――フィオナ」


 ふと、静かな声で名前を呼ばれる。口を挟んだり、茶化したりするような空気ではないことを、その声音から無意識に感じ取った。


「昨夜は勢いに任せて君に触れてしまったが、酒の力を借りて行為に及んだことを私は今でも後悔している。君に触れる時はいつでも真剣でありたいし、誠実でありたい。でも……」


 腕に抱いたルルから、視線をフィオナへと移す。まっすぐに、羞恥心など今は心の奥に押し込めて。


「君に触れた昨日の夜は……後悔を上回るほどの喜びを、感じてしまった」

「……っ!」

「ルルの聖竜化に二人の愛が必要なら、瞳が変わった理由は……私と同じだと、そう思ってもいいのだろうか」

「……団長さん」


 何か言わなくちゃと口を開いても、フィオナの唇からこぼれ落ちるのは掠れた吐息だけだ。それでも必死に言葉を紡げば、目の前のヴィクトールが少し困ったように笑った。


「できれば、名前で呼んで欲しい」

「っ、……ヴィ、ク……。ヴィク、トール……さん」

「あぁ。……やっぱりいいな。君から名を呼ばれるのは」

「そ、そうですか?」


 返事の代わりに、ヴィクトールがやわらかく微笑んだ。フィオナの方へ手を伸ばしたかと思うと、そっと……かすかな躊躇いを乗せた指先で頬に触れる。少し冷たい指先に、フィオナの胸がとくんと跳ねて。


「昨日のキスを、やり直しても構わないだろうか」


 今度こそ、フィオナは声を失った。ヴィクトールよりも朱に染まった顔を逸らすことができないのは、ゆっくりと近付く紺色の瞳があまりにも綺麗で。そしてあまりにも艶めいていて――フィオナは誘われるがままに、ゆっくりと瞼を閉じる。


 どきどきとうるさい心臓の音に紛れて激しい爆音が聞こえたのは、ちょうどその時だった。



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