第30話 団長さんが死んじゃう
ティルヴァーン家の朝は早い。それは屋敷の主が不在でも同じである。
フィオナの部屋を訪れたアネッサは、バルコニーに続く窓を全開にして部屋の空気を入れ換えていた。
フィオナは昨夜から、ヴィクトールと共に温泉地へ一泊の旅行に出かけている。普段とは違う場所で、二人きり。しかも温泉だ。帰ってきたらたくさんの土産話を聞かせて貰わなくてはと、アネッサは鼻歌交じりに床を掃き始めた。
その背後で、突然光が弾けた。
何事かと振り返ったアネッサの前に、泥で服を汚したフィオナが立っていた。濡れた髪には木の葉が絡みついており、腕に抱いたルルは怯えたようにフィオナの胸にしがみ付いている。
「フィオナ様っ!?」
慌ててアネッサが駆け寄ると、絨毯の上にぼんやりと浮かんでいた魔法陣が役目を終えて霧散した。
「アネッサ、さん。……ここ、お屋敷の」
「まぁ! 一体どうされたんですか? もしかして魔法具をお使いに……」
フィオナの首に提げているネックレス、そのコイン状の黒い表面に描かれていた金色の模様が淡く光っていた。
一度きりの効力を発する転送魔法の呪文。フィオナが再び狙われた時この屋敷へすぐに戻ってこられるよう、ヴィクトールが渡したものだとアネッサは聞いている。それが使われたと言うことは。
「お怪我はありませんか!?」
「わ、私は大丈夫ですっ。それより団長さんが! 団長さんがひとりで残っちゃって……相手は三人もいたのにっ。どうしよう……団長さんがこっ、ころさ……っ」
その言葉が怖くて、フィオナは最後まで口にすることができなかった。駆け寄ったアネッサが背中を撫でてくれているのに、彼女の手のぬくもりが感じられない。それほどまでに身体が恐怖で冷え切っている。
「すぐにイレーネ様とヘンリウス様を呼んできます! フィオナ様はここにいて下さい!」
部屋を出て行くアネッサを見ているのに、フィオナの目に映るのは最後に見たヴィクトールの姿だ。フィオナを逃がすために突き飛ばしたヴィクトールが、焦った表情で「逃げろ」と叫んだあの顔が脳裏に焼き付いて離れない。
襲いかかる敵に対して、抜き放った透き通るような蒼い剣身の輝きが見えたのはほんの一瞬。フィオナが瞬きするその間に、ヴィクトールはおろか敵の姿さえ視界からふっとかき消えた。まるで大きな手で覆われたように、声や戦う音さえも失われたのだ。
ヘンリウスはすぐに城へ連絡を入れてくれるだろう。それにあの場所には
あぁ、でも――。
あの時ヴィクトールの姿が消えてしまったのは。フィオナを慌てて突き飛ばしたのは……結界が、張られたからではないだろうか。もしそうなら、あの場所でヴィクトールが襲われていることを誰も知らない。
そう思い至ると同時に、フィオナの顔から血の気が失せた。
「……知らせなくちゃ」
ヴィクトールが襲われていることを知っているのはフィオナだけだ。ヘンリウスが城へ連絡を入れても、そこから温泉地へ新たな騎士を派遣していては間に合わない。王都から一時間ほどの距離ではあるが、多勢に無勢。あの閉じられた空間で、一人でどこまで持ちこたえられるかフィオナには想像もつかなかった。
「団長さん……っ」
部屋を飛び出して、フィオナはほとんど無意識に竜舎へと走り出していた。後ろでアネッサの引き止める声が聞こえる。けれどフィオナは振り向かなかった。
竜舎の前で、エスターシャは空を見上げていた。何かを感じているのだろうか。落ち着かない様子で羽を動かしている。
「エスターシャ!」
叫ぶように名を呼ぶと、怪訝そうに細められた金色の目がフィオナに向けられる。
「お願い、エスターシャ! 私を乗せて飛んで下さいっ。団長さんが……っ、団長さんが死んじゃうっ!」
竜の乗り方など分からない。乗ったところで振り落とされるかもしれないし、そもそも最初からエスターシャが乗せてくれないかもしれない。それでも、フィオナはとにかく動いていたかった。
『フィオナ』
あの優しい笑顔を、愛おしい熱を。やっと手に入れたと思ったばかりだったのに。
『もう離れられないくらい、君に惹かれている』
失いたくない。ヴィクトールを、助けに行きたい。
「クルゥゥゥ」
急かすような声に顔を上げると、エスターシャが身を低くしてフィオナを見つめていた。乗りやすいように、片翼を地面に投げ出して、わずかに身体を斜めにしてくれている。
「エスターシャ」
駆け寄って、その体に触れる。額を寄せて、「ありがとう」と小さく呟けば、答えるようにエスターシャが静かに鳴いた。
竜舎の中から手綱を引き出すと、フィオナは急いでエスターシャの頭にそれを取り付ける。見よう見まねで間違っているかもしれないが、形にはなったようだ。普段から手伝っている竜の世話がここに来て役に立つとは思いもしなかった。
鞍は重くて諦めた。手綱を引いてよじ登るように背に乗ると、エスターシャが様子を見計らって両翼を大きく左右に広げた。
「クルゥゥ!」
いくぞ、と合図をして。
フィオナは握りしめた手綱を決して離さないように、ぎゅっと強く手に巻き付ける。
「行こう、エスターシャ。団長さんを、助けて!」
もちろんだと大きく鳴いたエスターシャが、朝焼けの空に駆け上がる。その背にフィオナとルルを乗せて飛び立つ姿はさながら蒼い彗星のように、王都リグレスをあっという間に南下していった。
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