第31話 死ぬわけにはいかない
白く尾を引く風の刃が、ヴィクトールの隠れていた大木をあっという間に薙ぎ倒した。飛び出したところに斬りかかる敵のひとりを蒼刃の剣で受け止め、睨み合う。黒いフード付きのマントに、白いのっぺりとした気味の悪い仮面をつけた敵は三人。皆動きが素早く、まるで森に棲まう亜人のようだ。
剣を押し戻し、勢いをつけて腹を蹴り上げる。吹き飛んだ敵の後ろから別のひとりが弓矢を放ち、右に飛び退いたヴィクトールの頭上から最後のひとりが炎を纏わせた剣を重力を伴って振り下ろした。
大きく身を翻して、ヴィクトールはそのまま円を描くようにして剣を振り上げる。流れるような動きはまるで隙のない剣舞のようだ。
敵の魔法攻撃は炎。対するヴィクトールの蒼い剣から放たれたのは、大木すら揺るがすほどの巨大な竜巻だ。地面に落ちた枯葉は元より、枝葉に青々と茂る緑さえ吹き飛ばして視界を奪う。その隙に混戦の場から離脱したヴィクトールは、段差でちょうど陰になっている岩の後ろに身を潜めた。
乱れた呼吸を整え、引き裂いたシャツで腕の傷をきつく縛った。
敵は三人とも手練れだ。加えて攻撃手段がバラバラであることにも手を焼いた。どれだけ激しく戦っていても誰も来ないということは、やはりあの時に結界が張られたのだろう。
異変を感じて本能的にフィオナを突き飛ばしたが、結果としてそれは彼女を救う道となった。少しだけ強く突き飛ばしてしまったことに対しては、後できちんと謝罪しなければと……そう思ったところで、ふっと自嘲気味に唇が弧を描く。
(私は彼女の元に、戻れるのだろうか)
春の木漏れ日に似た、あたたかい笑顔。ほんのりと朱に染まる頬も、可愛いだけの拗ねた顔も、恐怖に耐えてこぼれたあの涙も。
フィオナを形作るすべてを、守りたいと思った。フィオナ自身を、そして彼女を包む世界すら、他の誰でもない自分自身の手で守りたい。彼女が好きだと言ってくれた、この手で。
『団長さん』
瞼の裏で、フィオナが笑っている。少し照れたように上目遣いでヴィクトールを見つめ――。
『ヴィクトール、さん』
あの愛らしい声で名前を呼んだ。
よみがえる記憶はヴィクトールの鼓膜をあまく揺らして、こんな時だというのに心が安らいでいく。沈みかけていた気持ちを奮い起こし、再びヴィクトールに生きる力を与えてくれる。
(こんなところで、死ぬわけにはいかない)
剣を握る右手にぎゅっと力を込めて、体から弱音を追い出すように深呼吸をした。
「いたか?」
かさりと、土を踏む音と共に声がする。聞き覚えのない男の声だ。
「幻竜と女は……逃げられたか。どうする? あの男だけでも仕留めていくか?」
「一人とはいえ、ヤツは竜騎士団長だ。手こずっている間に結界が解けでもしたら、蒼や
「せっかく奴に手引きして貰ったのに収穫なしとはな。……だが、仕方ない。せめてあの男がお前の毒で野垂れ死ぬのを期待しよう」
「
男たちから漏れ聞こえる会話に、ヴィクトールは背筋がぞくりと震えるのを感じた。やはりこちら側に内通者がいたのだ。頬を伝う冷や汗を拭うと、それは汗ではなく傷口から流れた自身の血で。
指先に纏わり付いた鮮血を見た瞬間、ヴィクトールの視界がぐにゃりと歪んだ。
剣を強く握りしめていたはずの右手が痺れている。背筋が冷えたのは会話の内容にではなく、体から純粋に熱が奪われていたのだ。
あの時放たれた矢の攻撃。避けたつもりだったが、頬を浅く掠めていたのだろう。そしておそらく、あの
「……っ」
ぐらつく体を支えようとして地面についた手が、ぱきりと小枝を折ってしまった。
「そこかっ!」
放たれた矢を今度はしっかりと避ける。段差から飛び降りてきた男の剣を蒼刃で受け止めるも、痺れた腕では思うように力が入らない。仰向けに倒れたヴィクトールの上に男が跨がり、体重をかけてぐっと剣を押し込んだ。
視界の端で炎が揺らぐ。この体勢では避けきれないと焦ったその時、周囲に聳え立つ木々のすべてが突然ざわざわと枝葉を震わせ始めた。まるで嵐のように激しく煽られているのに、周囲には風の気配がまったくない。
不気味な山の唸りに男たちが意識を逸らした隙を逃さず、ヴィクトールは覆い被さる敵の脇腹に蹴りを入れて身を起こした。そのすぐ真横に、炎の剣が突き刺さる。
「ちっ!」
不機嫌な舌打ちに振り返る余裕もない。毒でふらつく体を奮い立たせて走るヴィクトールの耳に、また唸るようにさざめく葉擦れの音がした。仰ぎ見れば、すっかり日の昇った青空に細い波紋が揺れている。
まるで石を投げ込んだ水面のように揺れる空。その波紋に感じるのは――。
「エスターシャ!!」
「逃がすかっ!」
ヴィクトールが風を纏わせた剣を振り上げるのと、敵の一人が毒矢を放つのはほとんど同時だった。
空を揺らす波紋の中心めがけて、渦を巻く風が吹き上がる。空気の振動によって脆くなった結界の一部分が罅割れ、そこにヴィクトールの放った竜巻が衝突した。地割れのように鈍い音を響かせて空間が大きく揺れたかと思うと、それまで遮られていたエスターシャの咆哮が山全体に響き渡った。
「結界が……っ!」
周囲から隔離するための結界がエスターシャの咆哮で揺り動かされ、脆く軋んだその場所をヴィクトールの放った竜巻が貫いたのだ。魔力の残滓を雪のように煌めかせ、山の中に結界の破片がキラキラと降り注ぐ。その中に立ち尽くすヴィクトールの右肩には、毒の塗られた矢が深々と突き刺さっていた。
「逃げるぞ! 奴らにも気付かれるっ」
エスターシャの咆哮によって、宿の方が騒がしくなる。異変に気付いた
目的は果たせなかったが、ヴィクトールの排除は彼らの今後に大きな意味を持つ。今はそれだけでも良しとして、仮面の男たちは素早くその場から走り去っていった。
「フォォォ――……ン」
エスターシャの声がする。随分と遠くに行ってしまったのか、鳴き声はくぐもっていてよく聞こえない。朝だというのに視界は随分と暗く、体が指先まで冷えている。それでもまだ手が動くうちに、ヴィクトールは右肩に深く突き刺さった矢を引き抜いて、毒が回らないように傷口を引き裂いたシャツできつく縛った。
――団長さん。
エスターシャの咆哮に混ざって、フィオナの声が聞こえたような気がした。名前で呼んで欲しいと伝えたのに、また呼び名が戻っていることにほんの少しだけ笑みが漏れた。
「……戻らなくては」
進む足は、自然と声の聞こえる方へ。その足が空を踏んだと気付いても、ヴィクトールの体には崖から落ちる体を支えるだけの力はもう残されてはいなかった。
世界が反転する。投げ出した足元に広がる青空の向こう、それよりも濃い蒼がまるで流星のように降下してくるのが見えた。
名を呼ばずとも、心で通じ合うヴィクトールの大切な相棒。その背に流れる桃色の髪を見た瞬間、今度ははっきりとフィオナの声がヴィクトールに届いた。
「団長さんっ!!」
竜の乗り方など知らないだろうに。
落ちないようにしがみ付くので精一杯のはずなのに。
――どうして彼女は恐れも知らずに手を伸ばすのだろう。
体格差のあるヴィクトールを、しかも落下する体を支えるなど無謀にも等しいのに、それでも必死な空色の瞳には諦めの色が一切ない。ヴィクトールを救うのだと、たったひとつの思いに縋って手を伸ばしてくる。
その純粋すぎる思いに応えるために、ヴィクトールは最後の力を振り絞ってぎゅっと強く拳を握りしめた。
「フィオナっ!」
滑空するエスターシャが横切る瞬間に腕を伸ばし、フィオナの細い手にしがみ付く。彼女が力負けする前に手綱を握って背に跨がると、重みを感じたエスターシャがまるで勝ち
力を使い果たしたのか、もう体は動きそうもなかった。ただ手綱を握る手は決して離さぬよう、両腕の中に収まるフィオナにぐったりともたれかかる。
心配するフィオナの声に重なって、ゴルドレインたちの声が聞こえた。頬を掠める風が緩やかになり、エスターシャが地面に着地したことを体で感じ取る。
そこでヴィクトールの意識が、ぷっつりと途切れた。
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