第38話 君を失うかと思った
落ちる。
落ちる。
空気を切って落下する音だけがフィオナの中に響いていく。何も考えられない。フィオナの頭の中は真っ黒だ。叫ぶ声は風にかき消され、恐怖すら感じる間もなく落ちていく。
一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、真っ暗な闇の中にヴィクトールの姿が浮かび上がった。閉じた瞼の裏側に焼き付いた愛しい影が、フィオナに笑って手を差し出している。
ヴィクトールの大きな手。いつでも、どんな時もフィオナを守ってくれる大好きな手。その手に触れたくて、縋りたくて、何も掴めないと分かっているのにフィオナは無我夢中で
――遠く、風を揺らして竜の鳴き声が聞こえた気がする。
「フィオナっ!!」
声がした。そう思った瞬間にはもう、フィオナはくんっと体を引き上げられ、ヴィクトールの腕の中にいた。
風に曝された黒い鎧は冷たいはずなのに、硬い胸当てに頬を寄せた瞬間、フィオナの全身に熱が巡った。落下する感覚ではなく、風に乗って滑らかに揺れる振動に恐怖が薄れていく。
怖いことは何もない。体を包む腕も、風も、フィオナが信じて待った唯一の力だ。
「無事か!」
「……っ、ヴィクトールさん!」
声を聞いた途端、フィオナは堪らずヴィクトールの首に腕を回してしがみついてしまった。不安定な竜の上、それでもヴィクトールは少しも揺らぐことなく、フィオナの背中をしっかりと抱きしめてくれる。その強い力が張り詰めていた緊張の糸を優しく切るから、フィオナは感情を抑えきれない子供のようにわんわんと声を張り上げて泣いてしまった。
「ヴィクトール、さん……。ヴィクトールさんっ! こわっ、こわ……った」
「遅くなってすまない。もう大丈夫だ」
風を切って上昇する視界の端、塔の最上階に吹き上がる紅蓮の炎が見えた。塔の下には、
国境の戦場の方も決着がついたようで、激しく立ち込めていた砂煙はゆっくりと棚引いて消えていくところだった。
終わったのだ。そう思えば、またフィオナの目から涙が溢れ出した。
***
薬で竜の自我を奪ったエイフォンに対して、メルトシアの竜騎士は文字通り選ばれた精鋭部隊だ。いくら竜に乗れるとは言え、その竜を操る騎士が力不足では戦力にも成り得ない。
元は密猟者が大半のエイフォンの竜騎士――と呼ぶことも耐えがたいが――に、ヴィクトールたち蒼の竜騎士団が後れを取ることは万が一にもない。
空の戦いは思っていたよりも早くに勝敗を決し、地上での戦いも
あまりの手応えのなさに、ヴィクトールが違和感を覚えた時だった。エスターシャがふっと首を巡らせた先に、白くまるっこい何かが飛んでくるのが見えた。かと思うとそれは物凄い勢いでヴィクトールの顔面にへばり付き、黒い兜を爪でガリガリと叩きながらしきりに声を上げて鳴いたのだった。
戦場にいるはずのないルルの存在にも驚いたが、何よりヴィクトールの目を釘付けにしたのはルルの角に引っかかった指輪だ。その指輪を見た瞬間、ヴィクトールの脳裏にセレグレスの言葉がよみがえった。
『落ち着いて周りを見る目を養わないと――いつか足をすくわれてしまいますよ』
手応えのない戦場。飛んできたルル。角に引っかかったフィオナの指輪。
サントレイルの国境侵略が目眩ましで、隣国の本当の目的がフィオナの拉致であることをヴィクトールはこの時になってようやく理解したのだった。
腕に抱いたフィオナの体は、先ほどよりも随分と落ち着いていた。泣き声も止み、ヴィクトールの首に回した腕もいつの間にかするりと
「……もう、大丈夫です。……泣いてしまってごめんなさい」
「それは構わないが……。もう少し、こうしていてもいい」
「でも……」
「向こうはゴルドレインに任せてあるし、君も危険な目に遭ったんだ。落ち着くまで……いや、違う。――私が不安なんだ」
声を絞り出すように吐き出して、ヴィクトールが一度は離れたフィオナの体を再度腕の中に閉じ込めた。
「ヴィクトールさんっ?」
「君を失うかと思った」
背中に回した腕をぎゅっと強く引き寄せて、フィオナの肩口に項垂れるように頭を乗せる。首筋に顔を寄せることも、涙に濡れた頬を拭うこともできない。今だけは身を守る鎧が邪魔だった。
「無事でよかった……っ」
ぬくもりに触れたくて、けれど鎧を纏う身でできるのは額をわずかに合わせるだけで。ならば代わりにと、よじ登ってきたルルがフィオナの頬をいつものように舐め始める。その様子を心底羨ましげに見つめていたヴィクトールだったが、物欲しそうな瞳は邪魔だった鎧のおかげでフィオナにバレることはなかった。
「ルルも、お手柄だったな。いつの間にか、こんなにも頼りになる竜に育っていたとは」
「きゅるんっ!」
「私も……ふたりが無事でよかったです」
泣き腫らした目でフィオナが笑う。
フィオナを守るための戦いに出向いて、帰った屋敷にフィオナがいないことを想像すると、それだけでヴィクトールの胸がぞわりと凍えていくようだった。
無事でよかった。愛しいものを失わずにすんで、本当によかった。そう改めて実感すれば今度はやはり熱を確かめたくて、ヴィクトールは鎧で傷付けないようにフィオナの頬をそっと控えめに撫で下ろすのだった。
「困ったな」
「どうしたんですか?」
「君に口付けしたくて我慢ができない」
「……っ! 我慢して下さいっ!」
顔を真っ赤にして照れる様子も可愛くて、ヴィクトールは反論を押し込める形でフィオナをぎゅっと強く抱きしめた。二人の間でルルが非難の声を上げながら爪を立てている。けれども邪魔な鎧はここで役に立ったようで、ヴィクトールはこれ幸いと腕の力を更にきゅっと強めるのだった。
***
その後フィオナは転送魔法の組み込まれたネックレスを使って、一足先に屋敷へと戻っていった。勝手に飛び出したことについて注意は受けたものの、イレーネは戻ってきたフィオナを見るなり腰を抜かして安堵した。心配をかけてしまったことを申し訳なく思うと同時に、そんなにも大事に思ってくれていることを実感して、フィオナは胸の奥がじんとあたたかくなるのを感じるのだった。
ヴィクトールたちが帰還したのは、それから数日後のことだった。
国境での戦いがメルトシアの勝利で幕を下ろし、そのあとに行われた両国の簡易的な会談では、ティーガス国王が脅迫めいた発言でエイフォンを牽制したらしい。竜騎士団長としてその場に同席していたヴィクトールも何やら大胆な発言をしたらしいのだが、その内容をフィオナが知ることはなかった。
ただそのあと城内では、「竜騎士団長の嫁に手を出すと国が滅ぶ」という噂が流れたので、フィオナは誰かとすれ違うたびに色んな思いの混ざった視線を受ける羽目になってしまった。
とはいえ、その発言もどうやら少しは効果があったようで。
それ以後しばらくの間エイフォンは沈黙を貫き、フィオナにもようやく平穏な日々が戻ってきたのだった。
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