第17話 そんなことではないっ!
「団長さん! 団長さん、どうしようっ。ルルが……、ルルが黒くなっちゃって。羽が……っ!」
「フィオナ?」
「暗黒化しちゃったかもしれないんです。ごめんなさいっ。私のせいで……ルルが」
「少し落ち着いてくれ。フィオナ……大丈夫だから、ゆっくり息を吸って」
「……っ」
強く肩を掴まれ、身を屈めたヴィクトールに視線を合わせられる。静かな夜を思わせる深い紺色の瞳を見ると、それまで必死に堪えていた感情が一気に押しよせてきて――。
気付けば、フィオナは泣いていた。
「……あ、れ?」
それを涙と認識した途端、視界が盛大に歪んだ。わずかに目を瞠ったヴィクトールの顔が滲んで見えなくなり、瞼を押し上げた熱い涙が次から次にほろほろとフィオナの頬を濡らしてく。
嗚咽を堪えようとするたびに、涙が溢れて止まらない。泣いている場合ではないのに、ヴィクトールがあんまりにも優しく肩を引き寄せるから、フィオナはそのまま彼の胸に顔を埋めて甘えるように泣いてしまった。
「落ち着いたか?」
泣いたことで不安が薄れ、気持ちに少しだけ余裕ができた。こくりと小さく頷いてみせると、ほっと息を吐いたヴィクトールが最後に背中を優しくさすってからフィオナの体を離した。
改めて見たフィオナの姿は泥に汚れていて、お下げ髪もぼさぼさである。傷が治ったばかりの頬には新たな擦り傷が出来ており、よく見れば細い首にもうっすらと赤い痕が残っている。それを見た瞬間、ヴィクトールの中に激しい怒りが込み上げた。
「襲われたのかっ!?」
「だ、大丈夫です! 団長さんのおかげで落ち着きましたし、それにルルが助けてくれたので……。そんなことより、ルルの羽が」
「そんなことではないっ!」
怒鳴られているわけではなかったが、あまりの剣幕にフィオナの肩がびくんと跳ねた。その肩を強く掴んだヴィクトールが眉間に深い皺を寄せたまま、痣の残ったフィオナの首筋にそっと――触れようとして、寸前でぎゅっと拳を握りしめる。
「……君を、一人にするべきではなかった」
ヴィクトールたち竜騎士は常に竜と共に生活していて、竜の貴重さや珍しさに知らずと慣れてしまっていたのだ。だからルルを連れたフィオナの姿がどれほど目立ってしまうのか、本当の意味で理解出来ていなかった。その結果が、これである。
ヴィクトールは己の不甲斐なさに怒りさえ感じ、消えることのない後悔を抱えるしかなかった。
「団長さんのせいじゃありません! 私が油断してたんです。私の方こそすみませんでした」
「いや、謝るのは私の方だ。とりあえず一旦王都へ戻ろう。ルルの羽のこともあるが、君をここに置いてはおけない」
これだけ騒ぎになったのだから、襲撃者は既に逃げているのだろうと予測がつく。それでもこんなに怯えたフィオナを事件の場所へ置いておくことは、ヴィクトールの心が許さない。巡回に連れて行くことも考えたが、それよりは警備のしっかりとした王城へ連れて帰る方が安全だろう。
フィオナの背に手をやって、少しだけ急かすように歩き出す。と、数歩進んだところでフィオナが突然ぺたんと地面に座り込んでしまった。
「フィオナ!?」
「ご、ごめんなさい。安心したら、力が抜けちゃって……」
慌てて立ち上がろうとしたフィオナの腕を引くと、かすかな震えがヴィクトールに伝わった。今になって襲われた恐怖が体によみがえってしまったのだろう。
それでも大丈夫だと薄く微笑むフィオナに、ヴィクトールの胸が鋭く痛んだ。
「少し失礼する」
ふわり、と体を抱き上げられた。以前と同じ感覚に顔を上げれば、同じことを考えていたのか、ヴィクトールがふっと口元を緩めて儚げに笑った。
「こうして君を抱くのは二度目だ」
「言い方……誤解を招きます」
「そうだな」
以前よりも、二人を包む空気は柔らかい。照れがないわけでもないが、それは何となく心地良い感覚だ。
恥ずかしいけれど、嫌ではない。嫌ではないが、落ち着かない。
先ほどの不安や恐怖をやんわりと薄めてくれる優しい空気を感じたのか、ルルもフィオナの腕の中からもぞもぞと這い出してきた。羽は黒いままだったが、蒼い瞳は変わらず清らかな色に輝いている。
「ルルも、心配かけてごめんなさい」
「きゅぅん?」
大丈夫かと首を傾げたルルが、フィオナの涙に濡れた頬をぺろりと舐め上げた。ざらりとした舌の感触がくすぐったくて笑い声を漏らすと、それに気をよくしたのか今度は少し早めにぺろぺろと舌を動かしてくる。
「ふふ……ルルってば、くすぐったい」
「きゅんきゅん!」
頬はおろか鼻も瞼も舐められ、挙げ句には顔にむちっと乗り上げてくる。これにはさすがに息が出来ないので、フィオナは呼吸が塞がる前に慌ててルルの体を引き剥がした。
「ありがとう、ルル。おかげで元気に……ん? あれ?」
少し元気の出たフィオナに、ルルが背中の羽をパタパタと動かして喜びを表している。その先、黒く染まっていたはずの羽の色が、いつの間にか元に戻っていた。
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