第16話 暗黒化

 真っ暗なのは、頭から何かを被せられているからだとわかった。何も見えない状態で、体に太い腕が巻き付いてくる。暴れる体を取り押さえようとする力は乱暴で、そこにフィオナに対する気遣いなどまるでない。足も背中も、体中をどこかにぶつけて傷だらけになってもお構いなしだ。叫ばないように口元を押さえられれば、頭に被せられた布が災いして呼吸が遮られる。


「……っ! んんーっ!」


 固い地面の感触が背中に伝わって、フィオナは自分が仰向けに倒れていることを知る。ばたつく手足を押さえてのし掛かるのは、体格のいい男のようだった。口を押さえていた手が首に滑る。そのまま強く締め付けられ、フィオナは痛みと息苦しさにもう何も考えられなくなってしまった。

 息が出来ない。体が痛い。窒息するよりも先に首の骨が折れるのではないかと恐怖した瞬間、遠くなる意識の向こうでルルの甲高い声が聞こえた気がした。


「シャァァッ!!」

「ぐっ……」


 ルルの激しい威嚇音と重なるようにして、男の低い呻き声が漏れる。かと思うと首を締め付けていた力がなくなり、フィオナの肺に空気が一気に流れ込んだ。ひゅっと喉が震える。大量の空気の流れに体がついていけず、フィオナは胃の中のものを吐き出してしまうのではないかと思うほどに激しく咳き込んだ。

 耳鳴りがする。その向こうで、ルルが聞いたこともないくらいに恐ろしい声で鳴いている。心臓の脈打つ音が頭の中で強く響き、一瞬途切れていた血が体中に巡っていくのがわかった。

 首が痛い。足も背中も、頭も痛い。いつの間にか自由になっていた体はぶるぶると震えていて、フィオナは自分に掛けられていた麻袋を脱ぎ捨てるまで随分と時間がかかってしまった。


 人気のない、路地裏だった。日の当たらない地面は少し湿っていて、その上に仰向けに押し倒されたフィオナの服はすっかり汚れてしまっていた。

 男の姿は既にない。少し離れたところでは、全身の毛を逆立てたルルが背中の羽をいっぱいに広げて路地裏の先に向かってまだ吠えていた。


「……ル、ル……。ルル……っ」


 フィオナの声が掠れて届かないのか、ルルは叫ぶことをやめない。小さな足に生えた爪を地面に深く食い込ませ、まるで獰猛な獣のように鳴いている。羽は怒りに震えて膨らんで、その先を徐々に黒く染め上げていった。


「ルルっ!」


 慌てて抱き上げると、腕の中でルルが激しく暴れた。けれどそれも一瞬で、ルルはフィオナが無事であることを認識すると、広げていた羽をしゅんと畳んで心配そうに頭をすり寄せた。


「ルル……大丈夫。もう大丈夫だから。……助けてくれてありがとう」

「きゅぅん?」


 すっかり萎れた羽の先はまばらに黒く染まったままだ。それは白いルルの体を侵食するように、不気味な模様をくっきりと残している。


「これ……もしかして、暗黒化……?」


 フィオナが襲われたことに対して感じた強い怒り。殺されるかもしれない恐怖はフィオナの心を満たし、その絶望は絆を結んだルルにまで敏感に伝わってしまった。

 せっかく今まで大切に育ててきたのに、このまま暗黒化してしまうのだろうか。黒く染まった羽は戻らないのだろうか。殺されかけた恐怖の残る心に不安までが押し寄せてきて、ルルの黒く染まった羽がまた少しじわりと色を広げた。


「ダメ……っ!」


 ルルをきゅっと抱きしめて、フィオナは立ち上がった。足はまだ震えているが、フィオナが怯えたままではルルの暗黒化が進んでしまう。とりあえずこの場所を離れようと表通りへ飛び出したフィオナは、ほとんど無意識にヴィクトールの姿を探して空を見上げた。


 彼らが巡回に出てから、まだ一時間ほどしか経っていない。見上げる空は青が広がるばかりで、そこに飛竜の影はどこにも見当たらない。それがまた、余計にフィオナの心を沈ませた。

 焦りばかりが膨らんで、気持ちにどんどん余裕がなくなっていく。楽しいことを考えなければと思うのに、フィオナの脳裏に浮かぶのは羽を黒くしたルルと自分が襲われた時の恐怖の暗闇だけだ。


 行き交う人が、不審そうにフィオナを振り返る。その視線すら恐ろしく感じてしまい、フィオナはとうとう立ち止まってしまった。

 腕の中でルルが不安そうに鳴いている。一緒に泣いてしまいたい気持ちを必死に押し止め、気を抜けば叫び出しそうになる自分を叱咤しようと唇を強く噛み締めた。

 深く息を吸い込むと、肺がまだ痛い。でも大丈夫。私はまだ大丈夫だと言い聞かせ、フィオナは俯き掛けていた顔をぐいっと上げて再び走り出そうとした。

 その足を止めたのは、いま一番求めていた力強いヴィクトールの声だった。


「フィオナっ!」


 声が聞こえた方角へぱっと顔を向けると、市場の奥からヴィクトールが走ってくるのが見えた。市場の中で彼の漆黒の鎧はよく目立つ。求めていた姿を見つけた瞬間、フィオナはほとんど反射的にヴィクトールの方へと駆け出した。


「団長さん……っ!」


 脇目も振らずに走り寄った。そのままの勢いで胸の中に飛び込むと、まさか抱きついてくるとは思わなかったヴィクトールの腕から、脇に抱えていた兜が地面に転がり落ちてしまった。

 みんなが何事かと二人を見つめている。注目を集めているのは分かっていたが、ヴィクトールはフィオナの体を引き剥がそうとはしなかった。

 小さな肩が震えている。白いブラウスと薄いグリーンのスカートが、背中だけ泥で汚れてしまっている。いつものふわふわとした柔らかい笑顔はなく、その顔に浮かぶのは恐怖の名残だ。


「団長さんっ……よか……った」


 切なげな声を聞いた瞬間、ヴィクトールは無意識にフィオナの体を強く抱きしめた。






 

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