第40話 服を贈る意味
「フィオナ様。せっかくなんで、あの服を着てみませんか?」
昼食後のお茶を飲んでいると、アネッサがクローゼットから一着の服を取り出してきた。春の若葉を連想させる淡いミントグリーンのドレスは、以前ヴィクトールがフィオナに贈ったものだ。貰ってから随分と日が経ってしまったが、あまりに高級すぎるドレスに萎縮してしまい、フィオナはまだ一度も袖を通していない。
舞踏会で着るような華やかすぎるドレスとは違って、貴族令嬢がオペラなどを楽しむ時に着るような作りなのだが、そういう社会に疎いフィオナからしてみれば充分に豪華すぎる一品だ。白とミントグリーンの色合いが爽やかで、スカートに施された刺繍が上品さを際立たせている。
もちろん初めて見た時は美しいドレスに心が躍ったのだが、それを着た自分を想像するとフィオナの胸はどよんと暗くなるのだった。
「でも私には豪華すぎて……」
「何を言ってるんですか。そんなことありませんよ。旦那様がフィオナ様に似合うようにと特注で作らせたものなんですから」
「と、特注っ!? 尚更恐れ多いです」
「それほど愛されてるんですよー。それにほら、ドレスに似合うようにって、新しいネックレスとイヤリングも昨日届きましたよ」
そんな話は初耳だと驚くフィオナの前に出されたのは、深い紺色の宝石をあしらったネックレスとイヤリングのセットだ。どちらの宝石も大きすぎず小さすぎず、装飾もできるだけシンプルに抑えられている。きっとフィオナが萎縮するのを見越して、普段使いできるような作りにしてあるのだろう。
「ご自身の瞳と同じ色の宝石を贈るなんて……旦那様ったら、もうフィオナ様にメロメロじゃないですか」
そう言われると宝石から視線を感じるようで、フィオナは慌てて箱の蓋を閉める。嬉しいような恥ずかしいような、浮き足立つ気持ちとは別に、自分には分不相応な気がして素直に喜べない。
ここのところずっと、フィオナの心にはそんなモヤモヤが居座っている。
「フィオナ様。やっぱり今日はこのドレスを着て、街へ出かけましょう!」
「え?」
「綺麗に着飾って楽しむのも女性の特権です。綺麗なものに囲まれて、おいしいお菓子を食べて、ぱぁーっと気分を変えるのもいいですよ」
フィオナの憂鬱を感じ取ったのか、アネッサはそれ以上何も言わずににっこりと笑うだけだった。
美しいドレスと宝石に心惹かれるのは確かだ。着飾ってみたいとも、思う。贈られたドレスと宝石を身につけた自分を見られるのは緊張するが、幸いにも今日ヴィクトールはイスタ村へと巡回に出かけてここにはいない。それも大きな後押しとなった。
一時間後。アネッサたちメイドの手によって見事な変身を遂げたフィオナは、どこから見ても遜色のない「貴族令嬢」に生まれ変わっていた。
屋敷から城下町まで馬車を使い、目的もなくウインドウショッピングを楽しむ。一緒にアネッサが付いてきてくれたのが心強かった。
フィオナも以前は王都の外れに住んでいたのだが、貴族たちが足を運ぶ高級区画にはほとんど行ったことがない。街並みはたいして変わらないはずなのに、高級街というだけで建物も石畳も輝いて見えるから不思議だ。立ち並ぶ店も洗練された印象で、行き交う人もフィオナ以上に着飾っていて眩いばかりだ。貴族と思わしき男女とすれ違うたびに、何だかいい匂いがする。
気後れしてつい俯いてしまうのだが、その度にアネッサが背中に手を添えてくれるので、フィオナは何とか前を向いて歩くことができたのだった。
そうやって何軒かの店を回る頃には緊張も随分と
最初は必要以上に周りの目を気にしていたが、自分が思うほど行き交う人はフィオナを見ていない。それに気付くとふっと肩の力が抜けた。見ず知らずの人の目を気にするより、いまは初めての経験をアネッサと一緒に楽しみたい。そう思うと、重かった心がほんの少しだけ軽くなったのを感じた。
「今日はありがとうございます。アネッサさん」
休憩のために入ったカフェは落ち着いた雰囲気で、フィオナたちの他には数組の客がアフタヌーンティーを楽しんでいる。
「私も楽しんでいるので気にしないで下さい。イレーネ様にも許可を貰っているので、今日は思いっきり街を散策して遊びましょうね」
「あとでお屋敷の皆さんにおみやげも買っていきたいんですけど、……でも結局支払いがヴィクトールさんにいっちゃいますし、それだとちょっと厚かましいですよね」
花売りをして貯めていたフィオナの手持ちでは、屋敷の使用人全員の分のみやげを用意するには全然足りない。日頃の感謝を込めておいしいものでも買っていきたい気持ちはあるが、支払いがヴィクトールの財布になるならそれは何だか違うような気がした。
「そのお気持ちだけで充分ですよ。それにフィオナ様が贈り物をなさるのなら、ぜひ旦那様に差し上げて下さい。きっと飛び上がって喜びますから」
「そ、そうでしょうか」
「もちろん! そうやって大喜びする旦那様を見ている方が、私たちには最高の贈り物になります」
ドレスや宝石もそうだが、それ以上にヴィクトールからはかけがえのない大切な思いを貰った。揺るぎない思いはその強さに反して、フィオナをやわらかく包んでくれる深い愛情だ。貰うばかりで何一つ返せていない現状だからこそ、アネッサの言葉はフィオナの胸に強く響いた。
ネックレスやピアスなど、装飾品をつけているところは見たことがない。初めて会った時にハンカチを持っていないことを悔やんでいたが、男性にハンカチを贈るのもちょっと違うかもしれない。
何を贈ればいいのか思案していると、目の前でアネッサが嬉しそうに笑った。
「でも贈り物を買うよりも、フィオナ様のその姿を披露する方がよっぽど喜ぶかと思いますけど」
「えっ!? こ、これはちょっとハードルが高いです」
「そんなことないと思いますけど。むしろ私が最初に見てしまって申し訳ないというか……旦那様に嫉妬されそうで怖いです」
「服を見せるのは勇気がいるというか……あの、えっと……実は、服を贈る意味をレインさんが教えてくれて、それでちょっと……」
「服を贈る意味ですか?」
一瞬だけ首を傾げたアネッサだったが、すぐにその意味に思い至ったようで、彼女の口からは乾いた笑みがこぼれ落ちる。
「……あぁー、あの方も余計なことを吹き込みましたね」
「やっぱり、そういう意味なんですか!?」
「いえいえ。そう捉えることもありますけど、あの旦那様に限ってそれはないですよ。純粋にフィオナ様が着たら似合うだろうな、可愛いだろうなって……それだけしか考えてないと思いますが……。手は出したいでしょうけど、きっと式を挙げるまでは自制するんじゃないでしょうか」
優雅なアフタヌーンティーを楽しむ場とは思えないほど、会話の内容はあけすけだ。他の人に漏れ聞こえていないか心配するフィオナをよそに、アネッサは紅茶で喉を潤してまだ何か言おうとしている。そんなアネッサに、フィオナはヴィクトールの贈り物に何がいいかを訊ねることで、彼女の爆弾発言を何とか阻止したのだった。
高級街に軒を連ねる店では到底買い物ができそうになかったので、結局フィオナはよく通っていた市場にある店で大きめのブランケットを購入した。
日中はまだ暖かいが、季節はゆっくりと秋から冬に向かおうとしている。屋敷でも夜遅くまで机仕事をしていることもあるらしいので、今からの季節にはちょうどいいと思ったのだ。手触りもふわふわで、まるでルルのお腹を触っているようだ。
本当はもっと気の利いたものを贈りたかったのだが、何を贈れば喜ぶのかいまいちよく分からず、まるで友達に贈るプレゼントみたいな内容になってしまったが仕方ない。フィオナの手持ちで買えるのは、これが精一杯だ。
それでも。
この大きめのブランケットにくるまっているヴィクトールを想像すると、フィオナの頬は自然と緩んでしまうのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます