第41話 もっとよく見せてくれ

「今日は楽しかったです! アネッサさんのおかげで、少し気分が晴れました」


 屋敷に戻る頃には太陽も西に傾き始めており、空は青とオレンジの綺麗なグラデーションに染め上げられていた。

 およそ四時間ほどの散策だったが、フィオナの心は随分と軽くなっている。たくさん笑って喋ったこともそうだが、屋敷から離れて外の空気を吸ったこともよかったように思う。鬱々と悩んでいたことが完全に消えたわけではないが、前向きに頑張れそうな気がしていた。


 今まではルルを聖竜にすることで頭がいっぱいだった。隣国の脅威も薄れたいま、次にフィオナの心にのし掛かるのはヴィクトールとの関係だ。

 もちろんヴィクトールを思う気持ちに嘘はないし、思われているという現実も幸せすぎてたまらない。けれど現実を見ればフィオナはただの町娘で、竜騎士団長というヴィクトールの隣に立つにはあまりにも分不相応だ。

 屋敷の皆も竜騎士の皆も、たぶん国王も二人の結婚に反対することはないだろう。祝福してくれることは痛いくらいに分かるのに、肝心のフィオナの心が尻込みしている。立場の違いという現実が、フィオナの心にほんのわずかな恐怖を植え付けていたのだった。

 でも――。


「アネッサさん。……わたし、頑張ります」


 ヴィクトールを諦めたくない。彼に相応しい女性になりたい。

 未知の世界に足を踏み入れることに躊躇いがないわけではないが、フィオナの周りには優しくて頼りになる人たちが大勢いる。怖がらずに、少しずつ歩いていけばいいのだ。

 きっと皆は、フィオナの手を離すことはしない。それにフィオナの隣には、ヴィクトールがいる。彼は何があろうとフィオナのそばを離れず、辛い時も楽しい時もずっと一緒に寄り添ってくれるはずだ。

 そう思えば、もう何も怖いことはないのだと、胸に燻る不安の影が薄れていく。同意するように響いたエスターシャの声に顔を上げると、西日に照らされて巨大な影が降下してくるのが見えた。


「旦那様が帰ってきましたね」


 竜舎がある屋敷の裏は、エスターシャが降りられるように広く作られている。それ以上に屋敷の正面も広いのだが、庭木などが植えられているので降下には不向きだ。そもそも正面にエスターシャが降りてくることはほとんどない。

 ……ないのだが、空に見える黒い影はどう見てもフィオナたちがいる屋敷の正面へと近付いてきていた。


「何だかこちらに来てませんか?」

「旦那様の腕なら、庭木の間を通り抜けることも可能でしょうけど……でも変ですね。こちらに降りることはまずあり得ないんですけど」

「もしかして緊急事態でしょうか? ヴィクトールさんに何かあったのかもっ」


 そんな心配をしているうちに影はだんだんと大きくなり、目視でもヴィクトールの姿がはっきりと確認できた。鎧を脱いでいるヴィクトールの姿が見えたと、そう思った次の瞬間。フィオナは物凄い勢いで体を上に引き上げられた。


「きゃっ!」

「フィオナ様!?」


 驚くアネッサの声が、なぜか遠くに聞こえる。パッと目を開くと、視界に広がるのは青とオレンジの夕焼け空だ。下ろした髪を強めに梳くのは流れる風で、その強さに煽られて帽子が空高くに舞い上がる。


「あっ!」


 思わず伸ばした手を、引き止めるように強く握られた。


「これは一体どういうことだ?」


 咎めるわけではなく、ただ低い声が頭上から降ってくる。見上げれば、少しだけ眉を顰めたヴィクトールがフィオナをじっと見下ろしていた。


「ヴィクトールさんっ。いきなり引っ張り上げないで下さい。びっくりします!」

「びっくりしているのは私の方なんだが」

「え?」

「贈ってからずっと着ていなかったのに、どうして今日になってその服を? しかも私がいない時に着るとは……何かの罰だろうか」

「罰って、え? どうしてそうなるんですか」

「君が着ているのを、一番に見たかった」


 正直に、まっすぐぶつけられる思いに、フィオナの胸があまい音を立てる。

 声が低いのは、どこにぶつけていいか分からない嫉妬のせいだ。帰って来るなり強引にフィオナをかっ攫ったのは、抑えきれない独占欲だと思いたい。

 純粋に嬉しい気持ちと恥ずかしい気持ち、そしてほんの少しの罪悪感がフィオナの胸をいっぱいにする。


「……ごめんなさい」

「いや、怒っているわけではないのだが……」

「ドレス、本当に嬉しかったんです。でもこれを着るには、まだ分不相応なんじゃないかって思ってしまって。それにレインさんが言うような理由だったら……私、まだ心の準備ができていなくって」

「ゴルドレイン? アイツに何か言われたのか?」

「……がせるため、だって……」

「すまない。よく聞き取れなかった」

「……っ! 男性が女性に服を贈るのは……脱がせるためだって、レインさんが言うからっ」

「ぶふぁっ!」


 風を切る音に負けないように……というか、もう半分やけくそになって叫ぶと、頭上でヴィクトールが盛大にせて咳き込んだ。体を抱く腕も、頬を寄せている胸元も、わかりやすいほど一気に体温が上昇している。やっぱりヴィクトールもそういう理由があることを知っているのだと、そう思えば羞恥の熱はフィオナの体にも伝染した。


「ちっ、違うぞ! 断じてそんなつもりで君に贈った訳ではないっ! 君に似合うだろうと思ってだなっ、本当にそれだけだぞ! そりゃぁ確かに我慢はしているが、君がそのドレスを着たからと言って、むりやり脱がすようなことはしないっ!」

「わぁぁっ、わかってます! 私だってわかってますけどっ! やっぱり恥ずかしかったんです。似合わなかったらどうしようって思っちゃって」

「君のために作ったんだ。似合わないはずがない!」


 ぐいっと肩を掴まれて、体を離される。その少し強引な力に驚いてはっと顔を上げると、真っ赤な顔をしながらも真剣な眼差しのヴィクトールと目が合った。


「だから、もっとよく見せてくれ」

「……っ、もう……見てるじゃないですか」


 恥ずかしさに俯きかけた頬を撫でられ、そのまま顎を持ち上げられる。顔を隠したいのに帽子は空の彼方に飛んでいて、まっすぐに向けられる紺色の瞳から逃れるようにフィオナはぎゅっと目を瞑った。その拍子に、唇にふっと柔らかい感触が落ちる。


「ふぁっ!?」


 驚いて目を開けると、ヴィクトールがほんの少しだけ勝ち誇ったように笑っていた。


「なっ、なんっ」

「君が目を閉じるから、そういうことなのだと」

「わかっててやってますね!」

「さぁ、どうだろうな」

「ヴィクトールさん、最近ちょっと押しがひどいです! 前はちょっとしたことですぐに照れてたのに、今は全然じゃないですか」

「そんなことはない。今もじゅうぶん照れている。ただ、もう気持ちを抑える必要がなくなったのでな……つい」

「つい、じゃないです! 少しは抑えて下さいっ。さすがに私の心臓が持ちません」

「それは少し難しい相談だ」


 くいっと腰を引き寄せられ、わずかに仰け反ったところに、ヴィクトールが上体を屈めて距離を詰める。西日に照らされたヴィクトールの顔がとても綺麗で、恥ずかしいのに目が逸らせない。


「君があまりにも可愛いから」


 言葉を発するよりも早く、唇が塞がれる。先ほどの掠めるキスより深く、背筋が震えるほどに熱っぽい。吐息も言葉も飲み込んで、なおも強く食らい付く唇は熱く、そのままフィオナの体を溶かしてしまいそうだ。

 愛しいと思う反面、ほんの少しだけ恐ろしいとも思った。この激しく優しい熱に身を任せた時、自分はどうなってしまうのだろう。


「フィオナ」


 名を呼ばれ、自分でもわからないくらいにとろけた瞳でヴィクトールを見上げた。


「ドレス、よく似合っている」


 間近に重なる紺色の瞳に、熱に浮かされた自分の姿が映っている。女の顔をのぞかせた自分を恥じらうように目を瞑れば、それを催促だと捉えたヴィクトールが飽きもせずに唇を重ねた。

 今度はより色を纏って。優しいだけのキスではなく、その先を求めるように濃密な交わり。未知の経験に恐ろしさはあるものの、ヴィクトールの熱に溶け合えるのなら、それはとても幸福なことなのではないかとそう思うのだった。


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