第22話 君は可愛いな
「あら、旦那様? こんな所まで来られるなんて、何かご入り用ですか?」
厨房をのぞくと、ちょうどアネッサが中から出てくるところだった。普段は滅多に来ることがないので、アネッサや料理長までが驚いた顔をしている。
「フィオナがクッキーを焼いたと言っていたのでな。取りに来た」
あまりにも単刀直入すぎて、これではフィオナのクッキーが欲しくて急いで来ましたと言ったも同じことだ。もちろんヴィクトール本人にそのつもりはなかったし、そう思われることも予想していない。なのでアネッサが「まぁ!」と黄色い声を上げたことも、厨房にいた者が皆揃ってピタリと硬直したことも、その理由をヴィクトールが推し量ることはできなかった。
何かおかしなことでも言っただろうかと首を傾げていると、奥から皿にこんもりと盛られたクッキーを持ってアネッサが戻ってくる。いや、さすがに量が多い。
「せっかくだからお茶の準備をしましょうか?」
「アネッサ、それは野暮だぞ。二人きりにさせてやった方がいいだろ」
アネッサを止めたのはガーフィルだ。竜舎の方にいないと思ったら、こんな所で油を売っているとは……。
フィオナがちょっとした仕事を手伝っているのは、彼女が屋敷に世話になるばかりでは申し訳ないと気にするからだ。ここにいる間はフィオナの好きにさせてやりたいと思っているので、ヴィクトールも可能な限りは彼女のやりたいことを許可するようにしている。けれどもその裏で本来の仕事をするはずの者がサボっているのなら、屋敷の主として見過ごすわけにはいかない。
ましてやいま食べているのはフィオナの焼いたクッキーではなかろうか。
「ガーフィル。仕事はどうした? まさかフィオナに任せっきりというわけではないだろうな?」
何か地雷を踏んだらしいことは分かったので、ガーフィルは自分用にもらったクッキーの残りをヴィクトールの前で食べるのはやめにした。
「ち、違いますよ。ちょっと水を飲みに寄っただけです! それにこれは自分用にフィオナ様から頂いたものなので……安心して下さい」
「旦那様の分のクッキーは、こちらにきちんと用意してますよ。中にひとつだけハート型があるので探してみて下さいねっ!」
いつの間にかクッキーは皿からバスケットに移し替えられている。それをアネッサに押し付けられるように手渡されると、近い位置で甘い香りがふんわりと漂った。
「あ……いや、咎めているのはクッキーではなくて……」
「しかもハート型のクッキーの中には、フィオナ様からのメッセージが入ってるんですよ! どこかの国でこういうクッキーがあるらしくって……フィオナ様、楽しそうに作っていらっしゃいました」
「ほう? そんなクッキーがあるのか。珍しいな」
そう言われると探してしまうのが人の性だ。バスケットにかけられた布を摘まんで覗き込むと、砂糖をまぶしただけの素朴な丸いクッキーがぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
「フィオナ様と一緒に、お外でゆっくり味わって下さいね。あとで様子を見計らってお茶をお持ちします!」
なぜかエールを送られたような気がして、色々と腑に落ちない。けれども目的のクッキーは手に入れたし、これ以上ここにいる理由もない。なによりアネッサたちのキラキラとした視線は、どうにも居心地が悪かった。
「ありがとう。……では、もらっていく」
皆の生温かい視線を背中に感じながら厨房を後にしたヴィクトールが、フィオナの元へ戻ろうと外に出たその時――。
竜舎の方でフィオナの短い悲鳴が聞こえた。
***
ヴィクトールが屋敷へクッキーを取りに行った後、ルルの飛行訓練に付き合っていたフィオナは……なぜか今、木の上にいた。
調子に乗って高くまで飛んでいったルルが、途中で体力尽きて木の中に頭から突っ込んでしまったのである。「ぎゃうん」という悲鳴が聞こえた後、ガサガサと葉っぱが揺れるだけで姿が一向に見えない。呼べば鳴くのだが、その声が次第に「きゅぅーん」と切なさを帯びてきたので、もしかして怪我でもしたのかとフィオナは慌ててしまったのだ。
木にハシゴを掛けて上ると、青々と茂る枝葉の中にルルが翼を引っかけて蹲っているのが見える。どうやら動けないようだ。慎重に枝に跨がり、這うようにして進むと、ルルの翼を絡めている枝を掴んで隙間を作ってやる。すると自由になったルルが喜びのあまり顔面に張り付いてきたものだから、フィオナはバランスを崩して木の枝からずり落ちてしまったのだった。
その悲鳴を聞いたヴィクトールが慌てて駆け寄ると、そこには顔面にルルを張り付けたまま木にぶら下がっているフィオナがいた。
「フィオナ!? 一体何がどうしてこうなった」
「だんちょ……さん? ルルが木に引っかかっちゃって」
そのルルは翼に葉っぱをつけたまま、フィオナの頭にへばり付いている。鼻と口は出ているので呼吸は大丈夫そうだが、フィオナの筋力が持たなさそうだ。既に細い両腕がプルプルと震えている。
「いま助ける!」
背の高いヴィクトールが手を伸ばしても、ギリギリ届くのはあろうことかフィオナのお尻だ。一瞬迷った挙げ句、ヴィクトールは「すまない」と断りを入れてから、フィオナの太腿に腕を回して持ち上げるように力を込めた。
「そのまま体重を預けて……支えているから大丈夫だ」
フィオナが恐る恐る手を離すと、ヴィクトールの腕に柔らかい感触がダイレクトに伝わる。それがどこの感触か深く考えないように意識を必死に逸らしていると、両足を持ち上げられているだけの不安定な状態にフィオナの体が大きく後ろにぐらついた。
「わわっ!」
足だけはしっかり固定されているが、ルルによって視界が塞がれているため上半身の平衡感覚が失われているのだ。結果後ろに倒れようとしたフィオナは焦って体を起こし、伸ばした手に触れたヴィクトールの頭にぎゅうううっとしがみ付いてしまった。
「おふぅっ! ちょっ! 待て待てっ、フィオナ! フィオナっ、あたっ……あたっている……っ」
ヴィクトールの顔面に押し付けられたのは、あれだ。もうお尻の感触に戸惑っている場合ではない。
それでもフィオナを放り投げるわけにもいかず、かといって顔面を包む柔らかい感触を享受するわけにもいかない。冷静な判断が出来ない状況で、二人はどうしていいか分からずにただ抱きしめ合っているだけだ。
さすがに見かねたエスターシャがフィオナの襟首を噛んで引き離すと、途端にヴィクトールは糸の切れた人形の如くその場にへたりと
「団長さん、大丈夫ですか!? すみません、わたし思いっきりしがみ付いてしまって……苦しかったですよね」
違う意味で苦しかったが、とりあえず鼻血が出ていないことを確認してからヴィクトールはよろよろと立ち上がった。
「う、うむ。私は大丈夫だ。……それより君は何ともないか?」
「はい。助けてくれてありがとうございます。その……無茶してすみませんでした」
ぺこりと頭を下げるフィオナは、先ほどのことなど少しも気にしていないようだ。自分だけが異常に意識して狼狽えていることに、何だかよく分からないモヤモヤがヴィクトールの胸を満たしていく。それを悟られぬよう努めて冷静に笑ってみると、予想に反して口元がわずかに引き攣ってしまった。
「髪がボサボサだぞ」
フィオナのお下げにした髪は枝に引っかかったというよりは、ルルにしがみ付かれてすっかり解けかかっている。そのルルは懲りもせずに、今度はエスターシャの周りをくるくると飛んでいるから暢気なものだ。
「ふふ。子供って本当に元気ですよね」
竜に限らず、子供はあらゆることに興味津々だ。面倒を見ているフィオナたちからすれば大変なことの連続なのだが、今もこうして楽しそうに笑って飛ぶルルを見ていると多少の疲れなど吹っ飛んでしまう。
「団長さん? あの……何か?」
「君が髪を下ろしているのをはじめて見た」
「そういえばそうですね。いつもお下げにする癖がついちゃってて」
「髪を
そう言って、ほとんど無意識にフィオナの桃色の髪に触れた。そのまま一房を手に取ると、その感触を確かめるように殊更優しく指で撫でる。
「君は可愛いな」
「ふぇっ!?」
「ん? どうし……た……?」
フィオナが突然素っ頓狂な声を上げたので、どうしたのかとヴィクトールが首を傾げた。どうやら言葉までが自然と口を吐いて出たようで、本人は未だに何を言ったのか理解していないようだ。
それでも顔を真っ赤にして自分を凝視したフィオナを見ていると、次第に自分が何を口走ったのかがよみがえってくる。まるで走馬灯のようだ。
「ぁぁー、いやほらアレだ。可愛い髪色だなと思ってな!」
「そっ、そうですよね! ここでは珍しいですもんね。私はエルミーナさんやレインさんのように、綺麗なブロンドに憧れるんですけどっ」
「いや、君はそのままでも充分可愛いと思う、……がぁ、しかしっ、今はクッキーを食べようか。せっかく君が作ってくれたんだからな!」
「そうだ! ひとつだけハート型のクッキーがあるんです。探してみて下さいっ」
「おお、これか。メッセージが入っているとか何とか……早速頂こう!」
他と比べると、ハート型のクッキーは異様に分厚い。紙を入れているからだろうかと想像しながら噛むと、思いのほか歯触りはくにゃりとして柔らかかった。
――生焼けだ。
生地がわずかについた紙を引き出して広げると、そこには一言「いつもありがとうございます」とだけ書かれている。
ちらりとフィオナを窺い見れば恥ずかしそうに頬を染めて俯いている。ヴィクトールに胸を押し付けてきた時は全く恥じらいなど見せなかったのに、今になって照れているとは一体どこに彼女の羞恥ポイントがあるのだろう。
それでも添えられたメッセージは純粋に嬉しかったし、赤面するフィオナも、髪を下ろした姿も新鮮で可愛らしい。そんな姿を見て満たされる心を、ヴィクトールはもう無視することが出来なくなっていた。
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