第14話 ルル

 医療棟にある医務室では、今日もエルミーナのフェロモンが絶賛放出中である。体にぴったりと沿う真紅の服の上から白衣を着ているだけなのに、なぜか彼女の姿から目が離せない。無造作に結い上げたブロンドの髪が、少しだけうなじに垂れている様も妖艶だ。

 ふっくらとした赤い唇に挟まれた煙草は、フィオナが医務室を訪れると同時に灰皿に押し付けられる。吸い始めたばかりだっただろうに、エルミーナはフィオナが来ると必ず煙草を消して窓を開けるのだった。


「良かったな。お前の美しい肌には、傷ひとつ残らなかったぞ」


 フィオナの頬からガーゼを剥ぎ取ると、エルミーナは治療の最後にと、保湿剤の入った塗り薬を塗ってくれた。


「エルミーナさんの治療のおかげです。ありがとうございました!」

「ふふ。それを言うならアイツの財布のおかげでもあるな」


 治療費はすべてヴィクトールの給料から差し引かれている。頬の傷自体はそんなに深いものでもなく、治療も簡単に済む程度のものだ。けれども治療費がヴィクトールの財布から湯水のように出るので、エルミーナも贅沢で質の良すぎる治療をこれ幸いとフィオナに施してくれたのだった。

 最初こそフィオナも申し訳なく思っていたが、ヴィクトール本人から贖罪のためにもそうして欲しいと懇願され、結局はその甘い恩恵を最後まで受け取ったのである。

 おかげで傷を受ける前よりも、フィオナの肌はツヤッツヤだ。


「その本人が、今度は怪我していたようだが?」

「あれは子竜にひっかかれちゃって……」

「大方、お前に手を出したんだろう?」

「ふぁぃっ!?」

「ほう? その様子を見るに、あながち間違いでもなさそうだな?」

「もう! 知りませんっ!」

「別におかしいことでも何でもないだろう。アイツは変なところで真面目すぎるからな。式を上げて正式な夫婦になるまでは、お前に手を出さないと誓いでも立ててるんだろう。だがな、フィオナ」


 そこで意味深に言葉を切って、エルミーナがひどく艶やかに笑う。


「性欲と理性は別物だ。少しくらい発散させてやらないと、ああいうヤツほど箍が外れると何をしでかすか分からんぞ」


 言い終わるや否や、まるで見計らったかのように医務室の扉がノックされ――。


「エルミーナ。フィオナは……」

「きゃぁ!」


 顔をのぞかせたヴィクトールは、フィオナの悲鳴に目を丸くして驚いたのだった。



 ***



 にやにやと笑うエルミーナに送り出され、フィオナは今ヴィクトールと共に竜騎士団の訓練場へと向かっていた。竜騎士団はこれからイスタ村へ巡回へ行くことが決まっており、今日はフィオナも特別に同行することになっていた。とは言っても仕事の邪魔になるので、イスタ村に着いたらフィオナは別行動の予定だ。

 以前買った珍しいルルミュアの花の種を手に入れることが一番の目的だったが、もうひとつヴィクトールには言っていない目的がある。それはエスターシャの好物である果物を買うことだ。


 今の時期に実をつけるカロンの果実はモルドレイ山脈にしか生えておらず、その麓にあるイスタ村でしか買うことが出来ない。元々モルドレイ山脈に棲息していたエスターシャにとっては、懐かしい故郷の味ということだ。

 ヴィクトールたちがイスタ村へ行くと聞いてから、フィオナはこのカロンの果実をエスターシャに食べさせてあげたいと思ったのだ。そしてあわよくば、少しでも仲良くなれたら……との下心もないわけではない。


「あ、お母さんが来たわよぅ」


 訓練場に着くと、ゴルドレインが子竜を抱いたまま二人の方へと歩いてきた。ちょっと大きめの猫を抱っこしているかのようで、子竜もゴルドレインの腕の中では大人しくしている。ヴィクトールの時とは大違いだ。


「レインさん。この子を見ててくれて助かりました」

「これくらいどうってことないわ。この子大人しいし可愛いし、もう連れて帰りたいくらいだわ」

「きゅっ!」

「あぁん、もう! あざとい子!」

「……どうしてお前には懐くんだ」


 ゴルドレインに頬ずりされても少しも嫌がらない子竜を羨ましそうに見ながら、けれどもヴィクトールはもう子竜に手を伸ばそうとはしなかった。昨日の今日だ。きっとまだ怒っているに違いない……と、何となくだか予想はできる。


「フィオナちゃんを取られるって思われてるんじゃない? ひとりの男としてライバル視されてるのよ。良かったじゃない」

「良かった……のか?」

「それはそうと、ねぇ。この子に名前はつけてないの?」

「そういえば……バタバタして気が回らなかったな。フィオナ、何かつけたい名前があったら君が決めてもいいぞ」


 訳あって育てているとはいえ、子竜はフィオナのものではない。だから簡単に名前をつけていいものかどうか迷っていたのだが、その心配はどうやら杞憂だったようだ。名付けの許可を得て、フィオナの顔がパッと明るくなる。


「えっと……それじゃあ、ずっと心の中で呼んでいた名前があるんですけど……」

「なぜ心の中……」

「名前つけたらダメなのかなって思ってて。でも名前つけていいのなら……ルルって呼んでもいいですか?」

「ルル?」

「はい。ルルミュアの花の種を買いに行ったイスタ村で、代わりにこの子を拾っちゃったんで」


 安直すぎるかもしれないが、ルルミュアも白と蒼の花びらを持つ珍しい花だ。その色合いと物珍しさから、案外ルルという名前は子竜にぴったりなのではないだろうか。それに呼びやすいのが一番だ。


「いいんじゃないか? ルル。子竜に合っている気がする」

「本当ですか? 良かったです! じゃぁ、これからは気兼ねなく名前で呼びますね。ルル! あなたの名前はルルですよー」

「きゅぃっ。きゅきゅっ!」

「本当に会話してるみたいね。ヴィクとエスターシャみたいだわ。ルル、アタシの言葉わかる?」

「きゅぅ、きゅんっ!」


 ゴルドレインの呼びかけにも、嬉しそうに返事をする子竜――ルルに、今度はヴィクトールがさりげなく名前を呼んでみる。


「……ルル」

「きゅ……ゥゥン……」


 釣られて返事をしようとした声が、途中から明らかに不機嫌な音に変わった。まるで「失敗した」とでも言うように、目を細めて表情までもが渋く歪んでいる。そのうちフイッと顔を背けたルルは、フィオナの腕に抱かれても暫くの間はふて腐れたままだった。





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