第32話 君に触れたい
その後、リュールウ温泉街一帯を
襲撃場所が山の中だったこともあり、住民や街に被害が及ばなかったことは不幸中の幸いである。加えて医術師エルミーナが同行していたことも、大きな助けとなった。
治癒魔法を扱える
襲撃から二日。フィオナは、まだリュールウの温泉宿にいた。
はじめてキスをしたベッドの上には、ヴィクトールが昏々と眠っている。エルミーナの治療と、魔術師が施した治癒魔法のおかげで無事に命は取り留めたはずなのに、ヴィクトールは未だに目を覚まさない。
顔色も悪くはないし、体温もある。受けた傷は治癒魔法で回復していたし、呼吸もきちんと規則正しく繰り返されている。心配ないと、エルミーナが言うのだからそうなのだろう。でもあの深く美しい紺色の瞳を見るまでは、フィオナの心は落ち着きそうになかった。
「きゅぅー?」
腕に抱いたルルが、心配そうにフィオナを見上げた。その蒼い瞳に、苦しげなフィオナの顔が映っている。
「ルル。ごめんね。あなたの瞳、せっかく金色になったのに……私、また戻しちゃった」
フィオナがルルの変化に気付いたのは、ヴィクトールの治療が終わって皆が一息ついた頃だった。
ルルの瞳が金色に変わっていたことは、幸いと言っていいのか分からないが、フィオナとヴィクトールの二人しか知らない。だからフィオナもあえてそれを口にすることはなかったのだが、後ろめたさのようなものはずっと心の奥に重くのし掛かっている。
再び襲われたことに対する恐怖というより、今回はヴィクトールを失うかも知れないという恐怖の方が強かった。エスターシャの背に乗っている間も、ヴィクトールを崖から救った後も。そして大丈夫だと言われた今でさえ、頭の隅には「死」という言葉がべったりと張り付いている。
その不安と恐怖が、またルルを暗黒化に傾かせてしまった。
唯一の救いは、羽が黒く染まるほどではなかったことだ。
金色の瞳に変化した時のルルは、おそらくかなり聖竜に近付いていたのだろう。フィオナの不安を上回るほどの愛が、ルルの中に残っている証拠でもある。
「……団長さん」
そっと手を取って握りしめた。硬く強張った指に自分の指を絡めて、感触を確かめるようにぎゅっと両手で包み込む。
大きくて硬い、ヴィクトールの手。フィオナを守ってくれる、大好きな手。甘えるように頬を寄せて
「団長、さん……?」
ヴィクトールの長い睫毛が震え……ゆっくりと、時間をかけて瞼が開く。ぼんやりとした紺色の瞳が束の間
「……フィオナ」
「団長さん……っ!」
病み上がりだとか。傷跡は痛まないかとか。
目を開けたヴィクトールの顔を見た瞬間、そんなことは何もかも全部吹き飛んだ。
覆い被さるようにして抱きつくと、ヴィクトールが驚いたように震えてしまった。それでも躊躇いは一瞬で。ゆっくりと持ち上げた重い腕をフィオナの背に回すと、ヴィクトールは弱い力でふんわりと包み込むように抱きしめ返した。
「無事で、よかった……っ」
「あぁ……君のおかげだ。フィオナ、ありがとう」
声は囁くように弱く。けれどこぼれる吐息が、伝わる鼓動が、生きているのだと実感する。
胸に燻っていた不安はゆっくりと薄れ、それは涙としてこぼれ落ちることでフィオナの中から暗い影を追い出していく。
「私は何も……。エスターシャにお願いしただけで」
「エスターシャが来てくれたから結界を破壊できたし、皆にも異変を知らせることができたんだ。……ひとりで乗るのは怖かっただろう。よく、頑張ってくれた」
「団長さんがいなくなることの方が……よっぽど、怖かったです。それに……私、ルルの目を蒼色に戻しちゃって」
身を捩って顔を上げると、二人の胸の間で潰されたルルが「きゅぅぅー」と苦しげに鳴きながらもがき出てくるところだった。
間近に見たルルの瞳は確かに蒼に戻っている。けれどその色も蒼穹を思わせて美しい、などと暢気なことを思いながら、ヴィクトールはゆっくりと身体を動かしてルルの頭から背中まで優しく撫で下ろした。
嫌そうな顔はするものの、やっぱりルルはもうヴィクトールには噛み付かない。フィオナを傷付ける者ではないことを認めてもらえたようで、嬉しいようなくすぐったいような、そんなほんの少しだけ恥じらいを含んだ優しい気分だ。
「金色にする方法なら、私たちはもう知っているだろう?」
ルルを撫でていた手をフィオナの頬へ戻し、流れる涙を指先で拭う。涙に濡れた空色の瞳があまく揺れたのを見て、フィオナも同じ気持ちだと確信する。
「それ、は……」
「金色に戻るかどうか、試してみるか?」
頬に添えた手のひらに誘われて、フィオナがゆっくりと目を閉じる。絡まる吐息はどこまでも甘く、艶めいた熱を持って互いの唇を掠め――たかと思うと、ヴィクトールの顔を遮ってルルの体が二人の間に割り込んだ。
「ぶっ」
「きゅぅーん。きゅっ」
「……またお前か」
見れば丸い体を押し込んできたルルが、ヴィクトールより先にフィオナの頬に顔をすり寄せている。頬を濡らす涙をぺろぺろと必死に舐めている様子は、まるで泣いているフィオナを元気付けているかのようだ。
「ルル……、あのっ今はちょっと……ふふっ」
「……認められるのは、まだまだ先ということか」
「え?」
「いや、何でもない。ルルも、君を元気付けようとしているんだなと思ってな」
ルルに顔を舐められたことで、熱に浮かされてていた気持ちが正常に戻る。ヴィクトールの体にのし掛かっている状態であることに、だんだんと恥ずかしさが込み上げてきたが、なぜかヴィクトールの腕の力は弱まらない。抜け出そうとするたびに、背中に回った腕がきゅっと締まるのだ。
「あ、あの……」
「どうした?」
「……からかってますね?」
「そんなことはない」
「だったら腕を……その……はな、ぇ? え?」
明らかに戸惑いとは違う声に、ヴィクトールがほんの少し腕の力を緩めると、それまでフィオナの涙を舐めていたルルが満足したように這い出してきた。その瞳が、いつの間にか金色に戻っている。
「まだ口付けてもいないのに、金色に戻っているぞ」
「ちょっ! 生々しいですっ」
「るるーぅ?」
当の本人はコテンとベッドに転がり落ちて、そのままシーツの中に潜り込んでしまった。
「以前も、確か急に暗黒化が戻ったな。あの時も……ルルは君の頬を……いや、涙を舐めていた」
「そういえば、そうだったかも……。でも暗黒化が涙で、ですか?」
「ルルは血によって君と絆を結んだとヘイデンが言っていた。なら、血や涙……君の体液を摂取することで、もしかしたら暗黒化が戻っていたのかもしれない」
想像でしかないが、涙を舐めて暗黒化を戻したルルを見れば、それもあながち間違いではないだろう。詳しいことは城に戻って宮廷魔道士のヘイデンに意見を聞くしかない。
「もしそうなら、少しホッとしました。これからまた暗黒化しちゃった時に、対処の仕方が分かりますもんね」
「私は別の意味でホッとしたがな」
「別の意味ですか?」
首を傾げるフィオナに、再びそっと手を伸ばして。
「聖竜化のためという目的で、君に触れるのは……ずっと違うような気がしていた。暗黒化を戻す手段などではなく、私は……私が触れたいと思った時に、君に触れたい。もちろん――いまも」
「……団長さん」
「名前」
「え?」
「また、戻っている」
ふっと、柔らかく弧を描く唇から、ひどく艶めいた吐息がこぼれ落ちる。その唇を無意識に見つめていたことに気付いて慌てて顔を逸らすものの、フィオナの頬はもうヴィクトールの手のひらに優しく捕らわれてしまい。
その無骨な指先が、誘うようにゆっくりと頬を撫で下ろした。
「ヴィク……んっ」
名を呼ぶ前に唇を塞がれる。
触れて、離れて、啄むように味わって、ゆっくりと深く重なり合う。
初めてのキスのような荒々しさはない。ただとてもやわらかくて優しくて。それはまるで砂糖菓子のように甘くとろけるキスだった。
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