第19話 ひとつお願いしてもいいですか?
ヴィクトールが戻るまで起きていようと思っていたフィオナだったが、昨夜はいつの間にか眠ってしまったらしい。目を覚ますと部屋はまだ薄暗かったが、窓の外に見える空は朝焼けに白み始めていた。
恐ろしい悪夢を見たわりには、なぜか目覚めはすっきりとしている。夢の中にヴィクトールが出てきてくれたおかげだろうか。震えて泣くフィオナの手を、夢の中のヴィクトールはずっと握ってくれていた。
いつもは照れて真っ赤になる彼が、真面目な顔で慈しむように見つめてくる。フィオナの隠された願望が、夢になって現れてしまったのかもしれない。
寝起きだというのに、胸が騒がしくて落ち着かないのは、きっとそのせいだ。
窓を開けると早朝の肌寒い空気に混ざって、パンの焼けるいい匂いがほんのりと香ってくる。そういえば昨夜は夕食も食べずに寝てしまった。そう思うと途端に空腹を自覚して、素直な体は律儀にくぅ……と反応する。
朝食にはまだ随分と早いし、さすがに厨房をのぞく勇気もない。水でも飲んで我慢しようと水差しを手に取ったところで、テーブルに置いたままになったカロンの果実に気が付いた。
エスターシャには、昨日の礼もある。まだ寝ているかもしれないが、朝の散歩がてら様子を見に行くのもいいだろう。そう思うとフィオナは手早く身支度を調えて、静かに部屋を出て行った。
竜舎に近付くとエスターシャは起きていたようで、近付くフィオナを見るとゆるりと首をこちらに向けてきた。大きな羽の下には、ルルが体を丸めて眠っている。昨日の今日だからルルのことも気がかりだったが、気持ちよさそうに口を開けて寝ているところを見るとあまり心配はなさそうだ。
「おはよう、エスターシャ」
もたげた首を少し降ろして、エスターシャが鼻先をフィオナに近付けてきた。匂いを嗅いでいるのか、頭から足まで一通り様子を窺ったエスターシャは、やがて満足したように小さく鳴くとようやくフィオナから顔を離した。
「昨日はありがとう」
昨日ヴィクトールがすぐに駆け付けることが出来たのは、巡回途中のエスターシャが急にイスタ村へと進路を変更したからだ。到底声が届く距離ではなかったが、ルルの悲鳴を何かしらの形で感じ取ったのだろうとヴィクトールは教えてくれた。
「これ、昨日のお礼です。……といっても、元々エスターシャと仲良くなろうと思って買ったんですけど、下心があったから罰が当たったんですかね」
持ってきた袋の中からカロンの実を取り出すと、エスターシャが再び首を落として顔をフィオナに近付けてくる。もしかしてさっき顔を近付けてきたのは、フィオナからカロンの実の匂いがしたからなのだろうか。
身を案じられたわけではなく、ただ甘いカロンの実に釣られただけなのかもしれない。そう思ったのも束の間、エスターシャがぱくりとカロンの実を口にした。それもフィオナの手から直接にだ。
「……っ!」
触った感じ皮の分厚い果物のようだが、エスターシャには関係ない。丸ごと口に放り込まれたカロンの実は、エスターシャの強靱な顎によってしゃりしゃりとあっという間に咀嚼されてしまった。
熟した果実の甘い匂いが、竜舎にふんわりと漂う。その香りに釣られてルルも口をモグモグと動かしているが、意識はまだ夢の中のようだ。大きな欠伸をしたかと思うと、体を反転させてエスターシャにぴったりと寄り添っている。
「もう一個食べますか? 実はあと二個あるんですよ」
そう言ってもうひとつを取り出すと、エスターシャは鼻先でカロンの実をぐい、とフィオナの方へ押し戻した。そしてフィオナをじっと見たかと思うと、今度はその視線を流してルルを見やる。
「え? え? もしかして私とルルに……分けてくれるんですか?」
言葉は交わせないが、何となくそう言われたような気がした。自分とルルを交互に指差して、最後にカロンの実を食べる真似をしていると、急に後ろの方で押し殺した笑い声が聞こえた。振り向くとヴィクトールが口元を押さえて俯いている。
「団長さん!? もしかして……見ました?」
「……いや、私は何も……」
否定はするが、口の端が緩んでいるのが分かる。
「笑ってるじゃないですか!」
「君があんまり、かわい……ぃ、……いや、どうだ? もう落ち着いたか?」
むりやり言葉をすげ替えたような気がしないでもないが、昨日のことを心配していることも分かったので、フィオナはそれ以上追求することはしなかった。こくんと頷いて微笑んでみせる。
「はい。もう大丈夫です」
「そうか。不安で目が覚めたのかと思ったが、いらぬ世話だったようだな」
「昨夜はよく眠れました。心配して下さってありがとうございます」
屋敷の者が朝の準備に起きていても、主であるヴィクトールはまだ寝ていていい時間だ。それなのに起きて、外に出て行くフィオナを心配して来てくれている。その優しさに、フィオナの心はふわりと軽くなるのだった。
「昨日のお礼も兼ねて、エスターシャにカロンの果実を持ってきたんです」
「カロンか、珍しいな。喜んだだろう?」
「はい。私の手から直に食べてくれました! 残りは私たちにって、言ってくれたと思うんですけど……。三つ買ってきたので、最後の一つはお昼のデザートにもう一回エスターシャに出してみるつもりです」
「そうか。良かったな、エスターシャ。懐かしい味だったろう」
そう言ってヴィクトールが首の付け根を撫でてやると、「クルルゥ」とエスターシャが気持ちよさそうに鳴いた。
「団長さんは今日も早くからお仕事ですか?」
「いや。私は暫く屋敷にいることにする」
「え?」
「国王から、ルルの聖竜化を急ぐよう言われてな。あぁ、君が気にする必要はないぞ。今回のことはきっかけにはなったが、君のせいではない」
「……でも」
ヴィクトールの言うことも頭では分かっているのだが、事の大きさにどうしても申し訳ない気持ちが先に出てしまうのだ。これでまたルルの暗黒化が起こってしまったら、フィオナは国王にもヴィクトールにも顔向けが出来ない。
余程不安げな顔をしていたのか、ヴィクトールがぽんっとフィオナの頭を軽く撫でてくれた。
「君はひとりで頑張りすぎる。私も一緒に育てると言っただろう? もう少し、私を頼ってくれ」
頼る、と心の中で繰り返せば、昨日アネッサが同じような話をしていたことをふと思い出した。
――旦那様も、甘えてもらった方が嬉しいかもしれませんよ?
とは言えどこまで甘えていいのか、二人の距離感は微妙なところだ。遠すぎず近すぎず、隣にいても心の奥にまでは踏み込まない。その曖昧な境界線を越えない程度に甘えるとすれば、フィオナはいまヴィクトールにやって欲しいことがひとつある。
「……なら、ひとつお願いしてもいいですか?」
「もちろんだ」
「手を……握ってもらえませんか?」
戸惑いにヴィクトールがはっと息を呑むのが分かった。それでも否定をしないその優しさに、フィオナはもう少し頑張って勇気を出してみる。
「団長さんの手、大きくてあたたかくって凄く安心するんです。イスタ村で襲われた時も、それに今朝は怖い夢を見たんですけど、その時も団長さんが手を握ってくれた夢を……っ! あのっ、勝手に見ましたが……っ」
「夢……」
「あ、あの、それでですねっ、要するに団長さんの手が好きなんです。……って、あぁ、そうじゃなくって……不安になった時に、こうぎゅって違うもう何言ってるのか分かりません、ごめんなさい」
言わなくていいことまで口走ってしまい、フィオナの顔はいつものヴィクトール以上に真っ赤だ。対してヴィクトールは驚いてはいるものの、フィオナよりは涼しげな表情をしている。まるでいつもからかわれているヴィクトールと立場が逆になった気分だ。
「えぇと……すみません。いま言ったこと、忘れてもらってもいいですか?」
恥ずかしすぎて顔を上げられない。目まできつく閉じて、顔から熱が引くのを待っていると、ヴィクトールがふっと声を漏らして笑ったのがわかった。
「忘れるには少しもったいない気がする」
「え?」と声を上げるより早く、ヴィクトールに手を掴まれる。そのままそっと、まるで壊れ物を扱うように優しく握りしめられると、フィオナの胸が柔らかい鼓動を鳴らした。
「あ、あの……」
「こんなことで良ければいつでもいいのだが……それでは私の方が役得だな」
ヴィクトールの手は大きくて、骨張っていて、少し硬い。それでもやっぱり、想像していた通りとてもあたたかかった。
その熱に覚えたかすかな既視感が、今朝見た夢と重なり合う。それが確かな輪郭を取り戻す前に、目の前のヴィクトールがひどく優しく微笑んだ。
「あまり触り心地は良くないと思うが……」
「ふふ……充分です」
どちらからともなく視線が重なり、照れくさそうに笑い合う。恥ずかしさに動揺するのではなく、二人の間に流れる空気はどこまでも優しくて穏やかだ。
手を繋いで見つめ合う二人の、いい感じに甘くこそばゆい雰囲気は、このあと目を覚ましたルルによってあっけなく壊されてしまうのだった。
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