第50話 帰還[Saturnus]
二〇〇九年三月五日。
目が覚めると、何もない空間にいた。
見渡す限りの白。天井も壁もない。終わりのない無が、無限に広がっているかのようだった。
ここがなんなのか。自分がどうなったのか。何も分からない違和感と気味の悪さを覚えながら、ゆっくりと身を起こした。
風も音もない。人もいない。この訳の分からない空間に、自分はたった一人、ぽつんと存在している。
単なる夢、ではない気がした。だとすると、自分はようやく死ぬことが出来たのだろうか。
「宇野美埼だな?」
何もない真っ白な空間でぼんやりと思考を巡らせていると、聞き覚えのない男の声にフルネームを呼ばれた。
声のした方を見て、美埼は眉を寄せた。
白髪混じりの長い髪を垂らした和服姿の男が、腕を組んでこちらを見下ろしている。死神のような格好をした男と女を引き連れ、この訳の分からない空間に傲然と佇む彼は、美埼とは別の意味でまともではなかった。
「おれはネプトゥヌス。後ろの二人が、アポロとディアナだ」
計三人分の名を告げられるも、本名ではないのは明らかだ。
「貴方達は何?」
自分でも驚くほど冷静に、美埼はそう尋ねた。
「『何者』、ではなく『何』か」
「人扱いされたいんなら、少しは人らしくしたら?」
我ながら辛辣な物言いだが、ネプトゥヌスとやらが気分を害した様子はなかった。
「おれ達は死神だ」
ネプトゥヌスは、真顔でそんなことを言ってのけた。
「ここは自ら死を選び、死神となった元人間の出発点だ」
「……死神って、自分から死ねばなれるものなの?」
「選定されればな」
「ふぅん。身に覚えはないけど」
「死亡時の記憶と、それに関連する記憶は処理させて貰った」
「処理?」
言われた内容を、頭の中で反すうする。確かに、ここに来るまでの経緯が思い出せない。これが正真正銘の現実なら、ネプトゥヌスの話には一応信用の余地はある。
「なんのために?」
「死神の仕事に支障をきたさないためだ」
「私に仲間になれってこと?」
「察しが良いな」
淡々とした遣り取り。
何気なく後ろの二人に視線を遣ると、彼らが奇異な目で美埼を見ているのが分かった。とりわけ男の方が顕著で、「なんだこいつ」と言わんばかりの表情だ。
ネプトゥヌスの次の言葉は、そんな二人の心境を代弁するかのようだった。
「しかし、この話を聞いて、平然としていられる者がいるとはな。形は違えど、普通は現実逃避に走るものだが」
「私が普通な訳がないでしょう?」
平気な顔で、美埼はすかさず言った。一瞬、ネプトゥヌスの動きが止まる。
「……何?」
「自分が普通じゃないことぐらい知ってるわ。お父さんも、お母さんも、学校の皆も、誰一人として私を普通扱いしなかったもの。ただの一度もね。私が普通なら、そんなことはあり得ないわ」
そう。自分は普通ではない。物事付いた頃から。だから、ずっと孤独だった。誰かと一緒にいる時でさえ、常に孤独を感じていた。普通の中に溶け込むことが出来なかった。
ずっと一人っ子なのが嫌だった。年上でも年下でも良いから、兄弟が欲しかった。同じ環境で育った人間がいれば、少しくらいは孤独も紛れたかも知れない。
「どうせ拒否権なんかないんでしょう? 良いわ。仲間になってあげる。……どうなっても知らないけど」
ゆっくりと立ち上がる。冷めた瞳に嘲りの色を浮かべて、美埼はネプトゥヌスを見据えた。
ある日、美埼はネプトゥヌスを殺した。
手に入れた禁術を用いて、美埼は自分の過去を見た。これにより、自分の見当外れの認識が覆された。
美埼が取り上げられていた記憶は、殺人を犯した昨年の十二月二十七日以降のものに留まらず、二人の弟達の存在にまで及んでいた。
まっすぐで、世話焼きで、絵が上手い弟。引っ込み思案で、泣き虫で、花が好きな弟。二人の存在は、多かれ少なかれ美埼の支えであった筈なのに、美埼は二人を忘れていた。
理由を考えてみる。すぐに察しは付いた。
美埼の死への道は、渚に拒絶の言葉を向けられ、樹にかつての自分に戻るよう願われたあの日から始まっていた。二人に今の自分を明確に否定されたことで、美埼は悟ったのだ。自分は完全に終わった。もう引き返せない。このまま狂い続けて、朽ちていくしかないのだと。
樹達を恨んではいないし、恨む資格があるとも思わない。恨む理由もない。樹も渚も、普通に育てられた普通の人間だ。凶行に及ぶ姉を受け入れる心など、持っている筈がない。二人とも、美埼に当たり前の感情を示したに過ぎないのだ。
美埼が樹達に抱いているものは、今も昔も恨みではない。それと同じくらい醜くて、身勝手で、馬鹿げた別の感情だ。
「……ふふ」
ただ一人、声を立てて笑った。
瞳の奥が、とても熱かった。
* *
同年六月二十七日。
休日なのを良いことに、怠惰の限りを尽していた燿の元に、アポロが訪ねて来た。
「今から自死者を迎えに行く。お前も来い」
アポロの開口一番の言葉の意味する所を、気が進まないながらも自分なりに解釈した燿は、眠い目を擦る傍ら、一応の確認を取った。
「あの真っ白い所に行くの?」
「ああ。うちの課で引き受けることになった」
アポロは頷き、話を続ける。
「お前ももう一人前だ。そろそろやらせてみても良いだろうってウラヌスが言っててな」
「ふーん」
燿は興味があるのかないのか分からない顔をして、アポロに別の質問を投げた。
「どんな人なの? 今から迎えに行く相手って」
「双子のガキだ」
「子供?」
「十五」
「あらら。その若さで心中?」
「……早く来い」
「え、無視?」
アポロが見せた僅かな態度の変化に、少々の引っ掛かりを覚えたが、どうせ聞いても無駄だろう。
「サトゥルヌスみたいな地雷じゃなかったら良いね」
「怖ぇこと言うんじゃねぇよ」
そんな会話を交わしつつ、観ていたテレビを消して腰を上げる。アポロと共にウラヌスやディアナと合流すべく、燿は最低限の持ち物を携え、当時の自宅を後にした。
燿の変わり映えのない死神としての日常は、この日を境に変わっていくこととなった。
* *
同年七月二日。
今日で十六歳になる筈だった。
けれど、自分は死んでしまった。もう十五歳から先へ進むことはない。二度と年を重ねることはないのだ。
「兄さん?」
同じ日に生まれ、同じ日に死んだ弟の渚が、斜向かいの席から怪訝な顔でこちらを見ているのに気付くと、樹は慌てて取り繕おうとした。
「ああ、ごめん。ちょっと考え事してた」
「考え事……?」
「うん。皆、どうしてるかなって」
微笑み、なんでもないことを言うように声音も調整したが、渚の表情は見る見る内に曇っていった。
「そうだね……」
ぽつりと、渚は樹の言葉を肯定した。
死神となり、故郷を離れ、ウラヌスが手配してくれたアパートで二人暮らしを始めてから、今日で六日目になる。まだ慣れたとは言えないが、渚と二人で支え合うことで、なんとかやっていけている。しかし、それでも寂しさは拭い切れない。
家族とも、学校の友達とも上手くやっていた。満ち足りた毎日を送っていた。一つの不満もなかった――筈だったのに。たった半年の間に、自ら死を選ばざるを得ない何かが、自分の身に降り掛かった。その結果として、自分はここにいる。
皆に会いたい。あの満ち足りた日常に戻りたい。だが、それは永遠に叶わないのだ。
間もなく、自分達は死神として働き始めることになる。人間を見殺しにして、かつては人間だった死神を殺さなければならない。恐ろしくて仕方がなかった。
「……兄さん」
「ん?」
「僕、頑張るから……。怖いけど、ちゃんと頑張るから……。だから、一緒に……」
一生懸命話す渚の声は掠れていて、色んな感情を我慢しているのが伝わって来る。
「うん。一緒に頑張ろう」
樹は渚に笑い掛けた。先ほどの繕った笑みではなく、本心からの笑みだった。
これからは、今まで以上に助け合って生きていかなければならない。渚と一緒に。あの先輩達と一緒に。
【To be continued】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます