間章 束の間の平穏

第12話 少年少女の夜話

 その日の家事を終え、それぞれが気ままに自分の時間を過ごしていた頃。不意に耳に届いた小さな舌打ちに、宇野樹うのいつきは読んでいた雑誌から顔を上げた。

 今し方まで動画を観ていた弟のなぎさが、真っ暗になったスマートフォンの画面を不満げに見下ろしている。バッテリー切れになったのだろう。彼はスマートフォンを充電ケーブルに繋いで放置すると、テレビのリモコンを取って番組表を開いた。

「使い過ぎだよ」

 隙あらばスマートフォンを弄っている渚に、呆れつつ兄として苦言を呈するも、毎度の如く黙殺された。

 興味の持てる番組がなかったのか、渚は早々にリモコンを置き、とっくに冷めたコーヒーにようやく手を付けた。

「渚」

 樹が躊躇いがちに呼ぶと、渚は視線だけをこちらに寄越した。

「そろそろ学校行った方が良いんじゃないか?」

 渚に対し、先日から密かに思っていたことを述べる。

 渚の双眸が細くなる。彼にとって面白くない話題なのは百も承知で、それでも樹はそうして口火を切った。

 進級してからまだ数えるほどしか登校しておらず、ほぼ自宅警備員状態の渚を樹は心配していたが、渚の学校嫌い――もとい人嫌いは一向に直る兆しが見られない。出席日数のギリギリを貫く渚のやり方に、樹は毎年頭を悩ませていた。

「余計な世話だ」

 無愛想な返答。けれども、樹は食い下がった。

「もうすぐ中間テストもあるし……」

「余計な世話だと言っている」

 やや語調を強めて拒絶され、樹はうっと押し黙る。

 樹の気遣わしげな表情と、渚の石のように冷たい無表情が向かい合う。同じ顔なのに、二人はこうも違う。

 また拒絶されるのを覚悟して、樹はいま一度口を開いた。

「無理に行かせるようなことはしたくないけど……。後で渚が苦労することになるし、そうなったら僕もつらいから」

 お節介だとしても、樹の元来の世話焼きな性格が、問題を抱えた弟を放っておくことを良しとしなかった。

 昔から手の掛かる弟だった。今は昔とは少し意味が変わってしまったものの、根本的なところは何も変わっていない。渚は自分の心情など語らないし、仮に何か悩んでいても、全て心の内に留めてしまう。なので、死神になって以降に始まった彼の人嫌いも、樹はその原因をほとんど何も分かってやれていない。分かってやれていないせいで、的を射た助力も出来ず、中身の伴わない心配しかしてやれない。それが樹には歯痒かった。

 沈黙を続けていた渚が、やがて溜息を吐き出しながら樹から顔を背けた。てっきりこのまま無視されるものだと思ったが、そんな樹の予想を裏切り、彼は不承不承といった様子で告げた。

「考えておく」

 確約でないとはいえ、折れてくれたことに安堵する。

 話は終わったとばかりに、渚は空になったマグカップを持ってリビングを出て行った。程なくして、水の流れる音がキッチンの方から響き出し、テレビの音声と重なった。

 その時、樹の手元のスマートフォンが通知音を鳴らした。

 タッチパネルを操作し、通知バーから大手メールアプリを呼び戻す。送信者は諸星鈴もろほしすずだった。

 鈴の押しの強さに屈し、連絡先を交換して一週間ほどが経つが、初日に送られて来た意味不明なスタンプに、無難なスタンプを返して以降、遣り取りはしていなかった。二度目の遣り取りとなる今日、鈴から届いたのは『電話していい?』という短い文章だった。

 特に用事はないので承諾し、隣の部屋へ移動する。電話はすぐに掛かってきた。窓際に座って応答アイコンを押すと、昼に別れたばかりの鈴の声が電話越しに届いた。

『ごめんね。こんな遅くに』

「良いよ。上から掛かってきたら、切らなきゃいけないけど」

『うん。大丈夫』

 鈴が頷く。

『あのさ、樹君』

「うん」

『……』

「鈴?」

 言い淀むような間。鈴は暫く黙った後、彼女にしては珍しい、遠慮がちで緊張を孕んだ口調で切り出した。

『あたし、これからも樹君と一緒に行っちゃ駄目かな……?』

「鈴……」

『お願い。絶対邪魔しないし、今日みたいなヘマもしないから』

 酷く真剣な、ほとんど懇願に近い頼みだった。単なる好奇心でないのは、流石にもう分かる。その上で――いや、だからこそ、何が鈴をここまでさせているのか、どうしても理解出来なかった。

 樹は返答の代わりに問うた。

「聞いても良い? どうしてそこまで? 仕事によっては、怪我じゃ済まないかも知れないのに」

『それは』

 電話の向こうで、物思いに沈むような、言葉を探すような沈黙が流れた。やがて、鈴はぽつりと答えた。

『それは分かってる。分かってるけど、樹君が一人で傷付いてるかもって思うと、耐えられなくて』

 予想だにしない答えに、息を呑む。

『知らないふりするの、怖くて』

 仕事中の樹がでないのは、既に鈴には知られてしまっている。今更誤魔化しが利くとは思わない。しかし、これは樹個人の問題であり、自力で克服しなければならないことだ。これに関して、樹は他者を頼るつもりはなかった。

「鈴。あれは仕方がないんだよ。ああいう仕事だし」

 諭すための言葉は、自分への戒めでもあった。

『それも分かってる。でも』

「でも?」

『あたしは樹君が好きだから』

 スマートフォンがフローリングに激突し、微妙にスリップしてから止まった。電話の向こうで、鈴が悲鳴に近い声を上げた。

『ああああ! ごめっ、今のは違くて……っ!』

 落としてしまったスマートフォンをぎこちない動作で拾い上げ、恐る恐る耳に当て直す。心臓の音が鈴の方まで聞こえてしまっているのではないかと、そんな妄想が頭をよぎる。不意打ちをまともに喰らったせいで、自分でも信じられないほど取り乱していた。

 そして、取り乱しているのは、電話の向こうの鈴も同様だった。不意打ちを繰り出した張本人でありながら、自らも深手を負った彼女は、先の不意打ちの弁解を怒涛の勢いで放った。

『ち、ちちち違うの! その、好きっていうのは友達としてで、だから、なんて言うか、変な意味じゃなくて……!』

「そ、そう……。びっくりした……」

 どちらからともなく訪れた沈黙が気まずかった。互いの羞恥で創出されたこれを、一刻も早く終わらせる必要があった。そうしなければ、この厄介な感情に圧死させられそうだ。暴れ回る鼓動と体温が収まるのを、樹はひたすら待ち続けた。

 どれくらい経過したか定かでないが、体感では相当に長い時間だったように思う。ようやくある程度の落ち着きを取り戻した樹は、まだ黙っている鈴をこわごわと促した。

「えっと、それで……?」

『う、うん』

 一応、鈴の方も落ち着いたらしい。溜め込んだ息を一気に吐き出すような、深い呼吸の音がする。

『それでね』

「うん」

『樹君が大事な友達だから、あたしも一緒に苦しみたいの。って、さっきは言いたかったの。ごめん。力になれる訳でもないのに。だけど、あたしが見付けた時だけでも、傍にいちゃ駄目かな……?』

 拒否を恐れてか、鈴の声は小刻みに揺れている。

「……見付ける頻度が高すぎるんだよ。鈴は」

『そ、それは否定しないけど』

「でも、気持ちは嬉しいよ」

 立場上承認する訳にはいかないが、抱いた想いは伝えておく。生前も死後も、こんな言葉を掛けて貰ったことはなかった。

「あと、ちょっと安心した」

『安心って?』

「あんな話を聞いた後でも、鈴が普通に接してくれて」

 この際、こちらについても言っておくことにした。

「あの話、鈴になら聞かれても良いと思ったけど、心のどこかに怯えもあったから」

『怯え?』

「鈴の僕への態度が変わるんじゃないかって」

『あ……それ、あたしと一緒だね』

「え? どうして?」

『あたしなんかにあんな事情知られて、嫌じゃなかったかなって』

「……そっか」

 自分だけだと思っていた感情が、案外お互い様だったと今になって知る。なんだか少しおかしかった。

『樹君』

「何?」

 鈴が一拍置き、言う。

『樹君は樹君だよ。あたしは、の樹君の友達だから』

 目を見開く。まっすぐで曇りのない言葉がじわりと染みて、その温かさに少しずつ満たされていく心地がした。これが許されない想いだと、頭では理解していても。

 電話越しに鈴が笑ったのが分かって、釣られて笑う。

 ひたりと、罪の意識が這い寄る。気付かないふりをした。今だけで良い。今だけは――この罪を忘れていたかった。



【To be continued】

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