第13話 死神の苦悩
中間テストが近い。二年に進級したあの日から、学校に行く楽しみが増えたのは認める。しかし、テスト期間となると話は別だ。授業中に寝ていた皺寄せが雪崩の如く押し寄せ、その雪崩の中で陰々滅々の二週間を過ごさなければならない。
テスト範囲の発表は来週なので、寝ていられるのは今週いっぱいということになる。頭が重い。巨大な岩でも乗っているようだ。
曇天の下、学校に向かう。憂鬱な気分が、今の自分の足取りに反映されているのが分かる。俯き気味になっているのも同じ要因だ。そして、俯き気味に歩いていたが故に、気付くのが遅れた。
学校の敷地内に足を踏み入れた頃になって、ようやく顔を上げた鈴の瞳が、数メートル先を歩く二人の男子生徒の姿を映した。内一人は樹である。彼が一人で歩いていたなら、常日頃のように躊躇いなく追い付いて挨拶でもしたのだろうが、すぐにはそれに至らなかったのは、隣を歩くもう一人の存在にあった。
何か話していたらしい二人の顔が一瞬向かい合う。その顔は鏡に映したかのように同じだった。
「嘘……まさか」
前の生徒を追い越しながら、二人の背に駆け寄る。なんとか昇降口の前で追い付いた。即座に本題に入りたい衝動をいったん脇に置き、鈴はまず無難な挨拶を投げた。
「お早う。二人とも」
同じ顔が同時に振り向く。
「ああ、鈴。お早う」
応じたのは樹だ。彼の隣には、口を真一文字に結んだ渚がいる。
樹と一緒にいたのは、やはり渚だった。樹と違い、少し着崩してはいるものの、着ているのは間違いなくこの学校の制服だ。なかなか実感が付いて来ないが、本当にこの学校の生徒らしい。
渚は微かに眉を寄せると、歩みを速め、一足先に昇降口へ入って行った。樹と共に彼に続く傍ら、鈴は妙に感心しながら呟いた。
「いたんだ……。うちの学校に」
「四組にいるよ。たまにしか来ないけど」
樹が苦笑いを浮かべる。
「今日もギリギリまで渋ってた」
「良く分かんないけど、大変そうだね」
「気難しい性格だから」
昇降口で靴を履き替え、ここ一号館の三階にある教室を目指す。廊下の窓から見上げる曇天は、家を出た時よりも更に重苦しいものに変わっている。雨が降るのはほぼ確定事項だろう。
「雨、嫌だね」
「仕方ないよ」
「テスト、嫌だね」
「別に」
「えー、ずるい」
「そんなこと言われても」
「留年したらどうしよう……」
「五月にその心配する奴、初めて見たよ」
樹と軽口を叩いている内に、二組の教室が見えてきた。渚とはそこで別れた。
教室に入るなり、自然と鈴達の口数は減っていた。理由は嫌というほど理解している。
先日、二年二組の教室に三つの空席が出来た。それが、教室とそこで過ごす生徒達に暗い影を落としていた。一人の死者と二人の入院患者を出した通り魔事件の現場は、今も脳裏に焼き付いている。
三人が襲われる瞬間を目の当たりにした樹には、未だ掛ける言葉を見出せていない。樹に寄り添いたい想いとは裏腹に、伝えたいことを上手く言語化出来ない。そんな現状がもどかしかった。
* *
学校は人の巣窟だ。だから来たくなかった。
義務教育ではないので辞めても良かったが、それは兄に止められた。そして、在籍している以上は登校しなくてはならない。過去に出席日数不足で単位を落とし、兄に嘆かれてからは、若干反省して最低限は来ることにしたが、来ては後悔するのが常だった。
割り当てられた席も理想とは遠く、廊下側の前から三番目という微妙な位置だ。どこを見ても人の姿が間近にあって落ち着かない。
一限目が終わり、教室内が騒がしくなり始めた。休み時間とはいえ、やることも話す相手もいないので、バッグからスマートフォンを取り出した。少し黙思し、ゲームのフォルダを開く。単純なゲームしか入れていないが、数だけはある。
しかし、ずらりと並んだゲームアプリのアイコンに視線を這わせていると、持っていたスマートフォンが視界から消えた。
いつの間にか、目の前に男子生徒が立っていた。悪意ある笑みを湛えてこちらを見下ろす彼の手には、たった今まで使っていたスマートフォンがある。スマートフォンは彼に取り上げられたのだ。
名前など知らないが、その男子生徒は問題児の代表例とでも言うべき身なりをしていて、授業中に騒いでいたのは覚えている。
心が冷気を纏う。目が険を帯びる。
黙っていたら、問題児の方が口を開いた。
「まーたぼっちでスマホ弄りかよ。かわいそー」
「言ってやんなよ。スマホしか友達いねぇんだろ」
近くの席にいたもう一人の問題児が便乗し、二人の間で嘲り笑いが起こった。彼らから向けられた剥き出しの悪意に触れたことで、自分の中に黒い感情が込み上げて来るのが分かった。
人嫌いを抜きにしても関わり合いたくない相手。話したくもないが、それでは埒が明かないので、こちらも仕方なく口を開く。
「返せ」
「聞こえねーな」
「……っ」
腹の底から湧き上がる嫌悪、反感、怒気。膨れ上がった黒い感情を制圧するように奥歯を噛んだ。
異変に気付いた他の生徒達が、遠巻きにこちらを見ているのが分かる。多くの奇異の目に晒され、遂に耐え兼ねた。無言のまま立ち上がり、ひったくるようにスマートフォンを取り返すと、教室を飛び出した。背中に投げ掛けられた悪態も無視した。
教室から見えなくなるまで歩いた。渡り廊下付近まで来て足を止めると、奪還したスマートフォンを制服で拭った。瞼を閉じ、深く息を吐き、暴走し掛けた心を鎮火させる。まだ煙を上げているが、それで幾らかは楽になった。
少しでも気を紛らわせようと、無感動な瞳を窓の外に向ける。重苦しい灰色の雲から、大粒の雨が隙間なく地上に降り注いでいる。窓ガラスには無数の水滴と結露が起こり、雨の強さを知らしめるのに一役買っていた。眼下にある中庭には人っ子一人いない。
「渚?」
聞き慣れた声に名を呼ばれ、渚はそちらを向いた。そこには移動教室の教材を小脇に抱えた樹がいて、内心で舌打ちした。
こんな時に。樹のせいではないが、この状況は不快だった。
樹は物心付いた頃から一緒にいる相手だ。こちらの些細な変化にすら気付いてくるだろう。案の定、彼は気遣わしそうにこちらを窺いながら、渚がいま一番聞かれたくないことを聞いてきた。
「……何かあった?」
「何もない。構うな」
淡々と突き放す言葉を返す。ほとんど条件反射だ。
樹が押し黙る。けれど、まだ何か言いたげに立っている。
「渚……」
やがて、樹は言った。
「もし何かあったら言えよ。兄弟なんだから」
余計な世話だと言い掛けて、口を噤んだ。そして、制服の裾を皺になるほど強く握り締めた。
自分のこの救いようのない性格が樹を困らせ、悩ませているのは分かっている。会話を続けたところで憎まれ口ばかり叩いてしまうので、樹がここから離れるよう、渚はそれとなく働き掛けた。
「行かなくて良いのか?」
「! ああ……そうだった」
失念していたとばかりに、樹は慌ただしく踵を返した。尚もこちらを気にしながら。
「じゃあ、また」
生真面目で、お人好しで、世話焼きで、いつも気遣ってくる樹のことが、昔から気に入らなかった。
樹が渡り廊下を進み、二号館へ渡って行く。その姿を無言で見送ってから、もう一度窓の外を見る。雨は滝のように勢いを増しており、今や窓ガラスのほとんどが雨水に覆い尽くされていた。
とことん煩わしい。雨の音も、人の声も。
* *
天気予報通りなら、この殴り付けるような雷雨は今夜いっぱい続くらしい。今夜は轟音に晒されながら眠る必要がある。明日に響かなければ良いが。
「飲み物買って来たよー」
樹が夜のニュース番組を眺めていると、先ほど自販機に行くと言って出て行った
「すっごい雨だねー。全然やまないしさ」
「無理に買いに行かなくても良かったのに」
「良いの良いの。俺が飲みたかっただけだから」
定位置に座り、エコバッグを開ける燿。散々振り回されたエコバッグから取り出された飲料が、樹の手元に置かれる。
「はい。炭酸水」
「嫌がらせ?」
「レモン味だよ」
「そうじゃなくて」
樹は呆れ半分に遺憾を述べるも、燿はほとんど聞いておらず、自分用に買った紅茶で喉を潤し始めた。
「そういえば、メルクリウスは?」
「仕事。ある現場で死傷者が多く出て、応援に呼ばれたみたい」
「ふーん」
質問してきた割に関心はなさそうだ。燿の言動の多くは思い付きに基づいているため、まともに相手をするのは骨が折れる。そんな彼の言動を、樹は今日も適当に流すつもりでいた。
「鈴ちゃんとは仲良くやってる?」
早速、流せる域を超えてきた。自分の顔が引きつるのを自覚しながらそちらを見ると、真顔の燿と目が合った。
ただの世話話とは思えなかった。思い当たる節があるからこそ、言葉の裏を勘ぐってしまう。いつかは何か言われるだろうと覚悟していたが、思いがけないタイミングに、必要以上の焦燥を強いられた。罪の意識と鈍い恐怖が頭をもたげる。
「ユピテル」
「っ、別に普通だよ」
催促されるがままに答える。これが本当か嘘か、答えた自分でも分からなかった。
「そうなの? もう付き合ってんのかと思った」
「な……っ」
「冗談だよ」
たちまち吹き出した燿を見て、遊ばれたと知る。屈辱からローテーブルに突っ伏した。惨めさと恥ずかしさで顔が上げられない。
「ごめんごめん。安心しなよ。半分は冗談だから」
燿には気付かれていた。多分もっと前から。自分が彼に隠し事など、土台無理な話だったのだ。
蘇った罪の意識が胸に付き纏う。ここ最近、それは急激に頻度を増していた。樹は顔を伏せたまま、消え入るような声で言った。
「そんなの、無理に決まってるだろ」
「ん?」
「僕は死神なんだから。もう人じゃないんだから」
零した本音。誰にも言っていなかったこと。いつの間にか抱えてしまっていたもの。持て余していたもの。
樹の言葉をどう受け止めたのか、燿は珍しく沈黙した。顔は見えないし、今は見る勇気もないが、何を言われても文句は言えない。自分の至らなさが招いた事態だ。
雨の音とテレビの音に、紅茶を嚥下する微かな音が加わる。数回の嚥下音の後、燿はようやく沈黙を破った。
「なんだ。ちゃんと分かってるんだ。意外」
燿の声のトーンが落ちる。
「だから最初に言ったのに」
平淡ながら容赦のない言葉に、樹は何一つ言い返せなかった。
【間章1 End】
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