第29話 かくしごと[後編]

「来ちゃ駄目だっ!」

 燿が鋭い叫びを上げた瞬間、辺り一面に轟音が鳴り響いた。どす黒い閃光が走ると共に、燿の大柄な体が吹き飛ばされた。

 吹き飛ばされた燿の体は、駐車場内の柱に背中から衝突して止まった。燿は押し殺した呻きを発しながらがくんと膝を折り、そのまま背中を柱に擦り合わせながら座り込み、力なく項垂れた。鈴の口から短い悲鳴が迸る。樹が焦燥を露にする。

「マルス!」

 樹の声に、燿は反応しない。微動だにしない。彼を中心に、じわじわと血溜まりが広がっていく。

 。何が起きたのか理解出来ないまま、何一つ行動出来ないまま、鈴達は暫し立ち尽くす。そんな中、真っ先に動いたのは樹だった。樹は荷物を半ば投げ捨てるように置き、死神の姿に転じて燿の方へと走った。やや遅れて渚が樹に続き、鈴も可能な範囲でそちらへ近付いた。

「だから……来ちゃ駄目だって、言って……」

 燿が辛うじて発していた細声も、霧が散るように消えていった。

「珍しいわね。貴方が隙を作るなんて」

 聞き覚えのある声が聞こえた気がしたが、今は意識の外へ追い遣った。少しずつ距離を詰め、樹が立ち止まった十メートルほど手前の柱まで進む。渚の後方から顔を覗かせ、そちらを盗み見ると、樹と対峙する敵の姿がようやく見えた。

「え……?」

 黒いオーバーコートを纏い、大鎌を手にしたが立っていた。鈴はあの少女を知っている。私服とオーバーコートの違いはあれど、見間違えはしない。

 つい先日、鈴に声を掛けてきて、鈴と話をして、鈴に様々な気付きをくれた死神の少女。彼女はかつて樹達と同じ部署にいた樹達の知り合いで、名前は――。

「サトゥルヌス」

 鈴はあの少女のコードネームを呟いた。

 鈴は横文字が苦手だ。樹達のコードネームも、正確に記憶するまでには随分な時間を要した。けれど、あの少女のコードネームだけは、たった一度聞いただけで不思議と頭に染み渡った。不思議と忘れられなくなっていた。

「樹と渚じゃない。また会えて嬉しいわ」

 樹と渚を交互に見て、少女は言葉通り嬉しそうに言った。鈴と話をしたあの日と同じ、親しげで優しげな笑みを浮かべて。

 心に暗い影が落ちた。少女は裏切り者だった。かつて仲間だった樹達を裏切り、対立する立場に回った死神だった。樹と渚は今、どんな気持ちでかつての仲間を見ているのだろう。二人の心境を考えると胸が軋む。鈴は恐る恐る樹の横顔を窺い――言葉を失った。

 少女を見る樹の目は、鈴が想像していたものとは乖離していた。何も言えなくなった鈴の前で、樹がゆっくりと口を開く。 

「……?」

 仲間だった相手を見る目でも、粛清対象を見る目でもない。困惑や動揺や警戒といった感情が入り組んだような目をして、樹は少女にぽつりとそう尋ねた。

 少女の言動と、樹のそれが決定的に噛み合っていない。これはどういうことか。しかし、考えている暇はなかった。

「そう。のね」

 黒く光る大鎌を、少女は緩慢に振り上げた。

「じゃあ、

 少女がにっこりと笑う。

 大鎌が振り下ろされる。黒い閃光が樹目掛けて飛来した。


 * *


 傍目にも避けようのない速さだった。黒い光は瞬きほどの時間で樹の体を覆い尽くした。

 樹が体をくの字に折り、膝を突いてうずくまる過程で、渚は樹の大きく開かれた双眸と、真っ青な顔を垣間見た。樹は自らの頭部に両手を押し当てて、物言わずガタガタと震えている。後ろにいる鈴が呼んでも、聞こえていないかのように無反応だ。

「次はあんた」

「!」

 少女が渚を見た。

 大鎌を握る手に力が入る。一瞬でも怯んだのを悟られたくない一心で、渚は少女を険しい目で睨み付けた。が、少女は涼しい顔で声を立てて笑い、言い放った。

、良い目をするようになったのね」

 少女の言葉に息を呑む。少女は昔の渚を知っている。

 少女が再び大鎌を構える。渚は歯噛みした。次は自分の番だ。避けようも逃げようもない。自分も燿や樹のように、少女の力の前に倒れるしかないのだろう。ならば。

「……諸星。さっさと逃げろ」

「な、渚く――」

「邪魔だ」

 渚は背中越しに鈴に指示してから、少女の方へ進み出る。何も出来はしないが、無駄な被害は抑えなければならない。大鎌を持つ自分の手が震えているのが不愉快だった。

「良い子ね。渚。……あら?」

 少女は何かに気付き、肩を竦めた。

「まだまだこれからだったのに」

 詰まらなさそうに大鎌を肩に担ぎ直す少女。意図が理解出来ないでいる渚の前で、彼女は早々と身を翻し、走り去った。

 少女の靴音が遠ざかると共に、別の靴音が近付いて来るのが分かった。そちらを見る。接近する靴音は同課の女性のものだった。同課の女性は擦れ違いざまにこちらを顧みると、その人形のような顔を後ろめたそうに歪めた。

「樹君! 燿さん!」

 叫びに近い鈴の声で我に返る。脅威が去ったことにより、彼女は渚を追い越し、樹達の所に駆け寄っていた。

 渚は足早に鈴に追い付くと、依然としてうずくまって震えている樹の様子を窺った。。樹が喰らったものと、先ほど燿が喰らったものは別物か。いずれにせよ、対象が無傷であるなら、渚には手の施しようがない。

 鈴に目を向ける。人間を頼るのは本意ではないが、今は他に手段がない。

「少しの間、樹を頼めるか?」

「うん……!」

 渚の苦渋の決断に、鈴は力強く頷いた。

 速やかに燿の下まで移動し、治療を開始する。固く瞼を閉ざし、掻き消えそうな呼吸を繰り返す燿に菫色の光が届き、負傷前の状態へと巻き戻していく。

 燿が負傷しているところなど見たことがなかったし、この先も見ることはないだろうと思っていたため、一連の光景には少なからず衝撃を受けた。

 燿を倒したあの飛び道具じみた攻撃を、渚は知らない。今まで治療や蘇生がからっきしの死神達とは何度も組まされてきたが、あんなものは誰一人として使っていなかった。恐らく、あれは普通の死神の能力ではない。

「……まさか、君に助けられる日が来るとはね」

 いつの間にやら起きていた燿が、独白するように言った。もしかしなくても拗ねている。

「言っている場合か」

「場合じゃないね」

 燿は拗ねたまま肯定し、ちらりと樹の方を見た。間もなく、その顔に自嘲が浮かぶ。

「ほんと最悪だよ。かっこ悪いとこ見られるし、ウラヌスからの言い付けも守れなかったしさ」

 燿の泣き言を蔑みも慰めもせず、渚は黙々と治療を終わらせた。治療中の雑音は無視するに限る。

「ありがと。あとでおやつ買ってあげるね」

「マルス。いま何が起こっている?」

 礼と寝言を聞き流し、渚は強い口調で問いただした。敵に隙を見せるというらしくもないことをしてまで隠したい事情があったようだが、これ以上の隠し立てを許すつもりはなかった。

 燿はうっと言葉を詰まらせつつも、流石に観念したらしく、嘆息を挟んだ後、ばつが悪そうに口を開いた。

「分かったよ。白状するよ。こうなったのは俺のミスだしね。……でも、まずはユピテルの所に行こう。だいぶになってるだろうから」

 余りに不穏な台詞を吐いて、燿は自らの大鎌を拾って立ち上がった。彼にぶつけたい質問は山ほどある。しかし、今は従う他ないのは認めざるを得ない。

 燿とともに樹と鈴の傍らへ行く。鈴の涙声が耳に響いた。

「樹君! ねぇ! どうしちゃったの……!」

 呼び掛け続けながら、鈴は悲痛な面持ちで樹の肩を揺さぶっていたが、樹はあれから変わっていない。

 渚は改めて樹の状態を見ようとしゃがみ込んだ。と同時に、樹の体がぷつりと糸が切れたように力を失い、大きく真横に傾いた。

「! おっと」

 倒れて来た樹の身を燿が受け止める。樹は意識を手放していた。藍色のオーバーコートと大鎌が、風に溶けるように消失した。通常なら考えられない現象だ。

 鈴がとうとうすすり泣きを始める。対処法どころか、樹の状態すら分からない現状に耐えられなくなったのだろう。

「ユピテルが受けたのは、他人の記憶に干渉する禁術だよ」

 燿は言った。この言葉は、先ほどの少女の言葉と相まって、渚に樹の状態を半ば以上確信させた。

 燿はその大柄な体を活かし、意識のない樹を難なく背負うと、固い表情で見上げる渚達の視線に淡々と応じた。

「ユピテルはあのクソアマ――サトゥルヌスに、記憶を強制的にんだ」

 はっきりと表現されたことで、冷水を被ったような冷えに襲われた。樹の身に降り掛かったそれは、やはり渚の力が及ばない、渚にはどうすることも出来ないものだった。

 目を見開いた鈴が、愕然とした様子でようやく口を開く。

「じゃ、じゃあ……樹君は……」

「全部思い出したんだよ。自分が死んだ時の記憶も、それに関連する記憶も。一つ残らずね。二人に記憶を返すのがあいつの目的だから、次はメルクリウスを狙ってくるだろうね」

 そこまで説明すると、燿は辺りを気にしながら歩き出した。

「話はいったんここまで。続きは移動してからね」

 人が集まり始めていた。先の轟音だけが要因ではないだろう。流石に長居が過ぎた。やり場のない感情を胸に畳み込み、増え続ける人目をかいくぐって、各々が行動を開始した。



【第8章 End】

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