第45話 断たれた絆

 クロノスが消えた大部屋で、燃えるような苦痛に心身を蝕まれながら、目の前の宇野美埼を呆然と見上げる。

 親しげで優しげな笑みを湛え、優雅に佇んでいた美埼が、緩慢な足取りで距離を詰めて来た。ひっ、と喉が鳴る。歯の根が合わなくなり、口内から硬い音が漏れた。

「怖がらなくて良いのに。渚は怖がりね」

 美埼の大鎌の切っ先がこちらを捉える。しかし、攻撃はされなかった。

 傷付いた渚の体を、黒い光が包み込む。あれほど渚を苛んでいた痛みが引いてゆく。傷が修復されてゆく。痛みも傷も瞬く間に取り除かれ、たった今まで大怪我をしていたのが嘘のように、全てが元通りになった。

 敵である筈の渚を平然と治療し終えると、美埼は屈み、渚の顔を覗き込んだ。

「ふぅん。泣いてないのね。泣きそうだけど」

「……なんの真似だ」

 精一杯の虚勢。何もかも見透かされているだろうが、今の渚にはそうする他なかった。

 美埼は渚の言葉に答えることなく、緩やかに立ち上がると、鈴の音のような声で言った。

「これ以上怖がらせても可哀想だし……」

 言う傍ら、美埼は窓の方へと歩く。

「またね。渚。樹によろしくね」

 窓ガラスが割れる。美埼はにっこりと笑い、壊した窓から、軽い身のこなしで地上に舞い降りて行った。


 * *


 ガラスが割れる音。それは沈黙が張った院内には良く響いた。音の出処を探す内に、鈴と樹は二階の大部屋にたどり着いた。

 室内に探し求めていた人物がいた。無事だったようだ。見るからに安堵し、駆け寄る樹。その後に鈴も続く。

「渚」

「……」

 座り込み、曖昧な視線を下方へ落としていた渚は、樹に呼び掛けられてようやく顔を上げた。平常通り表情に乏しいものの、鈴には彼が心なしかやつれている風に見えた。上手く言えないが、どうにも別れる前と様子が変わっている。

「渚君……大丈夫?」

 先ほどまでとは違う心配が頭をもたげ、渚に声を掛けた。けれども、渚は辛うじて分かる程度に首肯するだけで、一言もなかった。元より口数が多い方ではないとはいえ、これほど静かな渚も珍しい気がした。

 渚と目線を合わせるためにしゃがんだ樹が、別の質問をする。

「どうしてここに? クロノスは?」

 短い空白を経て、渚は答えた。

「死んだ」

 想像もしていなかった答えに、思わず樹と顔を見合わせた。

「死んだって、どうして?」

 しかし、樹の二度目の質問は、答えを得られなかった。

 そんな中、歩幅の広い靴音が近付く。

「あー、いたいた」

 顔を出すなり、相変わらず場違いな調子で室内を見渡し始める燿。だが、その場違いぶりも流石に長くは続かず、彼の細い目はたちまち丸くなった。

「あれ? 何? どういう状況?」

「それが……」

 樹が言葉を濁す。説明に困っているのは確実だ。

 やがて、渚は当惑の視線を一身に受けながら、ゆっくりと立ち上がった。彼は少々離れた位置に横たわっていた大鎌を拾い上げると、黙ってこちらに背を向けた。

「渚?」

「仕事を再開する」

 そう明言した渚の声色はどこまでも淡白で、他者に己の思考を読ませないものだった。

「もう……。あとでちゃんと説明してよね」

 燿が嘆息と共に肩を竦める。

「蘇生は苦手だけど、今回は俺も手伝うよ。思ったよりいっぱい死んでたからね」

 やはり何も答えない渚に続き、燿が大部屋から出て行く。釈然としない思いを抱えたまま、鈴は樹と並んで二人を追い掛けた。


 * *


「鈴」

 駅まで送ってくれた樹が、別れ際に鈴の名を呼んだ。

 こうして呼んで貰うのは、もはや当たり前になってしまっていたが、美埼達がもたらした恐ろしい事件を経た今は、一際心に染みるものがある。

「助けてくれて有難う」

 樹の人のいい笑顔が、鈴の目の前にある。これが如何に尊いものか、今日一日でかつてないほど強く実感させられた。簡単に死んでしまうのが人の身だけでないことくらい、とっくに分かっていた筈なのに。

「情けない話だけど、鈴がいなかったら今頃――」

「良いの! そういう暗い話は!」

 樹の台詞を遮って、鈴は曇りのない笑みを返した。

「今更もしもの話したってしょうがないでしょ? 無事に帰れて良かった、で良いんだよ」

「……うん」

 樹は控え目に頷いて、落とし掛けていた視線を改めて鈴に向けた。

「鈴」

「何?」

「仕事の休みが不定期だから、すぐには無理かも知れないけど」

「? うん」

「大会、見に行くよ」

 瞠目した。思いがけない喜びに、たちまち鈴の胸は躍った。

「絶対だよ!」

 意図せず弾んだ声により、近くの通行人達の奇異の目に晒される羽目になったが、歓喜はまだまだ収まることを知らない。

 樹と別れ、一時的に一人になった後。改札を抜ける傍ら、鈴は今ここにある幸福を噛み締めた。


 * *


 日付けが変わるまで、残り一時間を切った。普段ならば、急な仕事でも入らない限り、床に就いている時間だ。

 しかし、今日は違う。樹も渚も、言葉少なに起きている。その理由が共通しているのは、互いに確認するまでもなかった。

「あいつ、何を考えてるんだろう」

「知るか」

 独り言とも問いとも付かない言葉を口にするも、暫く不機嫌が続いている渚はにべもなかった。

 あの状況を作った張本人である美埼がクロノスを殺し、渚を助けた。病院を出た後、渚がようやく樹達に説明してくれたこの真実には、驚きよりも気味の悪さが勝った。聞いた瞬間、背筋が寒くなったのを鮮明に覚えている。

「だけど……経緯がなんであれ、渚が無事で良かったよ」

 美埼の考えなど分かる訳もないし、感謝するのも馬鹿みたいな話だが、唯一それだけははっきりしている。渚は昔も今も大切な家族で、たった一人の弟だ。渚の支えがあったからこそ、あの日から今に至るまでの十年余り、樹はなんとか死神の仕事を続けることが出来ていたのだ。

 スマートフォンを弄っていた渚が、ちらりとこちらを見る。おもむろに開かれた口が、飾り気のない言葉を紡ぐ。

「お互い様だ」

「え」

 真顔で停止する樹。訝しげに眉を寄せる渚。瓜二つの兄弟は、結果的に数秒見詰め合うこととなった。

「渚」

「なんだ?」

「何か悪い物でも食べ――いっ!」

「二度と言わん」

 渚の意思で凶器と化したスマートフォンが、ローテーブルに叩き付けられる。顔面を殴られた樹は、痛みに悶えながら崩れ落ちた。

「ごめん……。いきなり素直になったから」

「金輪際、お前の治療を放棄する」

「えっ、待って! それは困る!」

「自力でなんとかしろ」

 樹は青ざめ、何がなんでも渚を引き止めようとしたが、渚はそんな兄を見捨てて、空になったグラスを手にキッチンへ引っ込んでしまった。無意識に伸ばしていた手を力なく下ろし、樹は情けなく肩を落とした。

 間もなく、樹のスマートフォンが通知音を鳴らした。それから少し遅れて、ローテーブルの上の渚のスマートフォンも鳴った。上層部からだろうか。

 自らのスマートフォンを手に取り、操作してホーム画面を表示させる。大手メールアプリのアイコンに、通知バッジが付いている。アイコンをタップし、トークリストを呼び出した瞬間、樹は凍り付いた。


『鈴の母です。鈴を知りませんか?』


 鈴のスマートフォンから送信されたメールは、リストの時点で全文が知れるほど短く、的確に異常を提示するものだった。



【第11章 End】

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