第44話 痛みと救済[後編]
「さっきはごめん……助けてくれたのに……」
個室内の壁を背に座り込んだ樹は、心許ない声音で、時折言葉を途切れさせながら鈴にそう謝ってきた。
「ううん。あたしが無茶したのは事実だし」
樹の隣に座って、鈴はゆるゆると首を振る。
「あたしは、樹君に生きてて欲しかったの。たとえ一緒に成長出来なくても、樹君と生きていたかったの。それで、気付いたら無茶しちゃってた」
やや俯き気味に、鈴は静々と語る。
「あたしは人間だから、樹君が死神でいる内に寿命が来るかも知れない。樹君はあたしが生きてる内に役目を終えて、転生することになるかも知れない。……それはもう仕方のないことだと思ってるけど、あんなお別れの仕方だけは嫌だったの」
「……うん」
樹は静かに相槌を打ち、蒼白な顔を微かに綻ばせた。しかし、彼は間もなく双眸を閉ざし、ぴたりと動かなくなった。
「樹君?……樹君っ!」
凄まじい恐怖が鈴を襲う。身震いを起こしながら樹に手を伸ばした。
より一層熱を失った体。より一層細くなり、今にも掻き消えそうな呼吸。鈴は樹の肩を包むように抱き、ただひたむきに祈り続けた。
「いかないで……」
樹の肩に顔をうずめる。いま置いて行かれたら、どうして良いか分からない。
そんな中、その声は聞こえて来た。
「なんとか無事みたいだね」
声は待ち望んでいた人物のものだ。鈴はがばりと顔を上げた。
「燿さん!」
「ありがとね。手の掛かる後輩を助けてくれて」
室内に現れた燿が、鈴に笑い掛けた。
「さて、と」
燿はすぐに眠っている樹の下までやって来ると、速やかに治療に取り掛かった。
極限まで張っていた緊張と恐怖が弛緩し、全身から力が抜けるのを感じた。しかし、まだ本当の意味での安心は叶わない。
「燿さん」
「ん?」
「渚君は……?」
「会ってないよ」
飄々と答える燿。その余りに普段通りの振る舞いは、鈴に強烈な違和感をもたらした。
「待合室に人間の死体が残ってたから、蘇生の途中に何かあったのかもね」
不自然なほど冷静な燿に、鈴は問わずにはいられなかった。
「どうして、そんなに落ち着いていられるの……?」
「落ち着いてないよ」
「え?」
「ムカついてる。っていうか、キレそう」
口調は淡々としているものの、燿の声は少しだけ低くなっていた。
「ディアナの情報網から逃れるなんて、並大抵の死神じゃ無理だよ。大方、クソアマが匿ってたんだろうね。一方の存在をちらつかせて、もう一方は隠す。俺達に、敵が一人しかいないって誤認させるためにね。ほんと、死ねば良いのに」
燿は短い沈黙を置き、再び口を開く。
「あとは……自分の甘さに、かな。クソアマがああいう奴なのは知ってた筈なのにさ」
「燿さん……」
「けどね。こういう非常時こそ、俺が落ち着いてるふりするしかないんだよ。ユピテルもメルクリウスも、まだまだ青いからね」
燿の話と樹の治療が終わったのは、ほぼ同時だった。
治療を済ませて早々、燿は涼しい顔で樹を引っぱたいた。ぎょっとする鈴の前で、樹が目を覚ます。樹は少々ぼんやりした様子で遅緩に辺りを見回した後、やがてこちらを認識した。
「鈴……マルス……?」
「おはよ。もう夜だけど」
覚束なくも言葉を発した樹に、燿がしょっぱい対応をする。
意識が明確になってきたのだろう。鈴達がじっと見守る中、樹は唐突に狼狽え始めた。
「そ、そうだ! 渚は?」
「会ってないよ。待合室――って、もう良いよ。このくだり」
嘆息する傍ら、大鎌を担ぎ直す燿。彼はさっさとこちらに背を向けると、背中越しに樹を促した。
「ほら、早く立って。手分けして探すよ」
燿が歩き出す。樹は慌てて大鎌を手に取り、鈴と一緒に立ち上がった。張り詰め、一切れの余裕もない樹の横顔に、鈴は鼓舞の言葉を放つ。
「行こう! 樹君!」
樹は今度こそ力強く頷いた。
床を蹴り、個室を抜け、一行は廊下を駆ける。
* *
目の前を覆っていた漆黒が、霧が晴れるように取り払われてゆく。
薄らいでいた感覚が少しずつ修復されてゆき、やがて視界に現れた見覚えのある白い床を認識した。この大部屋を認識した。
直後、頭部に鋭い痛みが走った。それにより、渚の意識は完全に覚醒した。
「ああ、やっと起きた」
頭上から、声変わり前の少年の声が降りて来た。脈打つような痛みが持続する中、渚はゆっくりと顔を上げた。
一見すれば無邪気な、しかし、明確な悪意の宿った眼差しでこちらを見下ろすクロノスを、渚は強い敵意をもって睨め上げる。それが虚勢でしかないのは自覚しているが、昔のように馬鹿正直に弱みを見せるのは、今の渚には耐えがたいものだった。
「怖い顔しないでよ。菫色の癖に生意気だよ」
クロノスが声を立てて嘲笑う。苛立ちと屈辱と自己嫌悪に心を焼かれながら、渚は密かに唇を噛んだ。
まだ助けていない人間達がいる。樹と鈴の安否も不明だ。こんなことをしている暇はないのに。
「それにしても、びっくりしたなぁ。ちょっと吹っ飛ばしただけで気絶するんだもん」
そう言いながら、クロノスは辛うじて大鎌を掴んでいる渚の右手を踏み付けた。新たな痛みが加わる。そのまま右手を何度も床上に擦り付けられ、渚は苦痛に顔を歪め、声を殺して呻いた。
「自己治療されたら面倒だからね」
「……っ」
右手はすぐに激痛に萎え、力が入らなくなった。大鎌は力が緩んだ手からあっさり取り上げられ、部屋の隅へと投げられた。
「さて。また逃げられても困るから――」
クロノスは正面から反時計回りに移動し、渚の足元へと回り込むと、おもむろに自らの大鎌を振りかざした。
咄嗟に起き上がろうとした渚のふくらはぎに、強い衝撃が加わる。訳も分からないまま全身が一瞬大きく跳ねて、すぐに力を失って沈んだ。
大鎌が引き抜かれ、そこから生温かいものが流れて行くのが、見るまでもなく分かった。先の痛みとは比較にならない、頭が真っ白になるほどの痛みが表れ、感情とは別の涙が滲み出る。脂汗が伝う。喘ぐように呼吸しながら、必死に意識を繋ぎ止めた。
そうする内に、頭上からまた無邪気な声が掛けられた。
「そんなに痛い? 手加減したのに。……ああ、そっか。渚君は菫色だから、痛みに慣れてないんだね」
あらゆる思考と感覚が、刹那的に停止する。言葉にならない何かが、じわじわと込み上げて来る。
「菫色って楽だよね。戦わなくて良いし、殺さなくて良いし、見殺しにしなくて良いし、悪夢見なくて良いし」
痛みからでも、熱の喪失による冷たさからでもない。これらとは一線を画す震えが、渚の全身を覆い尽くした。
「……それ、死神全員に支給されるんだっけ」
クロノスが示す先に目を向ける。気付かない内に落としてしまっていたらしい、あの風変わりなペンダントが見えた。
「でも、君のは随分綺麗だね。使ってないの?」
「……さい」
「ん? 今なんか言った?」
白々しい台詞を無視し、激痛を耐え忍んで床を這った。傷付いた手を伸ばし、掴んだペンダントを引き寄せると、そのまま縋るように握り締めた。
「そんなに大事? 使わないのに?」
「うるさい!」
激情に任せて叫んだら、また泣いてしまいそうになった。けれど、意地でも泣かない。もう弱いまま終わるのは嫌だった。
クロノスが再び目前にやって来る。彼の大鎌が、緩慢に振り上げられた。
「嬉しいよ。久々に死神を殺せて」
向けられる嘲りを、ただ聞く。
――今度は自分が皆を助ける。ベランダから身を投げ、地上にぶつかる間際に誓ったこと。
瞼を閉ざし、確定した消滅の時を待つ。しかし、いつになっても、渚の身にはなんの変化も生じなかった。
金属が床を叩く音。次いで、重みのあるものが床に叩き付けられる音が鼓膜を震わせた。
「……なん、で……」
そんな微かな声を聞いた。恐る恐る瞼を開く。クロノスが消えていた。
何が起きたのか、まるで理解出来なかった。嫌というほど聞き慣れた、第三者の声を聞くまでは。
「言った筈よ。余計なことはするなって」
目の前に、黒いオーバーコートを身に纏い、大鎌を携えた宇野美埼が佇んでいた。彼女は無表情から一転、例の微笑みを浮かべると、絶句する渚を静かに見下ろした。
【To be continued】
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