第43話 痛みと救済[前編]

 国道を走っていた大型バスが、ガードレールを越えて崖から転落して行く。木々を薙ぎ倒しながらもその勢いはとどまる所を知らず、轟音と共に崖下に叩き付けられたバスは、原型が分からないほど大破していた。

「あちゃー。大惨事ってやつだね」

 国道で一部始終を見届けた燿の声調は、普段となんら変化はない。死神初心者だった頃は割とそうでもなかったが、残念ながら今はこんな感じだ。慣れとは恐ろしい。

 転落したバスの近くに、見慣れた黄色い光が灯る。その光を目印に、燿はふわりと崖下に降り立った。

「アポロー、やっほー」

「やっほーじゃねぇんだよタコ。来んのも遅ぇ」

「まあまあ。上でちゃんと見届けたんだし、許してよ」

「ったく……。ほら、急げ。騒ぎになんのも時間の問題だ」

「了解ー」

 軽快な調子で返事をしつつ、呆れているアポロと共に回収作業を開始する。

 大鎌を操り、人間の魂を壊れた肉体から切り離す。蝶の姿に転化した魂が宙を舞い、こちらへやって来ると、それをゴシック調の風変わりなペンダントに収めていく。任される仕事の大半が戦闘である燿は度々忘れそうになるが、これが死神の本来の役目だ。

「ねぇ」

「なんだ?」

「なんで蝶々なんだろうね」

「蝶は霊魂の象徴みたいな話なら聞いたことあるぞ」

「ふーん」

 すぐに黙っているのがつらくなり、アポロに話し掛けてはみたものの、適当に出した話題はどうも長続きしない。

「ねぇ」

「なんだ?」

「命って呆気ないよね」

「急にどうした」

「なんとなく?」

「おれに聞くな」

 付き合い切れないとばかりに視線を逸らされてしまった。以降は何を喋ってもまともに取り合って貰えず、暫くは退屈な時間だけが過ぎて行った。

 面倒臭いとか、面白味がないといった不謹慎な考えを起こしていると、ポケットの中のスマートフォンが振動した。いったん作業を中断し、スマートフォンを取り出す。画面に表示された発信者名を見て、燿は微かに眉を寄せた。

「……鈴ちゃん?」

 例の如く樹達に付いて行った鈴からの着信。何故だろう。そこはかとなく嫌な予感がする。恐る恐る通話アイコンをタップし、恐る恐る耳に宛てがうと、こちらが何を言う暇もなく、電話の向こうの鈴が甲高い声で喋り出した。

『燿さん! 二人が危ないの!』

「なんでそうなるの!? 相手クロノスだよね!?」

 桁外れな驚きと呆れと嘆きに息の根を止められそうになりながら、燿は鈴よりも二回りは大きい声を上げた。

『そ、それが、どこにもいないの!』

「え?」

 完全に意表を突かれ、二の句が継げなくなった後も、鈴の言葉は続いていく。

『いま樹君がと戦ってて、クロノスはどこにいるか分かんなくて、渚君は電話に出てくれな――』

「待って。鈴ちゃん、いま院内のどの辺にいるの?」

 平静を失った鈴の纏まりのない説明でも、現状の異常さには嫌というほど理解が及んだ。ならば、こちらから問う内容は最低限で事足りる。

『えっと、待合室から左側の通路を進んで、階段の所にいるんだけど、樹君はその二つ手前の部屋で戦ってる!』

「何階?」

『一階!』

「ん。分かった。ちょっと待ってて」

 聞くべきことを聞き終えると、速やかに通話を切った。首に提げていたペンダントを外し、無言のままアポロに投げ渡す。

「アポロ。あとよろしく」

「は?」

「じゃあね」

「おまっ、マルス! どこ行く気だ!」

 哀愁を含んだアポロの喚きは聞き流す。燿は高く跳躍して、一人国道へ舞い戻った。


 * *


 空の色がゆっくりと移ろっていく。夜が近付いて来ている。夜は罪人の味方だ。今日はあと何人やれるだろうか。

 楽には死なせない。人間と死神れんちゅうには、せいぜい苦しみ抜いて死んで貰う。それが似合いだ。

「あっちも上手くいってると良いけど」

 クロノスは呟き、足元に視線を落とす。頭部から血を流して倒れている渚を見下ろしながら、彼は無邪気に微笑んだ。


 * *


 幾度となく途切れ掛けた意識を繋ぎ止め、樹は立っていた。

 痛みと熱に身を焼かれ、呼吸は荒く、浅い。苦痛による涙が目尻に溜まっている。視界が湿っている。

 今は大鎌を杖のように突き、辛うじて全身を支えているが、これもいつまでもつか分からない。こんなことをしている場合ではないのに。こんな所にいる場合ではないのに。焦りと苛立ちが体の動きを鈍らせる。

 痛い。そして、怖い。自分が死んでしまうことよりも、自分のせいで大切な者が死に、いなくなってしまうことが。

「見くびってたよ。樹君って、思ったより強いんだね」

 満身創痍なのは樹だけではなく、目の前の死神も同様だった。。樹がろくに動けなくなったのを幸いとし、死神は自らが負った傷の治療を始めていた。ここまでの樹の苦痛と消耗は、今にも無に帰そうとしている。

「本気で死んじゃうかもって思ったけど……君が欠落品で助かったよ」

 胸を抉られるような嫌味と嘲笑に晒されながら、崩れ落ちそうな我が身を内心で叱咤する。傷だらけの足を引きずり、死神の方へと近付こうと動く。けれど、ほとんど前に進むことは叶わず、樹はその場に膝を突いた。

「……くそ……」

 自分への呪詛。心の中は自責と自虐で溢れ返っていた。

 許せなかった。いつまでも燿のように強くなれない自分が。戦う力が備わっているのに、誰も守れない自分が。藍色の自分が。情けなくて、泣いてしまいそうなほど悔しかった。

 あの日、クロノスを取り逃してさえいなければ、こんな悪夢は訪れなかった筈だ。この状況を招いたのは自分だ。何もかもが不甲斐ない自分のせいだ。

「残念だったね」

 死神がこちらへ歩いて来る。傷はほとんど癒えていた。そんな彼女を、樹は力ない瞳で見上げる。

 あらゆる望みを失った樹の耳に、それは微かに届いた。

 ぱたぱたと忙しない足音。視界の片隅に映った、少女の姿。

「鈴……?」

 痛ましい表情を浮かべた鈴が、室内に駆け込んで来た。


 * *


 迷っている暇はなかった。怯えが入り込む隙間すらなかった。

 一心不乱で死神の背中に飛び掛かった鈴は、死神を巻き添えに床上へ倒れ伏した。死神が思わぬ奇襲に短い悲鳴を上げる。視線を死神に固定したまま、鈴は樹に向けて声を荒らげた。

「樹君! 早く!」

 鈴の大胆かつ無謀な行動に愕然としていた樹が、はっと息を呑んだ。

「この……っ! 離して! 離せ! 人間の癖に!」

 喚き散らしていた死神は、間もなく凍り付くこととなった。

 底を尽きそうな力を振り絞り、樹が再び立ち上がる。計り知れない苦痛に酷く顔を歪めながら、彼は小刻みに揺れる両手で大鎌を持ち上げた。

「い、嫌……」

 死神の声が大きな震えを伴う。憤怒の色はすっかり失われ、絶望に塗り替えられていく。

「どうして……あんな連中の味方なんてするの? 記憶を取り戻したのに、どうして裏切らずにいられるの……?」

 涙を流し、死神は縋るように樹に問うた。

 樹は瞳に微かな悲愴を宿して、失血により変色した唇を小さく動かした。

「二度と後悔したくないから」

 その言葉にたくさんの想いが詰まっているのを、鈴は知っている。これほど重みのある言葉が他にあるだろうか。

 大鎌が纏う藍色の光が、より一層強くなる。樹は静かに瞼を閉じると、大鎌をまっすぐに振り下ろした。強く痙攣し、脱力した死神の体が霧散するように消えて行く。後には何も残らない。死神は魂ごと無へと葬られたのだ。

 表現しがたい複雑な感情を胸に仕舞い、鈴は立ち上がった。その時、樹の身がぐらりと傾いた。

「! 樹君っ!」

 咄嗟に支えた体は冷たく、血でぐっしょりと濡れていた。立っていられたのが不思議なくらい酷い怪我だ。しかし、樹は尚も動こうとする。

「早く……行かないと……」

「駄目!」

 鈴は語調を強め、樹を制した。

「そんな体で何が出来るの! そんな体じゃ、助けられるものも助けられないでしょ!」

「でも、このままじゃ……っ」

「大丈夫。もうすぐ燿さんが来てくれる。あと少しだから」

 樹に諭すと同時に、自分にも言い聞かせる。鈴にとっても、渚は大事な友達だ。

「だから、あと少しだけここで待とう? ね?」

 苦悶の表情で口を噤む樹。彼も頭では分かっているのだ。その上で、自分を納得させられずに苦しんでいる。暗い目を伏せ気味に、彼は暫く葛藤する様子を見せていたが、長い無言の末、ほとんど聞き取れないか細い頷きを返した。

 憂いの内一つが取り除かれ、鈴はほっと息を吐いた。

「……なんで」

「え?」

 怒気を孕んだ樹の声がして、すぐに視線を戻す。俯いた樹の顔は良く見えない。

「なんで……あんなことしたんだ」

 何を言われているかは分かった。

「そんなの、樹君を助けたかったからに決まってるよ」

「だからって……」

「置いて行かれたくなかったの」

 樹の言葉を遮る形で、鈴は言った。

 掠れた自分の声。瞳の奥が熱い。やはり、抑えられなかった。

 先程の死神が小学生ほどの体格だったこと。鈴に背中を向けていたこと。これらが重なり合って成功したあの無茶は、当然失敗に終わる可能性もあった。樹が怒るのは当たり前だ。失敗した際のリスクは、鈴とて重々承知していた。それでも。

「あたし、もう樹君なしじゃ生きていけないよ……っ」

 樹を失いたくなかった。一度は死んでしまった彼と、この先も一緒に生きていたかった。



【To be continued】

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