間章 記憶の欠片
第22話 最後の時間[Mercurius]
あれから数時間が経過した。今でも燃え尽きたままでいる。
入浴を終えた後も、
「どうしたの、鈴? 帰って来てから変よ?」
母親の
「なんでもないよー」
「もう……。することがないなら、早く寝ちゃいなさい。明日も学校でしょう?」
「んー」
気の抜けた返事をして、腑抜けた顔を上げる。そこで、リビングテーブルの上に置かれたままの一枚のチラシが視界に入った。雷に打たれたような衝撃が走り、目が釘付けになった。
「これだ!」
「え?」
「お休みなさーい!」
ぽかんとする鏡花に答える余裕もなく、鈴は自室のある二階へ駆け上がった。
* *
二〇〇八年九月八日。
中学校生活も残すところ半年余りとなったが、文化部所属の
照り付ける日差しはまだまだ強く、こうして屋外で活動していると、全身からじんわりと汗が滲んで来る。
プランターを正面玄関へ運んでいた渚の後方に、複数人の足音が近付いた。特に気に留めていなかったその足音は、急に早足になって、間もなく駆け足に変わった。
真横までやって来た複数人の姿が視界の片隅に入った瞬間、足に小さな衝撃が走った。何が起きたのかも分からないまま、渚は大きくバランスを崩し、前のめりに転倒していた。
「っ!」
全身を打ち付け、鋭い痛みに見舞われる。苦痛に呻いていると、頭上から笑い声が降って来た。恐る恐る顔を上げる。三人のクラスメイトがこちらを見下ろし、嘲り笑いを浮かべていた。自分が何をされたのか、今更になって理解が及んで、目頭が急激に熱を帯びた。怒ることも抗議することも出来ないでいる渚を嘲りながら、三人は軽快な足取りで平然と立ち去って行った。
弱々しく身を起こし、運んでいたプランターを見る。プランターは無残にも倒れ、中身が散乱していた。視界が滲む。座り込んだまま、渚は声を殺した。
後方から足音が近付く。今し方の体験が脳裏に浮かび、びくっと身が震えた。全身が冷水を浴びせられたかのように冷え、気温とは別の要因で汗が吹き出た。怖気付いて、体が動かなくなった。
足音が真後ろで止まる。振り返る勇気もなく震えていた渚に、声が掛けられた。
「渚?」
昔から知る声だった。後ろを振り向くと、双子の兄の
「また泣いてる」
樹が傍らにしゃがみ、顔を覗き込んできた。彼の悲しそうな微笑を見て、たちまち申し訳ない気持ちになった。そして、彼にこんな顔をさせてしまった自分が、情けなくて仕方なかった。
手の指で涙を拭い、ずれた眼鏡を直す。渚がそうしている内に、樹の視線が倒れたプランターに移った。
「渚、これ――」
「転んだ……」
慌てて言い訳をした。嘘は吐いていない。
「転んだって、また?」
「うん」
「怪我はしてない?」
「してない」
目も合わせず、蚊が鳴くような声で受け答えをする。
十五歳になったにも関わらず、自分はまだこの体たらくだ。たかだか十数分遅く生まれただけだというのに、樹とは雲泥の差だ。一人で落ち込んでいると、下がり気味の頭に手を置かれた。
「僕も手伝うから、もう泣くなよ」
「……兄さん」
「うん?」
「いつもごめん……」
もごもごと口にした謝罪は、限りなく囁きに近い。
「良いんだよ。これぐらい」
申し訳なさで顔が上げられないが、樹が笑ったのは分かった。
外向的で友人の多い樹。内向的を極め、周りの目を気にして怯えるばかりの渚。樹は常に助ける側で、渚は常に助けられる側だ。顔が同じでなければ、誰も二人を同い年とは信じないだろう。
いつになったら、自分も樹のようになれるのだろうか。
同年十二月二十七日。
両親に留守番を任され、二人でリビングで過ごしていた。
手持ち無沙汰にしている渚の向かいでは、樹がリビングテーブルの上に置かれた籠の中の果物をデッサンしている。樹の受験勉強の息抜きといえば、大半が絵に関することだ。
渚が熱心に絵を見ていると、樹は若干はにかみながら言った。
「見ても面白くないよ」
「……そんなことない」
「そ、そう?」
樹なりの照れ隠しなのは知っている。その照れ隠しに発せられた言葉を、控え目ながらも否定した。面白い面白くないくらいは、見る側の自分が決めても怒られはしないだろう。
「渚」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
「何……?」
「次、あれ描いても良い?」
樹が窓辺の室内用植木鉢を指す。植木鉢の中の青いセントポーリアは、以前から渚が育てているものだ。それを描きたいと言って貰えたのが嬉しくて、変化に乏しい表情が綻んだ。
「良いよ」
「良かった。有難う」
「うん」
頷いて、再び樹の絵を見ようとした時、固定電話が鳴った。
「ま、待って。僕が出るから……」
身内以外の人間と話すのは苦手だが、デッサンの邪魔をしてはいけない。立ち上がろうとした樹を止めて、渚は電話の方へ急いだ。
宇野渚の生前の記憶は、ここで終わっている。
* *
樹と渚が仕事を終えて帰宅すると、ぱらぱらと雨が降り始めていた。まだ本降りとは言えないものの、そうなるのも時間の問題のように思えた。
浴室の湯が沸くまでの申し訳程度の空き時間を活用するため、樹がスケッチブックを開いたのと同時に、渚が室内に戻って来た。雨に弱い花を室内に避難させるため、大窓から庭へ出ていたのだ。大窓が閉められ、ほんの僅かに強さを増した雨音が遠くなった。
渚が避難させた植木鉢が、応急処置に用意したタオルの上に置かれた。植木鉢の中を見る。それぞれ、赤とピンクと淡い紫の大輪の花が咲いている。渚の影響で多少身に付いた知識によると、ペチュニアという名前の花だ。
渚の髪が濡れていたので、樹は洗濯籠の中から新しいタオルを取り出し、渚に手渡した。
「はい」
「……」
渚は何も言わず、虚無的な表情のまま受け取り、髪を拭きながらいったん定位置に座り直した。
樹は改めてスケッチブックに向き合い、デッサン用鉛筆を手に取った。死神になって以来、絵を描くゆとりはほとんどなくなってしまったが、少しでも時間が空けば描きたくなるのは、きっと性分というものなのだろう。
今やっているのは、室内風景のスケッチだ。定期的に活動拠点の入れ替えがあるため、このアパートにも長くいられる訳ではない。描ける内に描いておこうと思ったのだ。
黙々と作業をしていると、ふと視線を感じて顔を上げた。目の前の無感動な瞳が、絵を眺めるように見下ろしていた。決して嫌な訳ではないが、余り見られると照れる。
「見ても面白くないよ」
「お前が決めるな」
「ご、ごめん」
照れ隠しの言葉を一蹴され、つい謝る。
渚は根本的な所は何も変わっていないのに、他者に見せる振る舞いはすっかり変わってしまった。そんな彼に、樹は長らく頭が上がらない状態でいる。いつの間にか立場が逆転していたことについて、周りからは随分とからかわれたものだ。
「渚」
気を取り直して名前を呼ぶと、無感動な瞳がこちらを見た。
「次、それ描いても良い?」
植木鉢を指し、尋ねる。渚はにこりともせず答えた。
「好きにしろ」
「良かった。有難う」
素直に礼を言うも、微妙に嫌な顔をされた。よくあることだが、理由は未だに分からない。
「樹」
暫くの無言の後、一切の起伏のない声で呼ばれた。
「何?」
「……いや、いい」
言い掛けた言葉を引っ込め、渚は視線を外して再び沈黙した。気にはなったものの、無闇に詮索すると怒られるのでやめておく。
間もなく日付が変わる。明日の登校がなかなか怖いが、今はなるべく考えないようにして、樹は作業を続けた。
樹が鉛筆を走らせる音と、窓越しの雨音だけがリビングに響く。とても静かだ。しかし、嫌な静けさではない。
穏やかな時間は、あと少しだけ続く。
【To be continued】
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