第21話 宵闇の中で[後編]

 言ってしまった。もう終わりだ。

 いずれ訪れる別れの時まで、友達として一緒にいられればそれで良いと、そう自分に言い聞かせて隠し続けていたのに、棒に振ってしまった。後悔に苛まれたところで、後の祭りだ。

 ガクガクと震えながら樹を見上げる。涙でぼやけた視界に、樹の顔が映った。何が起きたのか分からないと、信じられないといった顔。唇は小刻みに震えている。その震える唇が、微かに動く。

「……あ……」

 言葉の体も成していない声を発して以降、樹は暫く沈黙する。目に見えてうろたえている。沈黙の末、彼がうろたえたまま口にしたのは、鈴の予想に違わないものだった。

「だ、駄目だよ……僕は……」

「死神だからって言うんでしょ? 自分が死神で、あたしが人間だからって言うんでしょ?」

「……っ」

「そんなこと分かってるよ! とっくに知ってる! でも、理屈でこの気持ちが消えるんなら苦労してない!」

 分かっていたのに、傷付いている自分がいた。

 鈴の語調が荒くなると、樹の表情が苦しげに歪んだ。再び口を噤んだ彼は、何かに耐えるように歯を食いしばっている。

「樹君は鈍いから気付いてなかっただろうけど、死神の正体を知ってから、樹君を近くに感じるようになって、ほっとけなくなって、目が離せなくなって、いないと調子が狂うようになって、ずっと一緒にいたくなって、一緒にいると幸せになって、気が付いたら好きになってて……それで……それで……っ」

 取り留めのない感情を、嗚咽と共に吐き出す。現状の混沌とした頭で、言葉を纏めるなど出来る筈もなかった。

「一緒にいられるだけで良かったのに、いっぱい優しくされて、どんどん欲が出て来て、どうにかなっちゃいそうで、言いたくなかったのに言っちゃって、もうどうして良いか分かんなくて……っ」

 吐き出して、ほんの少し冷静になると、激情と入れ替わるようにして、強烈な恐怖がなだれ込んで来た。明確な拒絶を恐れる余り、樹から離れ、顔を背け、そのまま立ち上がって背を向けた。

「待っ……」

 樹が呼び止めようとしているのは分かった。しかし、振り返れはしなかった。言いたいことを言うだけ言って逃げようとしている自分に嫌気が差したが、今はそんな当たり前を塗り潰してしまうほどの怯えがあった。ベンチに置きっ放しのココアの存在すら忘れ、バッグだけを引っ掴んで、鈴は大股に歩き出した。

「待って!」

 樹に腕を掴まれる。胸に氷を当てられたような寒気に見舞われ、息が出来なくなった。

「こっち見て」

 息を詰まらせたまま動けないでいると、今度は肩を掴まれ、体を半回転させられる。見るのが恐ろしかった樹の顔が、はっきりと見えた。苦悩を含んだ真剣な顔。鈴がその意味を正確に理解するよりも早く、樹に強く抱き竦められていた。

「言うつもりなんかなかったのに」

 まだ震えの収まり切らない細音で、樹が言った。

「最後まで言わないつもりだったのに」

 目を見開き、絶句する鈴の肩口に、樹は自らの顔を埋めた。

「……どうしてくれるんだよ」

 樹の鼓動が早い。そして、鈴自身の鼓動も。

「え……嘘?」

 夢のように現実感がなく、思わずそう呟いてしまった。

 樹が矢庭に体を離した。その表情は剣呑で、目は据わっている。

「その嘘で僕になんの得が?」

「いひゃいいひゃい!」

「で、誰が鈍いって?」

「いひゃいいひゃいいひゃい!」

 低音で問いただされながら、頬を引っ張られて涙目になる。先程とは全く別の恐怖により、鈴の顔はがちがちになっていた。

 ひとしきり頬を引っ張った末に、樹はようやく鈴を解放したが、表情は全く晴れず、弱々しく肩を落として嘆息した。

「僕だって、一緒にいられさえすれば良いって、自分に言い聞かせて……ああ、もう!」

 自分の髪の毛をくしゃくしゃにしながら、ブツブツと一人で喋っている樹の姿は、普段の彼からは想像に難しい。掛ける言葉を見出せないでいた鈴の前で、彼はUターンしてベンチの隅っこに逆座りし、鈴に背を向けた。

「もう良いよ。早く帰れよ」

 ここまで投げ遣りになっている樹を、鈴は見たことがない。心なしか、拗ねているようにも見える。

「い、樹君……」

「何」

「聞いても良い?」

「何を」

「その……いつから?」

「知らないよ。そんなの」

 おずおずと尋ねた鈴に、不貞腐れた態度で応じる樹。街灯の薄明かりでも分かるほど、彼の耳は赤みを帯びていた。


 * *


 帰宅して早々に脱力し、樹はリビングの床上に崩れ落ちていた。それ以降、呼吸以外の動作をした記憶がない。実際、していないのだろう。

 明日からどんな顔をして鈴に会えば良いか分からない。ああなるとは露ほども考えていなかったし、この種の経験も過去にない。相談出来そうな相手もいない。

 溜まりに溜まった空気が、ゆっくりと肺から抜けて行く。その吐いたことがないくらい大きな溜息は、魂ごと抜けて行く錯覚に陥るほどのものだった。既に動く気力が米粒大すら残っておらず、ほぼ放心状態にあった樹が、再び同じような溜息を吐き出した時、彼の無防備な背中を平然と踏み付ける者がいた。

「鬱陶しい」

「渚……痛い……」

「知らん」

 顔面を強打した樹の泣き言は、渚に一蹴された。

 渚が定位置に戻って行ったのを気配で感じていると、玄関のドアが轟音を立てて開いた。インターフォンが鳴った覚えもなければ、対応した覚えもないが、とにかく開いた。

「助けて! 緊急事態だよ!」

 直後、大砲のように飛んで来た大声により、状況は概ね理解出来た。渚の露骨な舌打ちが聞こえた。

「そろそろ最低限度の常識ぐらい身に付けたらどうだ」

「仕方ないでしょ! 緊急事態なんだから!」

 どかどかとリビングまで突進して来た燿が、いつになく切羽詰まった語調で渚に訴えた。

「どっかに財布落としちゃったんだよ! 一緒に探し――」

「出て行け」

「えー! メルクリウス酷い! 俺達友達でしょ!」

「そんなものになった覚えはない」

 二人の挨拶代わりの会話も、今は右から左へ抜けて行く。

 騒いでいた燿が、不意に沈黙した。彼が理由もなく大人しくなる訳がないので、多分こちらを見ている。

「ねぇ、メルクリウス。ユピテルどうしちゃったの? 干からびた蛙みたいになってるよ。正直ちょっと鬱陶しいんだけど」

「放っておけ。個人的な感傷に他者を巻き込む時点で唾棄すべき存在だ。同情の余地はない」

「水でも掛けとく? 少しはマシになるかも」

「好きにしろ」

 いまだかつて、ここまでなじられたことがあっただろうか。樹が若干へこんでいると、燿が傍らに屈んだのが分かった。

「おーい。生きてる? あ、消滅してないから生きてるか」

「生きてるよ……。ちょっと燃え尽きただけ」

「いや、ほんとにどうしたの? 鈴ちゃんにフラれた?」

「マルスちょっと黙って」

 当たってはいないが、掠ってはいるので、やはり燿は侮れない。樹は顔を上げるのをいったん保留した。

「ま、座りなよ。じゃないと、俺が座れないでしょ」

 勝手知ったるなんとやらで、燿がふてぶてしい口振りで言う。今の渚の顔が目に浮かぶようだ。

 樹は薄のろい動作でからがら身を起こすと、燿に席を譲り、渚の向かいに力なく腰を下ろした。燿は少々腹が立つほど満足げに定位置に着き、渚は付き合い切れないとばかりに、スマートフォンで花札を始めてしまった。

「それで、本題なんだけど」

「え? 財布が本題なんじゃ……」

「そんな訳ないでしょ。カードはしっかり止めたし、現金だって二百円しか入ってなかったんだから」

「そうなんだ……」

 自慢にならないことを自慢げに言いながら、燿は朗らかに笑う。

「ちゃんと仕事の話しに来たんだからさ。少しぐらいの不手際は大目に見てよ」

「どこが少しだ」

 樹と燿の会話に割り込む形で、渚がスマートフォンに視線を落としたまま毒づく。が、当の燿はこれを無視した。

「これから三人で同じ場所に行くよ。で、役割分担ね。ユピテルが回収。メルクリウスが蘇生。俺が粛清。以上」

「……どういう状況?」

 樹が思わず真顔で聞き返すと、燿が飄々と雑な説明を施した。

「裏切り者二人が隠れ蓑にしてる現場の目の前で、三十分後に交通事故が起きるんだよ。その事故で人間が四人死ぬんだってさ」

「そう……。ややこしいけど、なんとか把握した」

「そんな訳で、今日も頑張ろうねー」

 気楽な声で言いながら立ち上がり、燿は樹と渚を置いて早々とリビングを出て行った。つくづく、呑気なのか短気なのか分からない男だ。そんなマイペースを極めた彼の後に、渚と共に続く。屋内の明かりを消し、三人で玄関から外に出た。

 空気が澱んでいる。一雨降るかも知れない。



【第6章 End】

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