第20話 宵闇の中で[前編]
行き付けのカフェで寝落ちした。窓越しに屋外を窺う。間もなく陽が落ちようとしていた。慌てて会計を済ませ、店を飛び出した鈴は、カラオケ店の陰に見知った少年の姿を見付けた。
「樹君!」
「うわっ!」
藍色のオーバーコートを身に纏い、大鎌を手にした樹に意気揚々と接近して声を掛けると、盛大に驚かれてしまい、こちらまで驚いてしまった。とはいえ、真後ろから話し掛けた自分も悪かった。悪気は毛ほどもなかったのだが、一応反省はしておく。
樹は目をしばたたきながら暫く停止し、驚愕の余韻が消えた頃になって、長すぎる溜息を吐き出した。
「なんだ、鈴か……」
「え、なんだとか酷くない?」
「心臓に悪いんだよ」
ぼそっと文句を言う樹に、鈴は口を尖らせ、つい毒気づいた。
「また燿さんにデコピンされちゃえば良いのに」
「それは早く忘れて」
「拳骨の方が良い?」
「嫌だよ……」
樹は肩を落としつつ、いつもの制服姿に戻った。現状を聞いてみると、彼はたったいま魂の回収を終え、ウラヌスという上層部の死神に届けて来たところなのだと言う。
「鈴はどうしてこんな時間まで?」
「カフェで爆睡してた」
「……そう」
樹は見るからに唖然とした後、気抜けしたような相槌を打った。僅かな間を挟んだ末に、彼はこんな申し出をしてきた。
「良かったらだけど、送ってくよ」
「え? 良いの?」
「うん。その……もう日が暮れるし」
歯切れが悪い、というよりも、どこか言い訳するような口振り。視線も微妙に鈴から外れている。樹の内情は窺い知れないが、良くないと分かっていても断われない――いや、断わりたくないと思ってしまう自分がいて、詮索することに二の足を踏んだ。
少しでも一緒にいたい。一緒にいられるなら、それ以上は望まない。その筈だった。
* *
「鈴……。こんな時間まで何をやっていたんだ?」
樹と共に例の公園前まで来るや否や、聞き慣れた男の声がした。鈴は顔を強ばらせ、怖々と声のした方を振り返った。
声の主は鈴の現在の父親だった。父は当惑顔に隔意の混じった眼差しを湛え、鈴をたしなめた。
「下校時間ならとっくに過ぎているだろう? 余り心配を掛けないでくれ……」
鈴は歯噛みした。今日は父の帰りが早いと、今朝母親が言っていたのを思い出した。余りにも今更だ。どうして、今日に限って忘れてしまっていたのだろう。
何も言い返せずに立ち尽くしていると、父の視線が樹の方へと移った。鈴はさっと青ざめた。
「君は――」
「ま、待って!」
僅かに眉根を寄せた父が、樹に何やら言い掛けた瞬間、鈴は声を荒らげていた。
「寄り道したあたしが全部悪いの! 樹君は関係ない!」
間違っても樹に非はない。樹に非難の目が向けられるのは、到底耐えられるものではなかった。
「説教なら帰ったら幾らでも聞くから、ここではやめて。お願いだから……っ」
これ以上、こんなところを樹に見られたくない。見せるのも申し訳ない。
震えを伴った鈴の必死の訴えに、父は嘆息混じりに折れた。決して納得した顔ではなったものの、鈴の懇願を聞き入れたのか、単に言っても無駄と判断したのか、彼は家で待っている旨を伝えてきた後、静かに自宅の方へと消えて行った。
父の背中が見えなくなった頃、鈴は慌てて樹を振り返った。
「ご、ごめんね。見苦しいとこ見せちゃって」
鈴は謝るが、樹は気にしていないとばかりに首を振る。
いつの間にか、涙を流している自分に気付く。余計に申し訳ない気持ちになった。樹は何一つ悪くないのに。
「……帰れそう?」
躊躇いがちに、同時に酷く気遣わしげに問う樹。彼に不要な心配を掛ける訳にはいかない。
「大丈夫。今すぐはたぶん無理だけど……でも、落ち着いたらちゃんと帰るから」
「それなら……落ち着くまで、少し座る?」
公園内の屋外時計の脇に設置されたベンチを指しながら、樹がそう提案してきた。思いもよらなかった。
どこまでも鈴を気遣い、許し、助けようとする樹のことを、たまに疑問に思う自分がいる。期待して、縋ってしまいそうなくらい嬉しいのに、合点がいかない。未だに何も返せていない鈴などのために、何故ここまでしてくれるのか。どうしても分からなかった。
* *
ベンチに腰掛け、樹が貸してくれたハンドタオルで涙を拭っていたら、一時的に離席していた樹がこちらへ戻って来た。
「はい」
「有難う……」
近くの自販機で買って来たココアの缶を差し出されたので、受け取る。暗い心境のままプルタブを引き、缶を開ける。缶を傾け、何口か飲み進めると、ココアの甘みが口いっぱいに広がった。
樹は鈴の隣に座り、コーヒーを飲んでいる。特に言葉はない。
「さっきの人、あたしの今のお父さんなの」
弱々しく、呟くように言う。樹が静かにこちらを向く。
「あんまり仲が良くなくて……って、ごめん。こんなこと言われても困るよね」
慌てて口を引き結んだ。樹に話してどうなる訳でもないし、樹からすれば迷惑以外の何物でもないだろう。
「良いよ。話して。聞くしか出来ないけど」
そう思っていたのに、樹の表情は柔らかかった。落ち着きを促進する表情も、こんな話を聞いてくれるつもりでいることも、鈴をがんじがらめにしていた緊張の糸をほぐすには充分すぎた。
「本当に良いの? 嫌な思いさせちゃうかも知れないのに」
「うん。良いよ」
樹の優しさが身に染みる。話すことには抵抗があったにも関わらず、最終的には優しい樹に甘えてしまった。そんな弱い自分に失望しながら、鈴はぽつぽつと語り始める。
「中学の頃はね。普通に友達いて、剣道部もやってて、毎日が楽しかったんだけど……去年、あの人が家に来てから、何もかもどうでも良くなっちゃって。人と関わるのも面倒になって……お母さんと、幼馴染みの莉央以外とは、ほとんど話すこともなくなってた」
樹は嫌な顔一つせずに聞き、頷きを返してくれる。次から次へと溢れる言葉は、一向に止まってくれない。
「あの人が嫌いな訳じゃないけど、好きにもなれなくて。前の家族が大好きだったから、今の家族がまだ受け入れられないの」
目を伏せ気味に、鈴は続ける。
「あたしがわがままなだけなのは分かってるけど……」
「わがままじゃないと思うよ」
樹が初めて口を挟んだ。鈴は少し驚く。
「上手くは言えないけど……えっと……」
樹は少し間を置き、視線を落とし、言葉を探していた様子だったが、間もなく途方に暮れたように肩を落とした。
「……ごめん」
言葉を詰まらせたらしい。しかし、これは仕方のないことだ。鈴と生前の樹では、家庭環境が違う。樹の言う『上手く言えない』は仕方のないことであり、ごく当たり前のことなのだ。
「謝らないでよ。気持ちはすっごく嬉しいから」
嘘偽りのない本心だった。樹の温かさが伝播して、目が再び湿り気を帯びた。
「最近、なんか泣いてばっかだね。あたし」
ハンドタオルで涙を拭きながら、情けなさに落ち込んだ。そんな体たらくなのに、樹はやはり嫌な顔一つしない。どうして、こんなにも温かいのだろう。勘違いしてしまいそうなほど温かい彼に、出してはいけない感情が漏れてしまうのではないかと、気が気ではなかった。
「気にしないで。それに、この間は僕が泣かせたようなもんだし」
鈴は顔を上げ、樹を見た。
「もしかして、死神狩りの時のこと?」
「そう。あの場で戦えるのは僕しかいなかったのに、油断して、あんなことになったから」
「あれは違う! あれはあの死神が悪いの! 樹君のせいじゃない!」
鈴は断言した。他の誰がなんと言おうとも、これについては曲げるつもりはなかった。
樹は曖昧に笑ったが、恐らく納得はしていない。自分の身などまるで顧みず、鈴達の心配ばかりしていた彼のことだ。必要以上に責任を感じているのは明白だ。
「鈴」
同意する代わりに、樹は鈴を呼んだ。
「ちょっと落ち着いた?」
「! あ……」
言われて気付く。父親や自分への苛立ちと、現実への嘆きで波打っていた感情が鎮静していた。見失っていた自分が取り戻され、心底から安堵することが出来た。
「落ち着い……てる」
「良かった」
安堵しているのは、どうやら樹も同じらしい。
まるで自分のことのように安心している樹を見ていたら、ちくりと胸が痛んだ。負い目、とは違う。普段以上に優しくして貰った喜びが反転し、鈴の中である種の苦悩に変わりつつあった。
「ねぇ、樹君」
「うん?」
「どうして……?」
「? 何が?」
「どうして……あたしなんかに、こんなに優しくしてくれるの?」
樹が少し困った顔をする。
「『なんか』なんて言うなよ」
しかし、鈴は止まらなかった。止められなかった。
「どうして? これじゃ、勘違いしそうになるよ」
自分が何を言おうとしているのか、鈴は理解した。ぞっとした。芽生えた恐怖心に身震いした。
「鈴? また泣いて……」
樹は気付いていない。
すぐそこまでせり上がって来ている想いがあった。連動するように、止まり掛けていた涙が頬を伝い始めていた。
樹は一目で分かるほど困惑していて、静かに泣いている鈴に、おずおずと手を伸ばしてきた。鈴は――思わず身を引いていた。
樹が目を見張り、伸ばした手を見る間に引っ込めた。口を噤んでしまった彼を前に、鈴自身も酷く動揺していた。
今、自分は何を。自分のしたことに愕然とした。
表情を曇らせ、押し黙っていた樹が、僅かな震えと緊張を孕んだ細い声で、小さく言葉を零した。
「ごめん……嫌だった?」
「ち、違っ……今のは違う……! 違うの……!」
混乱して、狼狽して、同じ文句しか出て来なくて、頭の中はぐちゃぐちゃで、もうどうすれば良いか分からなかった。
「どうしたら良いの……」
想いがそのまま口を衝いた。誰に向けた訳でもない無意識の独白に過ぎなかったが、声に出してしまったことで、想いはより明確になって、鈴から正常な判断力を奪っていった。
一度は落ち着いた感情が堰を切る。溢れ出した涙が大粒の雫となって垂直に落下し、俯いた鈴のスカートに染みを作る。
息が詰まるような沈黙が続いて、続いて、続いて。そんな沈黙の終わりに、鈴は樹に言った。
「困らせて良い?」
「え……?」
質問の意図を汲めず、戸惑う樹の背中に腕を回す。あの時のように、彼の胸に顔をうずめた。おもむろに口を開くと同時に、頭の中で頭蓋が割れんばかりの警鐘が鳴り響く。
やめろ。言うな。鈴の残り僅かな理性が発した警告は、結果的になんの意味も成さなかった。限界だった。
「す、鈴――」
「好き」
明瞭に平静を失っている樹の声を遮ったのは、歯止めを失って暴走し、呆気なく露呈した鈴の裸の感情だった。
樹の身が一瞬だけ痙攣するように震えて、それからすぐに金縛りにあったかのように硬化した。物言わぬ彼が今どんな顔をしているのか、想像するのも恐ろしかった。
樹の顔を見ることが出来ない。奥歯を噛み締め、情けない嗚咽を殺そうと努めるも、上手くいかない。胸を掻きむしりたくなるほどの後悔が、ゆっくりと鈴の心を染めていった。
【To be continued】
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