第23話 最後の時間[Mars]

 ついにこの時が来てしまった。

 始業を十五分後に控えた二年二組の教室を前に、鈴は足の感覚がなくなるほど竦んでいた。今にもこの場に崩れ落ちてしまいそうで、気力を総動員して耐え忍ぶのがやっとだった。

 今日は登校途中に会わなかったため、樹はもう中にいるだろう。崩れ落ちそうな我が身を内心で叱咤し、怖じ怖じと戸を開ける。

 樹は既にいた。席に着き、窓の外を眺めている。

 泥棒さながらの忍び足で、席に近付く。自分の机にそろりとバッグを置き、緊張で爆ぜそうになりながら口を開いた。

「お、お早う」

「っ!」

 樹が大仰すぎるくらい大仰に身を震わせ、緩慢すぎるくらい緩慢にこちらを振り向いた。

「ああ……お早う」

 棒読みだった。とんでもなく強ばった顔をしている。

 羞恥心により、互いに目を逸らした。けれど、こんなことでは駄目だ。鈴は意を決し、周りを気にした控え目な声で樹を呼んだ。

「樹君」

「な、何?」

 樹の反応は依然としてたどたどしいが、ここで挫ける訳にはいかない。

 これ以上、樹にぎこちない態度を取るのは嫌だった。一刻も早く過度の緊張と照れを取り払い、また自然体で接せるようになりたかった。

 大きく息を吸い込む。樹の顔を穴が空くほど見詰め、引かれるのをある程度覚悟し、鈴は勢いと圧力に任せて尋ねた。

「あたしのこと好きだよね?」

「え」

「好きだよね?」

「あ、はい」

 返事を引き出すと、すかさずバッグから今朝のチラシを引っ張り出した。樹に表面が見えるよう突き出し、勇気を振り絞った。

「じゃあ、デートして」

 心臓は破裂寸前だったものの、なんとか言えた。良かった。

 が、返答はない。幾ら待ってもない。嫌だっただろうか。嫌なら嫌と言ってくれて構わないのだが。チラシをいったん下げ、樹を見る。樹は固まっている。というより、凍っている。

 鈴は目線をチラシに移した。何か変なことでも書いてあったただろうか。しかし、読み返しても特に違和感はない。このチラシの内容は、期間限定で開催されるお化け屋敷のイベント告知でしかなく――と、ここである可能性に思い至る。流石にないだろうと思いつつも、鈴は浮上したその可能性を確認してみることにした。

「ねぇ」

「そんなことない」

「まだ何も言ってないけど」

 凍ったままの顔。外された視線。判断材料としては充分だ。

「お化けが怖いの?」

「こ、怖くな――」

「そっか……。怖いんだね」

 樹の挙動で真実を知った鈴の目に、憐憫の色が宿る。だが、それも束の間で、憐憫はすぐさま別の感情に乗っ取られた。盛大に吹き出し、樹から恨めしげな眼差しを向けられるも、鈴の笑いは一向に止まらなかった。

「っ、笑うな!」

「ご、ごめん。でも、死神がお化け怖いとか面白すぎて――いひゃい!」

 完全に壺に嵌ってしまい、声を殺して笑い続けていたら、昨夜よりもだいぶ強い力で頬を引っ張られた。


 * *


 一九九一年八月十三日。

 腹が立つほど晴れている。ここまでさんさんと照り付けられると、気鬱でいる自分が馬鹿みたいに思えてくる。趣味とはいえ、黒い服が余計な熱を持って来るのも煩わしい。

 帰省初日の今日、空井燿そらいようは、目の前にそびえる民家に白けた眼差しを向けながら、これから味わわされるであろう幾つものを想像し、溜息を吐いていた。

 実家であるこの民家は、元々は祖父の持ち家で、年季は相当なものだ。非常に古く、異常に広い。数年前までは祖父母も住んでいたが、今はもういない。現在、この家に住んでいるのは三人――父親と、母親と、七つ下の妹だけだ。

「あー、放火したい」

 独りごちながら、引き戸を開けて中に入る。居間に行って声くらいは掛けてやろうと思ったが、今日も元気に罵詈雑言が飛び交っていたのでやめた。居間に繋がる襖の前を素通りし、今は半ば物置きと化しているかつての自室に籠る。異変が起こったのは、暇潰しに一人将棋を始めた頃。居間から響いていた罵詈雑言に、陶器が粉砕される音が加わった。燿の集中力と自制心も粉砕された。

「もう! うっさいな!」

 感情に任せて将棋盤をひっくり返した。なかなか大きな音がしたが、居間のそれに比べれば可愛いものだ。

「よし、帰ろう」

 耐えられない。というより、耐える気にもならない。耐えてやる義理もない。帰省から僅か十分足らずで帰宅を決意した燿は、ひっくり返した将棋盤を見捨てて立ち上がった。

 拾い上げたバッグを肩に掛け直し、大股に部屋を出る。このまま玄関まで直行するつもりで、先ほど同様に居間を素通りした。その直後、通過したばかりの居間の襖が恐ろしく乱暴に開かれた。誰かが出て来たのは分かったが、振り返るつもりはなかった。

「燿」

「……」

 父親の声だった。名を呼ばれ、不本意ながら足を止める。玄関の方に視線を固定して、燿は静かに口を開いた。

「何? クソ親父」

「親に向かってその態度はなんだ!」

「アホ親父」

「燿!」

「クズ親父」

「おい!」

「ハゲ親父」

「ハゲとらん!」

 残念なことに、悪口しか出て来なかった。元より、喧嘩以外の付き合い方を知らない相手だ。仕方がない。

「待て。どこに行く気だ?」

「家」

「もう帰るつもりか! 何を考えているんだ! 理由を言え!」

「よく言えたね!? 馬鹿なの!? 面の皮何千枚あんの!?」

 常軌を逸した発言に、再構築の最中だった自制心を完膚なきまでに叩きのめされ、気付けば父親に怒声を浴びせていた。同類になりたくない一心で抑えていたのに、感情を丸裸にされてはどうにもならない。開き直って振り返り、怒りで顔を真っ赤にした父親に、燿は引き続き怒声を浴びせた。

「俺もう二十七だよ! 自立して九年だよ! あんたに干渉される筋合いなんて、爪の垢ほども残ってないんだよ!……って、馬鹿に言っても理解出来ないよね! ああごめんね!」

「親に向かってその態度はなんだ!」

「壊れそうなラジオなの!? 大体、親らしいこと何一つしてない癖に、厚顔無恥にもほどがあるよ!」

「なんだと! お前といい、あかりといい……育ててやった恩を忘れたのか!」

「それ子供に一番言っちゃいけないやつ! そもそも、育てるだけが親の責務だと思ってる時点で終わってるんだよ! あんたは!」

 ひとしきり罵倒した結果、恐ろしく疲れた。無駄な体力を使ってしまった。どれだけ激情をぶつけた所で、心が晴れる訳でもないのに。自分も家族と同類だと思い知らされるだけなのに。

 いい加減うんざりして、父親に背を向けた。再び玄関を目指しながら、燿は背中越しにぽつりと言った。

「育てるだけが責務なら、あんたとっくに責務全うしてんじゃん。もう良いでしょ。ほっといてよ」

「燿――」

「じゃあね。次は葬式で会おうね」

 これで終わりにするつもりだった。しかし、父親は燿の神経を逆撫でするように、正気の沙汰とは思えない発言を繰り出した。

「葬式だと? お前、まさか死ぬ気か!」

「あんたらの葬式だよっ!」

 限りなく絶叫に近い大声を上げ、玄関の引き戸に手を伸ばした。後ろで父親がまだ何か言っていたが、聞かなかったことにした。喉が幾つあっても足りない。

 憤然と実家から脱出した。解放された安堵と、未だ収拾していない苛立ちが胸中に同居している気持ち悪さを味わいながら、燿は来た時と同じ独白を口にしていた。

「あー、放火したい」

 腹が立つほど晴れた空の下、疲労感で重くなった足を引きずり、最寄り駅に向かう。ようやく実家が見えなくなってきた頃、バッグの中から単調な通知音が聞こえた。入れっ放しにしていたポケットベルのものだった。

 空井燿の生前の記憶は、ここで終わっている。


 * *


 目が覚めると、何もない空間にいた。

 見渡す限りの白。天井も壁もない。終わりのない無が、無限に広がっているかのようだった。風も音もない。人もいない。この訳の分からない空間に、自分はたった一人、ぽつんと存在している。

 ゆっくりと身を起こした。そして――横たわり、目を閉じた。

「起きろ馬鹿!」

「ぐえっ」

 燿は何者かに腹を蹴られ、うずくまって悶絶した。

「な、なんで……なんで痛いの……」

「夢じゃねぇからに決まってんだろ」

 腹を押さえ、プルプルと震えながら顔を上げる。絶句した。

 何も存在していなかった筈の空間に、三人の男女が立っていた。黒いオーバーコートを着た赤髪の男と、同じ格好をした女。和服を着た白髪の男。オーバーコートの二人は、死神か何かがブンブン振り回していそうな大鎌を手にしている。

「……」

「だから、寝ようとすんな!」

「ふごっ」

 再び赤髪の男に腹を蹴られ、一瞬意識が遠のいた。

「空井燿君ですね?」

 和服姿の男が、場違いな笑顔で確認してきた。

「初めまして。ぼくはウラ――」

「あんたはすっ込んでてくれ。頼むから」

 赤髪の男が、和服姿の男を面倒臭そうに手で制した。

「まどろっこしいのは嫌いでな。単刀直入に言う。お前は自死してここに来た。もう人間じゃねぇ。おれ達と同じ死神だ」

「……」

「寝んなっつってんだろ!」

「ぎゃふんっ」

 カラフルな花畑が見えたところで、胸倉を掴まれた。

「お前な! そろそろいい加減にしろよ!」

「わー! 助けてお巡りさーん! 俺まだ死にたくないよー!」

「死んでんだよ! 諦めろ!」

 このコントじみた遣り取りがいつまで続くのか、当人である燿にも分からなかったが、赤髪の男が苛立たしげな溜息の後に発した詰問が、これに無理矢理終止符を打った。

「信じねぇなら、お前はこの空間をどう説明する?」

「説明? 出来る訳ないでしょ」

「ここに来る直前のことは覚えてるか? 覚えてるってんなら、言ってみろよ」

「そういえば、思い出せないね。なんでだろ」

「おれ達には、自分の死に関する記憶がねぇんだよ。そこの和服のおっさんに取られてるからな」

「……ふーん」

 燿は急に真面目な顔になり、無言で視線を落とした。しかし、口元にはうっすらと笑みが浮かんでいる。

「その馬鹿みたいな話が本当なら、俺は家族と一緒に死んだんだろうね。死因は焼死ってとこかな」

「! おまっ、なんで……!」

「アポロ!」

 とてつもなく詰めが甘いらしい赤髪の男を、後ろにいる女が咎める。無論、既に取り繕える段階を過ぎている。

「へぇ、当たってるんだ。俺すごーい」

「……っ」

 へらへらと笑う燿を気味が悪そうに見据えていた赤髪の男が、燿から乱雑に手を離した。そして、聞いてきた。

「なんなんだよ……。なんでそんなに落ち着いてられんだよ」

 聞かれて、燿はしれっと答えた。

「さっき、死にたくないって言ったでしょ? あれ嘘だから」

「は?」

「別にいつ死んでも良かったんだよ。俺は。生きてて楽しいことなんか何一つなかったし、これから先もあるとは思ってなかったからさ。流石に、こんなに早いのは予想外だったけど」

 この時、赤髪の男と後ろにいる女が燿に向けてきた眼差しは、酷く複雑なものだった。同情とか、悲嘆とか、大方そんなところだろう。そんな二人に構わず、燿は立ち上がった。

「まあ、もうどうでも良いや。それより、俺はこれから何をすれば良いのかな? 死神さん?」

 元より細い目を更に細くして、燿はにやりと笑った。



【間章2 End】

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