第37話 壊された日常

 ある日のこと。廊下から美埼の声が聞えて来るや否や、渚が顔を真っ青にして震え出した。怖がる彼を少しでも安心させてやろうと、樹は努めて軽く柔らかい声音で語り掛けた。

「心配しないで。僕がちゃんと守ってあげるから」

 自分は兄だから。兄は弟を守るものだから。少なくとも、自分は絶対に美埼のようにはならない。姉でありながら、弟達を苦しめてばかりいる美埼と同類になるつもりはなかった。

 あの日曜日以来、渚は常に美埼の影に怯えるようになった。一人でいることを極端に嫌うようになった。あんなおぞましい光景を見せられたのだ。無理もない。

 樹は強く思った。美埼がああなった以上、長男の自分がしっかりしなければと。渚と両親のために頑張らなければと。美埼なんか怖くない。美埼になんか負けない。家族のためなら、自分は幾らだって頑張っていけると。

 それが、樹の信じた世迷い事だった。


 * *


 樹に一方的に守られ、一方的に助けられながら生きてきた。

 しかし、これが如何に卑怯で間違った生き方であるか、渚はここまでの成長過程で知ってしまった。

 その頃から、渚は自分なりの努力を始めた。この卑怯で間違った生き方を正し、助けられるばかりの自分を変えなければならない。誰からも助けられる必要がないくらい、強くならなければならない。毎日努力を重ねることで、そんな理想の自分に徐々にでも近付いて行けたら、それ以上の喜びはない。

 まずは、自分のせいで生じる家族の負担を取り除く。家族――特に樹は、渚を助けようとする人間の筆頭だ。無用な心配を掛けてはいけない。悲しませてはいけない。これを当分の課題とし、渚はコツコツと頑張っていた。

 二〇〇六年四月八日。中学の入学式を終えた直後の土曜日。渚がリビングで花の世話をしていたら、二階から下りて来た美埼が何食わぬ顔でこちらにやって来た。

 怖くて泣いてしまいそうになったが、辛うじて堪えた。早く済ませて自室に戻ろうと、渚は黙々と作業を続けた。

 そんな中、つけていたテレビの報道番組が、ある衝撃的なニュースを報じた。渚の手は無意識に止まり、視線はテレビに釘付けになっていた。

 報道の内容は、何者かによって惨殺された猫の死体が、町内のあちこちで発見されたというもの。その信じがたい報せに絶句していると、ソファーに座っていた美埼が口を開いた。

「あら。見付かっちゃったのね」

 のんびりとした声音で発せられた台詞に、強烈な違和感を覚えた。言い表せないほど嫌な予感がして、渚は怖々と美埼を振り返った。美埼の顔には例の笑みがある。

 渚はリビングを飛び出し、階段を駆け上がった。

 自室まで大した距離もないのに、先の見通せない夜道を走っているような感覚が付き纏った。そんな訳がないのに、得体の知れない恐ろしいものに追われているような錯覚を起こした。

 階段を上がり切り、まっすぐに自室を目指す。瞬間、手前の部屋のドアが開いた。ドアは内開きだったものの、あらゆる音と動きに敏感になっていた渚は、こんな些細な変化にすら戦慄して、足を取られて転倒してしまった。

「渚!?」

 動揺も露な樹の声。樹は慌ただしく廊下へ出て来ると、すぐさま渚の傍らに屈み込んだ。

「大丈夫?」

「……」

「渚? どうして泣いて……」

 限界だった。泣きたくなかったのに、心配を掛けたくなかったのに、先ほど抱いた猛烈な恐怖は絶え間なく膨れ上がり、既に渚が一人で耐えられる域を超えてしまっていた。

「もう、嫌だよ……怖いよ……!」

 怖くて、怖くて、怖くて、脇目も振らずに泣き喚いた。

「……また姉さんが何かしてた?」

 樹の瞳に怒気が滲む。渚の沈黙は肯定と受け取られた。

「何してた? 教えて」

 温かみのあるいつもの声。けれど、有無を言わせない口調。

「ね……猫……」

 渚はしゃくり上げながらも説明しようとしたが、これ以上は言葉にならなかった。しかし、それでも樹は察しが付いたらしい。樹は大きく目を見開いた後、幾つもの負の感情に顔を歪めて、握り締めた拳をわなわなと震わせた。


 * *


 二年後の十二月。その日は訪れた。

 特に何もないクリスマスが過ぎ、年越しが近付いて来た。

 その日、留守番を任された渚達は、共にリビングで受験勉強に励んでいた。二人の志望校は同じで、県内有数の進学校だ。並大抵の努力では足りないため、勉強量は否が応でも多くなる。

 とはいえ、何事にも休憩は必須だ。二人は決めておいた時間に教材をソファーに置き、茶菓子を用意した。急須は一つしかないので、じゃんけんの結果、今日のお茶は烏龍茶に決まった。

 手持ち無沙汰の渚の向かいでは、樹がテーブル上の籠の中の果物をデッサンしている。こうしたデッサンやスケッチが、彼の受験勉強の息抜きの大半を占めていた。

 線の描き方も明暗の付け方も巧みな樹の絵は、存在感とリアリティに富んだものばかりだ。余り絵が得意ではない渚としては、一生を費やしてもこの絵を描ける気がしない。

「見ても面白くないよ」

 樹の絵を熱心に見ていると、そんな照れ隠しの言葉を掛けられた。けれど、渚は頭を振った。

「……そんなことない」

「そ、そう?」

 はにかみつつ、樹は一度顔を上げた。

「渚」

 名前を呼ばれて、渚も顔を上げる。

「何……?」

「次、あれ描いても良い?」

 樹が窓辺の室内用植木鉢を指す。渚が以前から育てているセントポーリアだ。好きな本と言われて真っ先に植物図鑑を思い浮かべる渚は、樹があの花を描きたいと言ってくれたのが嬉しくて、控え目ながらも顔を綻ばせた。

「良いよ」

「良かった。有難う」

「うん」

 樹の絵を再び見ようとした時、固定電話が鳴り響いた。

「ま、待って。僕が出るから……」

 デッサンの邪魔になってはいけない。立ち上がろうとした樹を制して、渚は電話の方へと急いだ。身内以外との電話は今でも少し怖かったが、勇気を絞って受話器を取った。

「はい。宇野です……」

 電話の相手は、想像だにしない人間だった。

「え?……警察……?」

 相手の素性が分かるなり、渚は驚きと不安により、呆然と呟いた。視線を感じて振り向くと、樹もこちらを見ていた。今の渚同様、緊張を孕んだ表情をしている。

 通話を続けて間もなく、渚は受話器を取り落とした。そのままへなへなと座り込み、うずくまった。慌ててこちらへ駆け寄って来た樹が、警察との通話を引き継いだ。

 やがて、樹は静かに受話器を戻した。何も言わなかった。

 怒りや悲しみはなく、底なしの絶望だけがあった。電話の前から動くことすら出来ず、二人は身を寄せ合うようにして泣いた。

 二〇〇八年十二月二十七日。この日、宇野美埼は人を殺した。


 美埼がおかしくなっていった後も、他の家族や友達のお陰でなんとか維持していた幸せは、呆気なく砕け散った。

 十七歳だった美埼は、報道の上では少女と表現されたが、この未成年への配慮は、渚達になんの救いももたらさなかった。美埼の本名も家の住所も、ネット掲示板で瞬く間に特定され、拡散された。両親は退職に追い遣られ、渚達も学校に行けなくなった。

 買い物のための外出もままならず、全員で家に閉じ籠った。固定電話のコンセントを抜き、全ての携帯電話の電源を切った。それでも、外部から向けられる悪意は止まらなかった。

 一家を襲った悪夢は、渚達から何もかもを奪った。

 何もかもが壊された。あの怪物によって。



【To be continued】

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