第36話 壊れゆく日常
昔、樹とある約束をした。
保育園で意地悪をされて泣いていたら、いつもみたいに樹が助けに来てくれた。なかなか泣き止めないでいる渚の頭を撫でながら、彼はにっこりと笑った。
「大丈夫。渚には僕が付いてるから」
その言葉は間違いなく渚に救いをもたらすものだったが、喜ぶばかりではいられなかった。
今はまだこうして温かい言葉を掛けて貰えているが、それがこれから先も続くとは限らない。泣いてばかりいたら、いつか見放されてしまうかも知れない。幾ら樹でも、いつまでも成長しない渚のことを嫌いになって離れて行ってしまうかも知れない。そう思ったら、余計に涙が止まらなくなった。
しかし、樹は渚の心情を見通したかのように言った。
「僕はずっと一緒にいるよ」
びっくりして、渚は顔を上げた。
「ずっと……?」
「うん! 小学生になっても、中学生になっても……こうこうせい? になっても、もっと大きくなっても、ずっと一緒にいる! だから、渚はこれからもずっと大丈夫!」
そうするのが当たり前で、自分にはそれが出来ると信じて疑っていない目。そんな樹の屈託のない眼差しが、まっすぐに渚を捉えている。
「渚も僕と一緒にいてくれる?」
屈託のない表情で尋ねられた。答えはすぐに出た。
「うん」
涙を浮かべたまま、渚もまたにっこりと笑った。
遠い日の約束。二人の約束。果たされなかった約束。
* *
二〇〇〇年五月。学校生活にも少しずつ慣れてきた頃。
樹が思っていた通り、学校は楽しいものだった。待ち望んでいた三人での登校も、既に日常の一部として組み込まれていて、樹の毎日はきらきらと輝いていた。
また、転んで泣き出した渚を美埼と一緒に宥めるのも、日常の一部として両存していた。この日も例に漏れずで、どてっと何かが倒れる音を聞いて振り返ると、その日常の一部に視界の大半を持って行かれた。
「あんたね……。週に何回こけたら気が済むのよ」
美埼は毎度の如く呆れ返った様子だ。
「渚、大丈夫だよ。泣かない泣かない」
渚の傍らに屈んで、起き上がるのを手伝う。樹と美埼の手を借り、渚はのろのろと身を起こした。
「ごめん……。兄さん、姉さん……」
蚊が鳴くような細声で謝る渚。懸命に涙を拭っている。
「良いの! 弟を助けるのは当たり前だから!」
曇りのない顔で言いながら、樹は渚の頭に手の平を置く。
「よしよし」
「……あんた達の仲直しっぷりには脱帽するわ」
初めて聞く単語が入っていたが、美埼はきっと褒めてくれているのだ。嬉しくてお礼を言ったら、鼻で笑われた。
渚が立ち上がり、三人で歩みを再開する。そんな中、先頭を歩く美埼が不意に呟いた。
「三つ子なら良かったのに」
「え?」
「別に。独り言。ほら、急がないと遅刻するわよ」
聞き返した樹に淡々と言い、美埼は歩調を早めた。
「あ、待ってよ! 姉さん!」
呟きの意図を理解する暇もなく、樹達は慌てて美埼の背を追い掛けた。
二〇〇一年六月。二年生になった樹と渚が学校から帰ると、自宅の庭の片隅にしゃがみ込む美埼の姿があった。どうやら一足先に帰って来ていたらしいが、あんな所で何をしているのだろう。
美埼はこちらに気付いていないのか、振り向く素振りもない。赤いランドセルを背負ったまま地面に視線を落とし、沈黙している。少しだけ右手が動いているようにも見えるが、何をしているのかまでは分からない。樹達は顔を見合わせ、美埼の下へと近付いて行った。
「姉さん……?」
渚が美埼に声を掛けた。美埼は答えない。
「姉さん? 何やってるの?」
樹が美埼に声を掛けた。美埼は答えない。
なんとなく、胸がぞわぞわした。嫌な感じがした。
美埼の傍らに立つ。美埼は反応しない。
恐る恐る美埼の手元を窺った樹達は、言葉を失った。
微動だにしない無表情で、美埼は列を成して移動する蟻を潰していた。一匹、また一匹と、取り憑かれたように潰していた。樹達が呼び掛けても、目の前に立っても、彼女は無反応だ。
殺されていたのは蟻だけではなかった。美埼は自分の視界に入った昆虫を見境なく殺していて、彼女の手元は昆虫の死骸で溢れ返っていた。表情はぴくりとも動かない。こちらも見ない。樹達を無視し、彼女はひたすら殺生を続けていく。
「姉さん」
自分の声が震えているのが分かったが、もう無理だった。これ以上、美埼のこんな姿を見ていたくなかった。
「姉さんってば!」
いつもの鈴の音のような声で返事をして欲しくて、ちゃんと自分達を見て欲しくて、樹は必死に叫んだ。
美埼の肩が一瞬動いて、絶えず続いていた右手の動作が止まった。美埼がようやくこちらを見る。驚いた風に目をしばたたきながら、彼女はおもむろに口を開いた。
「ああ……。お帰り」
美埼はどこか気の抜けた様子で言い、怪訝そうに首を傾げた。
「いつからそこにいたの?」
悪寒が全身を駆け巡った。しかし、足はまるで地に縫い付けられたかのようで、後ずさることすら叶わない。
美埼は樹達を無視をしていたのではなく、気付いていないだけだった。あれで気付いていなかったのだ。余りの異常さに硬直する樹の隣では、渚が青い顔をして震えている。
「どうしたの?……まあ、良いけど」
何も答えられないでいる樹達には構わず、美埼は静かに立ち上がると、一人家の中へ入って行ってしまった。置き去りにされた樹達は、暫くその場から動くことが出来なかった。
二〇〇四年十月。美埼の奇行は相変わらず続いており、ここ三年間で、美埼を見る家族の目にも変化が現れていた。両親は美埼を腫れ物扱いし、樹と渚も美埼から距離を取るようになった。
そして、樹達と美埼の間に入った亀裂は、更に大きく、深いものへと変わっていく。
日曜日だったこの日は、午後から友達の家へ遊びに行くことになっていて、樹達は昼食を終えて間もなく、友達が待っているマンションに向かった。だが、楽しみで上向いていた気持ちは、ある光景に出くわしたことで、すっかり萎んでしまった。
民家裏の水路の縁に、美埼がしゃがみ込んでいる。こちらに背を向けてはいるものの、また何かやっているのは把握出来た。樹は怯える渚の手を引いて、早々に場を離れようとした。しかし、見付かった。
「どこ行くの?」
振り向いた美埼にじっと見詰められ、樹達は顔を強張らせる。そんな二人に構わず、美埼は緩やかに立ち上がると、やがて体ごとこちらを向いた。その手中にある血まみれの大型カッターと、死んでいる鼠を目にした瞬間、樹は凍り付き、渚は口元を覆ってうずくまった。
「ああ、これ? 捕まえるの、凄く大変だったのよ」
親しげで、優しげで、柔らかな満面の笑み。美埼のこんな笑顔を、樹は知らない。
美埼がこちらに近付く。
「一緒にやる?」
「……っ」
目の前に怪物がいる。
歯の根が合わない。動けない。
こっちに来るな。そう言いたいのに、声も出せない。
「来ないでっ!」
叫んだのは渚だった。
渚は膝を突いたまま、この世の恐怖を凝縮したような瞳を美埼に向けて、美埼を拒絶した。
「来ないで来ないで来ないでっ!」
泣き崩れ、狂ったように拒絶を繰り返す渚の姿に、樹は愕然とした。渚がこれほどの大声を出すのも、自分からはっきりとものを言うのも、今まで一度も見たことがなかった。
美埼の顔から表情が消える。けれど、それは刹那的なものでしかなかった。美埼はすぐに笑顔に戻ると、静々と身を翻した。
「な、渚! 行こう……!」
半狂乱の渚の手を引き、無我夢中で走った。ただただ意味が分からなくて、恐ろしくて――悲しかった。
もうとても遊ぶ気にはなれず、樹達はその足で自宅に逃げ帰った。友達には電話で謝って、遊ぶのを来週に延期して貰った。
同日。夕方になって帰って来た美埼に、樹は矢庭に言った。
「姉さん! もうあんなことやめてよ!」
何を言われているか理解出来ないとばかりに目を丸くする美埼に、樹は続けて訴える。
「姉さんはあんなことする人じゃなかった! きついこと言う時もあったけど、凄く優しかった! お願いだから、あの頃の姉さんに戻ってよ!」
大好きな姉がすっかり変わってしまったこと。幸せな日常に影が差したこと。未だ受け入れられないこれらの現実が、とうとう樹をこの言動に至らしめた。
渚は部屋に閉じこもっている。ほとんど口が利けないほど憔悴し切っていて、見ていられなかった。
美埼は今し方の樹の言葉でようやく合点がいった顔をして、樹の望んだ回答とは掛け離れた台詞を口にした。
「樹。良いこと教えてあげる」
浮かんだのは、あの満面の笑み。
「一度壊れた物は、もう元には戻らないのよ?」
「……え?」
「壊れたままでいるか、灰になるまで壊れ続けるか。そのどっちかしかないの。残念だけど、私は後者だったみたい」
当時の樹には難しい言い回しだったが、美埼が言いたいことはなんとか飲み込めた。
「そ、そんなことない。姉さんは――」
「無理なのよ。あんたがどれだけ綺麗事を並べてもね」
美埼は樹の反論を遮り、樹のなけなしの志気を、笑顔の奥にある明確な狂気でねじ伏せた。
【To be continued】
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