第10章 兄弟の追憶

第35話 穏やかな日常

 諸星鈴もろほしすず宇野樹うのいつきは、他愛ない話をしながら二人の帰りを待っていたが、時間が経つに連れて、樹の口数は減っていった。単純に話題が尽きたくらいなら良い。けれど、今は他に理由があるのは疑いようがなかった。

 先ほどの兄弟喧嘩で生じた樹の罪悪感と胸の痛みは、時間の経過と共に色濃くなっているようだった。もう鈴とのお喋り程度では紛れない域に達したのだろう。

 空は既に黄赤色に変わっている。そろそろ帰らなければならない。幾ら心配でも、長居して迷惑を掛ける訳にはいかない。鈴がしょんぼりしていると、ここ一〇一号室のドアが開いた。

「ただいまー。メルクリウス回収して来たよー」

「人を物扱いするな」

 空井燿そらいようの陽気な声と、宇野なぎさの不貞腐れた声が響く。間もなく、声と違わぬ表情を携えた二人がリビングに顔を出した。

 呑気に手を振る燿の隣で、渚が一瞬こちらを見たが、すぐに逃げるように目を逸らしてしまった。もう怒っているようには見えないので、純粋に気まずいのだろう。 

「渚」

 樹が渚を呼ぶ。渚が微妙にたじろいだのは、後ろめたさ故か。樹は立ち上がり、ゆっくりとそちらへ歩み寄って行く。

「今までごめん」

 渚を正面から見詰め、樹はそう謝った。

「これからは、ちゃんと向き合うから」

 樹の嘘偽りのないまっすぐな言葉が、身構えていた渚の態度を徐々に軟化させていった。やがて、叱られでもしたように肩をすぼめながら、渚はようやく口を開いた。

「……分かれば良い」

 しっかり天邪鬼な発言した後、渚は決まりが悪そうに付け加える。

「それと……済まなかった」

 渚もまた自らの非を認め、樹に詫びた。

 二人の仲直りが嬉しくて、浮かんだ笑みに口角が歪んだ。渚を茶化した燿が応酬に足を踏んずけられ、悲鳴を上げた際には、違う意味で笑ってしまったが。

「さて、これからどうしたもんかねー」

 足の痛みが引いてきたのか、気を取り直した燿がそう呟いた。

 樹が燿に尋ねる。

「サトゥルヌスは?」

 樹は実姉をそう表現した。

「まだ見付かってないどころか、手掛かりすら掴めてないみたいだよ」

「そう……」

「腹は立つけどね。まあ、ひとまず今日はお開きかな。鈴ちゃんも、そろそろ帰らなきゃでしょ?」

「うん……」

 鈴は頷き、後ろ髪を引かれる思いで荷物を拾い上げた。各々が暗い感情を抱えたまま、この日は解散となった。

「鈴。送ってくよ」

 今日も差し伸べられた手を取って、鈴は帰路に就いた。


 * *


『明日の放課後、時間はある?』

 樹からそんなメールが送られて来たのは、ちょうど夕飯の片付けを済ませた頃だった。

 樹は返信はマメだが、自分から送るのは苦手なようで、これはなかなか珍しいことだ。物珍しさと淡い喜びを感じながら、鈴はすぐに返事を送った。

『あるよー』

 短い間の後、樹は用件を切り出した。

『またうちに来て欲しいんだ。話したいことがあるから』

『話したいこと?』

『うん。僕達の記憶のこと』

 規則的だった鼓動が僅かに乱れ、走った緊張に手が止まった。

 補足のメールが届いた。

『僕達が忘れてたこと』

 ごくりと唾を飲み込む。不安が頭をもたげた。けれど、それを上回る使命感に突き動かされ、鈴は返事を打ち込んだ。


 * *


 昨日同様、鈴は学校帰りに樹達の家を訪れた。

「有難う。来てくれて」

「うん」

 出迎えてくれた樹は、例の人のいい笑顔に微かな緊張を滲ませていた。しかし、それに関しては鈴も余り変わらない。緊張により、互いに言葉少なになっていた。

「やあ、鈴ちゃん。昨日振りだね。いま美味しいコーヒーを入れるからね。メルクリウスが」

 通されたリビングでは、既に渚と燿が待機していた。

 渚はこんな状況でも高い燿のテンションにうんざりしている様子だったが、文句を言うでもなくキッチンに移動して行った。

 樹の隣に腰を下ろし、無意識に視線をローテーブルに落とす。やはり落ち着かない。

 今から樹と渚によって語られる内容は、並大抵の覚悟で聞いて良いものではないと思っている。二人に自ら死を選らばせたほどの過去なのだ。語る決意をするに当たって、二人も相当な覚悟を強いられたに違いない。この場に呼んで貰った一人として、自分も改めて覚悟をしなければならない。ちゃんと聞いて、受け入れて、支える覚悟をしなければならない。

 考えている内に、コーヒーの入ったマグカップとスティックシュガーが手元に置かれた。鈴ははっと顔を上げた。

「有難う」

「……」

 お礼を言うも、聞き流された。

「で、これは俺からね。バイト先で貰ったやつ」

 燿が向かいの席から焼き菓子を差し出してきた。彼なりに緊張をほぐそうとしてくれているのが仄かに伝わって来て、有難い気持ちと、申し訳ない気持ちが同時に現れた。

「燿さんも有難う」

 燿にも礼を述べる。燿は柔らかく頷いた。

 僅かな間。誰からでもない沈黙。少々の緊張と、少々の気まずさ。その時を目前に控え、生じたものだ。

「……今更ではあるんだけどさ。ほんとに話して大丈夫なの?」

 先に口を開いたのは燿だった。

「そりゃ、話してくれるんなら聞くよ? でも、思い出すなりぶっ倒れるような記憶だった訳でしょ?」

 それはまさに鈴がずっと心配していたことだったが、樹の返答は早かった。

「うん。たぶん大丈夫。頑張る。……二人には聞いて欲しいんだ。知って欲しいんだ。僕達のこと」

 樹の真剣な眼差しが、鈴と燿を捉えた。


 * *


 温厚な父。厳格な母。勝気な姉。繊細な弟。性格は違ったが、皆が樹に優しかった。樹はそんな家族が大好きだった。

 一九九九年八月。保育園から帰宅した樹と渚は、心地よい冷気を求めてリビングに直行した。靴を脱ぎ捨てたことを咎める母の声が後ろから聞こえた気がするが、きっと気のせいだ。

 リビングの引き戸を開けると、ひんやりとした冷房の風が肌に触れた。猛暑による体の火照りが、緩やかに取り除かれてゆく。望んだ通りの空気にいたく満足しながら、樹は渚の方を見た。

「渚! 今日は何して遊――」

「ま、待って。兄さん」

 焦りを含んだ渚の声を受け、樹は言葉を引っ込めた。

「どうしたの?」

「えっと……」

 口籠りつつも、渚が室内を指差したので、樹はそちらに目を向けた。渚の意図はすぐに分かった。

 無人とばかり思っていた室内には、既に家族の姿があった。姉の美埼みさきだ。テーブルに伏して寝息を立てている彼女は、どうやら夏休みの宿題の最中だったらしい。テーブルの上に広がっている物から察することが出来た。

 大きな音を出さないよう、慎重に戸を閉め、そろりそろりと室内を歩く。フローリングの床に座って帽子を脱ぎ、バッグと一緒に脇に置いた。さて、どうしたものか。

 この冷房の効いたリビングで引き続き涼むには、大人しく静かにしている必要がある。起こしてしまうのは申し訳ない。が、もう渚とお喋りしたくて堪らない。室内を駆け回りたくて仕方がない。樹が悶々としていると、渚が袖を引っ張ってきた。

「あ、あのね……」

「何?」

「静かに出来ること、しよう」

「どんな?」

「え?……えっと……」

 提案はしたものの、その実何も考えていなかったらしく、渚は俯き気味に視線を泳がせた。

 樹が呆れ半分、微笑ましさ半分で見守っていると、渚はやがてあたふたしながら戸棚の方に駆けて行き、先月の誕生日に買って貰ったばかりのボードゲームを出して来た。

「これだったら――あっ」

 しかし、こちらへ戻る途中、渚は足を滑らせて転び、あろうことか抱えていたボードゲームをひっくり返してしまった。顔を引きつらせる樹。涙目になる渚。そんな二人の前で、眠っていた美埼が身じろぎをし、あっさりと瞼を開いた。

「もう……うるさいわね。あんた達は」

 やや険しい眼差しを向けられ、二人はたじろいだ。

「ごめん! 姉さん!」

「ごめんなさい……」

「別に。いつものことだし」

 鈴の音のような声で、美埼は冷ややかに言い捨てた。気にしているのかいないのか、傍目からは判断しづらい。だが、態度に反して面倒見の良い彼女は、ごく当たり前のようにボードゲームを片付けるのを手伝ってくれた。

「言っても無駄でしょうけど、次は気を付けなさいよ」

 溜息混じりにソファーに座り直した美埼は、一度鉛筆を手に取り、すぐに元に戻した。

「そうそう。さっきまでおばあちゃん来てて、これくれたの」

 美埼はテーブルの隅に寄せてあった小さな紙袋を引き寄せ、中身を取り出して見せた。出て来たのは二人分の最中で、樹の目はぱぁっと輝いた。

「ちょうだい!」

 奔馬さながらの勢いで美埼の下へ駆け寄り、手を伸ばす。手渡してくれた美埼は、若干引き気味だった。

「あんた達、保育園でおやつ食べたんでしょ?」

「今日のは美味しくなかったから良いの!」

「あっそ」

「プリンだった!」

「あっそ」

 渚と並んでソファーに座って、貰った最中を開封する。

 樹は一人で早々と食べ始め、渚は樹が食べ始めたのを確認してから食べる。もはや当たり前となった光景だ。

「姉さんは?」

「クッキー貰ったわ。私、和菓子は嫌いなの」

「わがし?」

「あんた達がいつも食べてるようなやつよ」

 素っ気なく答えると、美埼は今度こそ宿題を再開した。

 スモックにぼろぼろと零しながら好物を完食した樹は、ふと美埼に尋ねてみた。

「学校、楽しい?」

「え?」

 美埼が顔を上げる。少し意表を突かれたような顔だ。

「別に普通だけど。急に何?」

「僕も早く行きたい!」

 自分ももう六歳だ。来年には黒いランドセルを背負って学校に行くのだ。渚と美埼と一緒に。三人で学校に行くのが、樹は既に楽しみで仕方がなかった。

 樹が愛してやまない、穏やかで楽しい日々。それはあの怪物が現れるまで、ずっとずっと続いていった。



【To be continued】

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