第34話 帰還[Mercurius]
「さっきのこと、皆には黙っててくれる?」
アパートに戻る途中、樹がもごもごとそんなことを口にした。鈴はどきりとして、つい視線を明後日の方向へと逃がした。
「えっと……大泣きしたこと?」
「そ、それもあるけど」
「……キスのこと?」
「うん……」
「だよね……」
互いに黙った。
二人揃って顔が赤い。ほんのりどころの騒ぎではない。今にも全身から湯気が立ち昇り、跡形もなく蒸発してしまいそうだ。
当初は照れや羞恥といった感情が入り込む余地はなかったが、ある程度の平静を取り戻した今はもう違う。ここが自宅なら、カーペットの上をのたうち回りながら絶叫しているところだろう。
余りの恥ずかしさに、いつも以上に無言が気まずい。こんなものがまだ暫く続くのかと思うと、耐えがたいものがある。
「あ……あのね、樹君」
「な、何?」
「樹君って、ヘタレに見えて意外と大胆――いひゃい!」
「二度と言うな」
「いひゃいいひゃいいひゃい!」
回らない頭で頑張ってはみたものの、地雷を踏んだだけだった。ドスを効かせた樹の声が、たまらなく恐ろしかった。
* *
樹が一〇一号室のドアを開けるのを後ろから見ていたら、玄関内に変化が生じていることに気付いた。土間には既にディアナのパンプスはなく、男性用のスニーカーが二足並んでいた。
「お帰りー」
リビングの方で、燿の陽気な声がする。
樹と共にリビングへ戻った鈴は、ローテーブルに着いてペットボトルの紅茶を飲む燿と、黙々とスマートフォンを弄る渚の姿を認めた。
「二人とも帰ってたんだ」
「たった今ね。なんやかんやで遅くなったけど」
樹の言葉に応える傍ら、軽快に笑う燿。そんな彼の斜向かいに座る渚が、おもむろにスマートフォンを置いてこちらを向いた。
「……渚、お帰り」
「ああ」
樹と渚が交わした挨拶程度の会話の中に、鈴は強い違和感を覚えた。樹の声が妙にぎこちなく、渚の態度がどことなく他人行儀に見えたのだ。理由は見当も付かないが、こんな二人を見るのは初めてだった。
樹とまっすぐに視線を合わせて、渚は早々と口火を切った。
「お前に言っておかなければならないことがある」
「何……?」
「あの半年間のことだ」
渚が淡々と答える。樹が動揺を滲ませた。
「渚、まさか記憶が……」
樹が呆然と発した呟きとも問いとも取れる言葉は、沈黙をもって肯定された。
微動だにしない無表情で樹を見上げる渚と、そんな渚を気まずそうに見下ろす樹。二人の間に立ち込める空気は異様を極め、普段の彼らを知る者の不安を煽った。静かで、不穏で、冷えた空気に息が詰まる。胸騒ぎがした。
「恨むなら恨め」
この空気を作り出した当人である渚が、再び口を開く。樹の顔がさっと青ざめた。
「お前は私が死なせたようなものだ」
海底さながらの静けさが室内を満たす。誰もが口を閉ざし、身じろぎ一つしない世界。まるで時が止まったかのようだ。
永遠に終わらない気さえしていたこの静けさは、先の渚の言葉を唯一理解した樹によって、唐突な終わりを迎えた。
「違う!」
悲嘆や苦痛の色を浮かべ、樹は語気を荒らげて反論した。
「何が違う?」
「あれは僕が弱かったから……! だから、悪いのは僕だ!」
渚に対し、樹が必死に異を唱えている。鈴には意味を知る術がない。二人の遣り取りは続く。
「僕が強かったら、もっとしっかりしてたら、きっとあんなことにはならなかった!」
渚は樹の反論を黙って聞いている。しかし、間もなく状況は一変した。
「渚のことだって、最後まで守ってやれた!」
樹がそう叫ぶ否や、渚が目を見開いた。
「渚は僕が守らなくちゃいけないのに……!」
渚が立ち上がる。間髪容れず樹に近付いた渚は、樹の胸倉を掴み、後方の壁に叩き付けた。樹が苦悶の表情で呻きを上げ、数度咳き込んだ。こちらが一声も発する間もなく一連の動作を終えた渚は、己の内の激しい感情を剥き出しにした。
「馬鹿にしているのかっ!」
激昂した渚の形相には、他者を圧倒する苛烈さがあった。
「な、ぎさ……?」
壁に押し付けられたまま、樹は狼狽している。渚は噛み締めた唇を震わせながら、そんな樹を乱暴に解放すると、瞳の奥に宿った悲愴を隠すように、この場にいる皆に背を向けてしまった。
「なぎ――」
「うるさいっ!」
樹の声を怒号で潰すと、渚はもうここにはいたくないとばかりに家を飛び出して行った。屋内に残された三人の間に、重苦しい沈黙が下りる。鈴は樹と共に呆然と立ち尽くし、燿は呆れ切った顔で頬杖を突いている。
樹と渚の間で起きた口論の間、燿は始終無表情に口を引き結んでいて、傍目には何を考えているか分からない状態だった。長らく静寂を貫いた彼は、ここでようやく言葉を発した。
「何があったのか知らないけどさ。今のはユピテルが悪いよ」
「え?」
「ユピテルも、そろそろ弟離れしてあげなよ」
樹の表情が当惑から瞠若に変わった。絶句する樹に構わず、燿はのんびりと腰を浮かせた。
「燿さん?」
「ちょっと野暮用。すぐ戻るねー」
鈴に短く答え、燿もまた家を出て行った。
二人だけが残ったリビングで、足の力が抜けたようにその場に座り込んだ樹は、消え入りそうな呟きを漏らした。
「……僕は馬鹿だ。何も分かってなかった。分かろうともしてなかった。……なんて馬鹿なんだろう」
「樹君……」
汲み取れない事情はたくさんある。けれど、鈴は樹の肩をそっと抱いて、寄り添った。
「大丈夫だよ」
きっとまたすぐに分かり合える。たったの二ヶ月とはいえ、樹と渚を間近で見て来たからこその確信だった。
* *
初めて死神を殺したあの日も、初めて大怪我をしたあの日も、樹は死んだような目をして泣いていた。助けに来た燿やアポロ達の声にも反応を示さず、ぼろぼろと涙を流し続けていた。
そんな樹の姿を目の当たりにした渚は、絶望と自己嫌悪に打ちひしがれた。たくさんの負の感情に魂を掻きむしられながら、彼は思った。どうして、自分はいつもこうなのだろうと。
物心付いた頃には、既に渚は樹の後ろでおどおどするだけの存在に成り果てていた。樹に庇われ、守られるだけの意気地なし。樹の前どころか、隣にすら立てない情けない弟。それは死神になった後も、何一つ変わらなかった。
菫色。どんなに仲間との共闘を望んでも、大鎌は応えてくれない。光の宿らない大鎌など、普通の、或いは藍色の死神の前では羽虫も同然だ。結局、死神になった後も、渚の立ち位置は変わらず樹の後ろだった。それより先には行けない。どうやっても行くことは叶わないと決まってしまった。樹が戦って傷付くその度に、渚も心の中で傷付いていた。
けれど、弱い自分にはどうすることも出来ない。最初こそそう思っていた渚だが、ある日気付いた。たった一つだけ出来ることがあると。
自分の弱さが必要以上に樹の手を煩わせ、余計な負担を強いているのなら、この弱い自分を殺してしまえば良い。
それから、渚は泣くのをやめた。弱音を吐くのをやめた。笑うのをやめた。人を頼るのをやめた。向けられた好意を享受するのをやめた。どれだけ嫌われようが、どれだけ後ろ指を指されようが、樹や仲間達が役目に集中出来るのならそれで良かった。
弱い自分を見せたら、樹はまた渚を守ろうとするに違いない。自らを顧みず、当たり前に助けようとするに違いない。だから、渚は表面上だけでも強くあろうと、今日まで自分を偽って生きてきた。
しかし、それらは全くの無駄だった。
『渚は僕が守らなくちゃいけないのに……!』
樹のあの台詞が、全てを物語っていた。樹にとって、渚は今でも守るべき対象でしかないのだと思い知らされた。渚が意気地なしだった頃と何も変わっていなかった。全部、全部、無駄だったのだ。
先ほど樹にしたことは、単なる八つ当たりだ。だが、抑えられなかった。傷付いて、絶望して、逆上してしまった。
「……」
サークルベンチに座って、意味もなく地面を見詰める。ずっと物思いに沈んでいた。偽りの人格は、もうほとんど機能していない。心はすっかり空洞化してしまっている。
とはいえ、心が死んでも五感は動く。歩幅の広い靴音がこちらへ近付いて来ている。大方予想は付く。どうせ来るだろうとは思っていた。
「隣、座って良い?」
「座ってから聞くな」
無遠慮な燿の言動も、今は怒る気にもなれない。
手元に缶コーヒーが置かれた。程なくして、隣からプルタブを引く音が下りて来た。
「お代はカモミールで良いよ」
「黙れ」
「ローズマリーでも良いよ」
「黙れ」
条件反射の言葉にも力が入らない。
胸の中の暗澹を持て余しながら、缶を手に取り、プルタブを引く。飲むつもりで開封したが、そこで手が止まってしまった。微かに波打つコーヒーをぼんやりと見下ろしていると、ほんの少しだけ大人しくしていた燿が口を開いた。
「君達って、揃いも揃って馬鹿だよね」
清々しいほど直球な悪口に、却って感心した。
「わざわざ罵りに来たのか? ご苦労なことだ」
「こんな時ぐらい、強がるのやめたら?」
思わず口を噤んだ。燿は全て知っている。
渚がかつての自分を殺した日のことだ。仲間達が驚き、戸惑いを露にする中で、燿だけは平然としていた。燿は何も聞いてこようとはせず、からかってくる素振りも見せず、なんでもない顔で『そっか』と口にしただけだった。
こちらが隠している本音にも、重ねてきた努力にも、燿はめざとく気付く。いつもいつも腹が立つ。
騒々しくて、空気が読めなくて、常識知らずで、身勝手で――人を良く見ていて、人の心を簡単に掌握してくる。そんな燿のことが、渚は昔から嫌いで、苦手で、怖かった。
「君は頑張ってたよ」
素っ気ない言葉。思考が緩やかに止まっていく。
「見てるこっちがヒヤヒヤするぐらいね」
死んで冷たくなった心が息を吹き返したように、無尽蔵に込み上げて来るものがあった。
「……良いんじゃないの。こんな時ぐらい、泣き虫に戻っても」
空の色が変わり始めた。だが、まだ帰れない。また頑張れるようになるまでは、まだ。
【間章3 End】
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