第31話 旅立ち[中編]

 ふと気が付くと、樹はある路地裏に立っていた。

 この場所には覚えがあった。戸惑いながら、怯えながら視線を這わせていく。その末に、樹は袋小路に一人の死神の姿を見出した。背筋が凍り付いた。

 これは夢だ。現実ではない。彼が生きている訳がないのだ。

「ユピテル」

 プルトンは持ち前の温厚な笑みを浮かべて、樹に語り掛ける。

「君は充分頑張ったよ。沢山傷付いて、疲れただろう? もう楽になっても良いんじゃないか?」

 笑みを浮かべたまま、プルトンが緩慢な足取りで歩いて来る。

 歯の根が合わない。逃げ出したいのに、足は地に縫い付けられたかのように動かない。

「そうだ。君に言いたいことがあるんだ」

 嫌だ。聞きたくない。やめてくれ。

 目の前までやって来たプルトンが、樹よりも少し高い位置にある瞳で樹を見下ろす。

「オレを有難う」

 世界が暗転する。

 視界がクリアになった時、樹はある横断歩道の先の歩道に立っていた。普段の樹の行動圏外の、それでも決して忘れることの出来ないこの場所に、一人の少年がぽつんと佇んでいた。

 樹と同じ学校の制服を着た少年。クラスメイトの少年。あの日、少年。

「き――」

「宇野」

 樹の上擦った声は遮られた。

 お願いだから、もうやめてくれ。やめて。やめて。やめて。やめて。やめて。やめて。

「なんで、んだよ」

 木谷きたには仮面のような無表情で言った。


 * *


 恐怖を集約した絶叫と共に、樹は目を覚ました。

 自宅のアパートの寝室を兼ねた一室。室内も窓の外も既に暗く、あれから随分と時間が経っているのが窺えた。が、激情に平常心を蹂躙された今、それ以上のことは分からない。全身はがちがちに硬直し、心臓は激しく脈を打っている。上手く息が出来ない。背中を丸め、胸を押さえて喘ぐのがやっとだった。

 時間を掛けて、少しずつ息を整えていく。ほんの僅かに呼吸が楽になってきた頃、部屋のドアが静かに開かれた。リビングから入って来た明かりによって、室内の輪郭が浮かび上がる。

「……樹?」

 緊張を含んだ渚の声。徐々に気配が近付いて来る。樹が黙したまま動かないでいると、視界の端で渚が屈み、ゆっくりとこちらへ手を伸ばしてきた。

「樹――」

「っ!」

 、伸ばされた手を払いのけていた。

 二人同時に息を呑んだ。室内の音という音が消えた。

 目を見開いて、震えながら渚を見る。渚は顔を強ばらせ、絶句している。行き場を失くした手が宙で停止していた。

「あ……ごめん……」

 蚊が鳴くような声で謝るも、返事はない。

 渚の表情が悲愴に歪む。しかし、渚は早々と立ち上がり、樹に背を向けることで、その歪んだ表情を隠してしまった。逃げるように部屋を出て行く渚に、樹は何一つ言葉を掛けられなかった。再びドアが閉まり、部屋は暗闇で満たされた。

 酷い眩暈がした。固く瞼を閉ざし、布団を頭まで被った。先ほど見た夢と、昼に姉から返還された半年間の記憶が、脳内を休みなく駆け回っている。悲嘆と後悔とで、胸が押し潰されそうだった。自分の心が壊れされていくのが分かった。

 きっと、自分はもう元の自分には戻れない。渚や燿、アポロ達の中に居場所を見出すことも――鈴と笑い合うことも。今まで通りのことが、きっともう出来ない。

「……」

 樹はふと思い出したように身を起こした。

 大鎌を呼び出し、藍色の光を灯す。それを、くらい瞳でぼんやりと眺める。なんの感情も湧いては来なかった。


 * *


「うー、駄目だー。もう食べられないよー」

「起きろ。馬鹿者」

 シートに体重を掛け、阿呆な寝言を繰り返す燿の体たらくに業を煮やした渚は、助手席から憤然と身を乗り出した。

「これ以上食べたら俺死んじゃ――ぶっ!」

「起きろと言っている」

 中身の入ったペットボトルで燿の頬を強打し、有無を言わさず覚醒させた。これでようやく燿は起きたものの、この期に及んで大欠伸をする姿に殺意さえ覚えた。

「もう……なんで起こすのさ。まだ眠いよ」

「休憩が長い」

「まだ三十分だよ」

「長い」

 渚は語調を荒らげた。

 連れて行って貰う立場なので、多少は目をつぶってやるつもりでいたが、それにしても限度というものがある。こんな時に、走った距離の半分を休憩に充てるとは何事か。

「俺が居眠りして事故ったらメルクリウスのせいだからね」

「ふざけるな。大体――」

「はいはい。じゃあ行くよー」

 あしらわれた。更に不快だ。しかし、喉まで出掛かった不平不満は飲み込んだ。燿が真面目な顔に戻ったためだ。やっとその気になったのなら、いま余計な言動をするのは得策ではない。

 燿はシートベルトを締め直し、雨が降りしきる山道の路肩から車を発進させた。ウラヌスの家までは、まだ暫くこの道を上る必要があるらしい。煩わしい。

 窓の外を見たところで景色はほぼ変わらず、なんの気晴らしにもならない。だからといって、酔うリスクを冒してまでスマートフォンを弄る気にもならない。

 焦っても苛立っても仕方がないと頭では分かっていても、何度も何度も反復する雑念のせいで落ち着かない。

 認めたくもないが、雑念の中には怯えもあった。覚悟を決めたにも関わらず、自分は未だに過去と向き合うことに怯えているのだ。

 もう意気地なしに戻る訳にはいかない。この意識的に作った人格を、今後もずっと維持し続けなければならない。なのに、上手くいかない。昨日からは、特にそれが著しく出てしまっている。

 物思いに沈んでいると、燿が唐突に口を開いた。

「で、今日どうしたの? 咲き終えたチューリップみたいになってるけど」

 燿が発した言葉は、渚のなけなしの装いを挫くものだった。

 幾ら取り繕っても、この男は見抜いてくる。聞かれたくないことばかりを狙ったように聞いてくる。腹の底から嫌な感情が湧き上がり、瞬く間に渚の胸を満たした。

「ねぇってば」

「黙れ」

 声と心を殺し、応答を拒否するのがやっとだった。


 * *


 日曜の稽古と昼食を済ませ、買い物をしてから樹達の家に向かった。早い時間に訪ねるのは気が引けたため、はやる気持ちを抑えてここまで時間を潰した。

 この辺りはほとんど来たことがないが、学校から徒歩圏内だったのが幸いし、さほど迷うことはなかった。

 樹達が暮らすアパートに難なく到着し、一〇一号室のドアの前に立つ。表札には何も書かれていないものの、昨日しかと確認したので間違いはない。

 渚も燿も既に出発しているだろうが、代理で留守番を任された死神が中にいる筈だ。彼または彼女が出てくれると信じて、表札のすぐ下にあるインターフォンを鳴らした。応答は早かった。

『貴方が諸星さん?』

 スピーカー越しに女性の声が聞こえた。落ち着きのあるとても静かな声音だった。

「はい」

 鈴が返事をすると、程なくしてドアが緩やかに開かれた。

「上がって」

 小柄で、大人しげで、人形のような顔立ちの女性が立っていた。外見上の年齢は燿より少し上といったところか。彼女はどこか儚げな微笑を湛え、鈴を中に招き入れてくれた。

「初めまして。諸星鈴です。えっと……」

「わたしはディアナ。ユピテル達とは課が同じなの」

 簡単な自己紹介の後、鈴はリビングに通された。

「今、お茶を用意するから――」

「あ、大丈夫です! あります」

「そう」

 買って来た麦茶のペットボトルを取り出してから、荷物を部屋の隅に纏めて置き、昨日と同じ席に着いた。

 ディアナは鈴の斜向かいの窓際に腰を下ろし、文庫本に視線を落としている。人形のような彼女がたおやかに本を読む横顔は、知的で美しかった。

「あの……樹君はまだ?」

「ええ。昨晩、一時的に起きていたとメルクリウスが言っていたのだけれど、話は出来なかったみたい」

「そうですか……」

 鈴は肩を落とした。やはり、樹はまだ満足に起きられる状態ではないらしい。樹の欠けていた記憶は、想像が追い付かないほどつらく、悲しく、苦しいものに違いない。そんな凄惨なものを、樹は今たった一人で抱えているのだ。

 現状、鈴が樹にしてあげられることは一つとしてない。悔しかった。申し訳なかった。恋人なのに。

「樹君に会っても良いですか?」

「もちろん」

 快い承諾を貰って、樹が眠っている部屋のドアをかちゃりと開けた。樹は自分の体を抱き締めるように背を丸くし、寝息を立てている。しかし、顔色は昨日よりも悪くなっていた。

 樹の脇に座って、頭を撫でる。前に樹がしてくれたみたいに。

「一人じゃないからね……」

 眉尻を下げながら、樹に語り掛ける。

 せめて樹が孤独にならないよう、鈴は樹に寄り添い続けた。



【To be continued】

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