第32話 旅立ち[後編]
山道をひたすら走行し、敷地内の駐車場に駐車した後、そこそこ勾配のある坂道を概ね五百メートル進んでから、石段を二百段余り上る。ウラヌスの暮らす屋敷は、そんな来客に喧嘩を売っているとしか思えない立地に厳かに聳えていた。
その呆れるほどの広さは、もはや屋敷というより豪邸の域だ。幾ら死神達の会合の場を兼ねているとはいえ、こんな所で一人暮らしをしようと思えるウラヌスの気が知れない。
「着いたよ。お疲れ」
後ろで息切れしている渚を適当に労いながら、豪奢な木製の門扉の前に立つ。
凝った彫刻が施された木製の表札の下に、やはり木製のカバーが付いたモダンなインターフォンが設置されている。この後のことを考えると気だるいが、渋々それを押す。
この屋敷は会合の場ではあるが、燿が出入りを許されたのは割と最近だ。それなりに長く死神をやっている燿ですらこれなのだから、若すぎる渚はまだ当分来ることはない。筈だった。まさかこんな形で連れて来る羽目になるとは。
『悪天候の中、ご苦労様です。客間でお待ちしています』
スピーカー越しに聞こえた呑気な声は、こちらが文句を言う前にぷっつりと切れた。幾つもの物騒な衝動を抑えつつ、燿は渚と共に解錠済みの門扉をくぐった。
玄関の引き戸を開け、屋敷に上がる。そして、数歩先の客間の戸を乱雑に叩いて、間髪容れずに無断で開け放った。効果など知ったことではない。単なる仕返しを兼ねた鬱憤晴らしだ。
「遅刻ですよ」
中にいたウラヌスは、ゆるキャラさながらの緩い横顔を晒しながら、湯呑みにお茶を注いでいた。
「四十五分休憩したぐらいで目くじら立てないでよー」
「遅刻です」
ウラヌスが緩い顔をこちらに向ける。
「直接お会いするのは久し振りですね。メルクリウス」
「そうだったな」
鼻を鳴らし、渚は素っ気なく応じる。しかし、取り繕っているのは傍目にも明らかだった。
「随分緊張しているようですが」
「……うるさい。早くしろ」
虚勢を容易く見破られた渚は、片眉を吊り上げた。彼は燿の次くらいにウラヌスを嫌っている。
「あの日以来、君はすっかりせっかちになってしまいましたね」
急須を置き、緩慢な挙動で立ち上がったウラヌスは、周りの家具や道具への接触を避けるため、大窓の方まで移動する。
「こちらへどうぞ」
巻き込まれたくないので、さりげなく離れながら二人の動向を見守る。そろそろ大人しくしているのがつらくなってきた。無駄口を叩けない現状、うずうずして仕方ない。
「一つ、確認しておきたいことがあります」
「なんだ?」
目の前の渚に、ウラヌスはにこやかに問う。
「耐えられる自信はありますか?」
「!」
渚が隠し切れない狼狽を見せた。
「記憶を取り戻したとして、闇に染まらずにいられる自信は? 我々を裏切らない自信はありますか?」
渚はウラヌスから逃れるように視線を落とし、苦い表情で服の袖を握り締めている。返す言葉を見出せないらしい。
確かに、ウラヌスは会うとは言ったが、記憶を返すとまでは言っていない。先の確認は、その是非を見極めるためのものだ。
ウラヌスに下手な小細工が通じないのは、渚も充分承知しているだろう。ひとしきり沈黙してから、彼は引き結んでいた口をゆっくりと動かしていった。
「……ない」
「正直でよろしい」
渚の苦渋の末の自白を聞いたウラヌスは、どこか満足げに頷いた後、手中に大鎌を呼び出した。
「では、始めましょうか」
「今の遣り取りいる!?」
断腸の思いで空気を読んでいたというのに、台無しにされた。しかし、燿の条件反射の叫びは、誰からも相手にされなかった。疲労感に苛まれる燿を脇に、ウラヌスの大鎌が緑色に輝いた。
* *
「ユピテルのこと、好きなの?」
部屋のドアを閉め忘れてしまっていたのは、樹のことで頭がいっぱいになっていたためだろう。突然尋ねられ、鈴はリビングにいるディアナを振り返った。ディアナは指を栞代わりに文庫本を置き、こちらに静かな眼差しを向けていた。
尋ねられて驚きはしたものの、鈴の心は不思議と落ち着いていた。返答への躊躇いも生じないほどに。
「はい」
「……」
「良くないのは分かってます。人間と死神は似てるけど、違うところもいっぱいあるから。人間は歳を重ねるごとに体に変化があったて、寿命もあって、生き方も死神とはだいぶ違う。ずっと傍にいるのが難しいから、お互いにつらい想いをする日がきっと来るって。ちゃんと分かってるんです。でも……」
「良いのよ」
ディアナがゆるゆると頭を振る。
「死神が人間と親密になるのは非推奨とされているけれど、お互いに惹かれてしまったのなら、それはもう仕方のないこと。人間はもちろん、死神にだって心はあるのだから」
ディアナは続けて語る。
「その『つらい想い』をして傷付いて、苦しんだ死神はたくさんいるわ。……そうやって苦しんだ死神達は、大抵はすぐに懲りて、人間とある程度の距離を置き始めるのだけれど、ユピテルは未だにそれが上手く出来ないの。元がお人好しで、人好きだからでしょうね。人を遠ざけるのが苦手で、少しでも関われば情が湧く。そして、その情をいつまでも捨てられない」
樹をここまで知った今だからこそ、ディアナの言葉が良く分かる。樹はまさにそういう人だ。
「メルクリウスもマルスも、最初の内は警告していたのよ。人間と必要以上に仲良くなるのはやめておけって。あの子達は、ユピテルが過去に何度も『つらい想い』をしたのを知っているから」
「……」
何度も。分かっていた筈なのに、心に小さな淀みが生じた。
「でも、今はもうそんな気はないみたい」
「どうしてですか……?」
「察したからでしょうね。ユピテルが、全てを覚悟した上で貴方と一緒にいるんだって」
「!」
目を見張る鈴と向かい合い、ディアナが口元を綻ばせる。
「ユピテルは分かりやすいから。これまでは人間と関わる度に物憂げな顔をしていたのに、今はそれが全くないの。『腹が立つぐらい吹っ切れた顔してる』って、前にマルスがぼやいていたわ」
「そう、だったんだ……」
知らなかった。何も気付かなかった。鈴が樹の本質を理解し切るには、どうやらまだまだ時間が必要らしい。
「……ん……」
微かな呻き。窓越しの喧騒とほぼ同化していたこれは、こうして至近距離にいなければ拾えなかったに違いない。
はっと樹に視線を戻す。樹は遅緩な身動ぎを経て、力なく瞼を持ち上げた。
「樹君」
幾らかほっとして呼び掛ける。だが、それは刹那的な安堵でしかなく、まだ焦点の定まらない樹の瞳は、僅かな生気すら見出せないほど濁っていた。
やがて、その濁った瞳が鈴を捉えた。表情と呼べる表情は何もなく、瞳の奥には果てのない空虚が広がっている。
自分の顔が硬直していたことに気付き、鈴は内心慌てた。支える立場の自分がこれではいけない。樹が目覚め、自分を認識してくれた事実をバネに、鈴は精一杯笑った。
「急にごめんね。お見舞いに来たよ」
「……」
「そ、それでね。来る前にコンビニ寄って、食べられそうな物とか、飲み物とか買ったの。お腹空いてない? なんか食べる?」
「……うん」
糸よりも細い声で頷く樹。彼は半身を鉛のように重たげに起こすと、再び沈黙してしまった。
「じゃあ、持って来るね。ちょっと待ってて」
悲しみに押し潰されそうな心を奮い立たせながら、鈴は慌ただしく立ち上がった。
* *
間もなく日付けが変わる。
山奥にぽつんと建っている一軒家ということもあり、屋敷の外には濃厚を極めた闇が満ちている。じっと見ていると吸い込まれそうな気がしなくもない常闇からは、凶暴な獣や常軌を逸した人間が飛び出して来そうな空気が漂っていなくもない。ここに樹がいれば別の意味で怯えているところだろうが、残念ながらいない。笑い種を増やせないのは悔しい。
「あのさ、ウラヌス」
「はい」
「さっきから、絶対イカサマしてるよね?」
座卓を挟んだ向かいに座るウラヌスに、燿はあらんばかりの不満と不信に基づく嫌味をぶつけた。しかし、ウラヌスは鉄壁のニコニコ顔を維持したまま、動じる素振りも見せない。分かってはいても、いざ見せ付けられると小腹が立つ。
「していませんよ。君が弱いだけです」
「うわー、ぶっ殺したい」
にこやかに通告され、自分の目が据わったのを自覚する。
「だって、五光に松竹梅に猪鹿蝶とか有り得ないでしょ」
「有り得ないことは起こりません」
「まぐれならまだ分かるよ。でも違うじゃん。イカサマじゃん」
「していませんよ。君が弱いだけです」
「遺言があるなら聞くよ」
大鎌を呼び出そうとした時、部屋の隅で膝を抱えていた渚が僅かに動いた。血の気の引いた顔がうずめられ、泣き腫らした目と共に見えなくなった。そんな意識の有無が分かる程度の動きを見せたきり、渚はまた動くのをやめた。
渚は記憶を返還されてすぐに意識を失い、そのまま半日以上も眠り続けた。半日以上が過ぎてようやく起きて来たかと思えば、膝を抱えて泣き始めた。声を掛けても返事をせず、こちらを見ようともしない。けれど、それでもこの部屋に戻って来たのは、一人でいるのが怖いからだろう。
記憶を返還されて以来、渚はうわ言のように自虐と懺悔の言葉を繰り返していた。そして、ずっと怯えていた。彼の怯えの対象を知る術は、少なくとも今の燿にはない。どうせ宇野美埼かサトゥルヌスかクソアマ辺りだろうと、揺るぎない確信を持つのがやっとだ。
瞼を落とし、嘆息した。無意識だった。だが、何に対する嘆息だったのかは分かる。
花札を片付ける傍ら、燿はウラヌスに話し掛けた。
「ウラヌス」
「はい」
「愚痴って良い?」
「どうぞ」
ウラヌスが、持っていた湯呑みを茶托の上に戻す。
「俺、正直ちょっと不安なんだよね。これまで世話役なんてやったことなかったし、そんな柄でもないしさ。……だから、ちゃんと出来るのかなって。俺の世話役だったアポロ達みたいに」
「……」
「ほんと、なんでこんな大事になっちゃうかな。俺一人でどうしろってのさ。もうキャパシティ爆ぜそうだよ」
これでも大真面目な燿に対し、ウラヌスは相槌の一つも打ってはくれず、表情は静止画のようだ。もはや聞いているのか聞いていないのか、起きているのか寝ているのかさえ判断に難しい。別に助言など要らないが、話す相手を間違えた。先ほどとは要因の異なる嘆息を漏らし、燿は纏めた花札を桐箱に戻した。
目の前の静止画が動いたのは、ちょうどその時だった。
「一人でやらなければ良いのでは?」
「へ?」
燿は細い目を極限まで見開き、ウラヌスを三度見した。
ウラヌスのニコニコ顔に、微かな怪訝の色が浮かんでいる。あたかも、そんなことで悩む理由が分からないとでも言いたげだ。
「え? どういうこと? え?」
「ああ、もう急須が空ですね。少々お待ちを」
「え? え?」
前後を忘れて挙動不審に陥った燿は、急須を片手にのほほんと腰を上げたウラヌスに置き去りにされた。
後には、雨音だけが残った。
【第9章 End】
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