第52話 懐かしの地で

 時刻は正午過ぎ。曇天の下、オーバーコートを纏い、大鎌を手にした三人は、美埼が小学校を目指し、淡々と歩みを続けていた。

「都会と田舎の中間くらいの町だね。気楽に住めそう」

 樹と渚の後ろを歩きながら、燿が褒めているのかいないのか分からない感想を述べる。聞き流した。

 樹や渚が生まれ育ったこの町は、あの頃とは少し変わっていた。十年以上が経過しているのだから、なんら不思議はないのだが、どこか寂しい気持ちもあった。

「二人とも。分ってるとは思うけど」

 燿が僅かに真面目な口調になり、樹達に念を押す。

「人間の君達が死んで、まだ十年そこそこしか経ってない訳だから、なるべく人に見られないようにね。死んだ子供が当時の姿のまま出て行ったりしたら、ちょっと面倒なことになりかねないからね」

 樹達がこうして早い段階でオーバーコートを着用しているのは、まさにこれが理由だ。

 樹は引き続き前方を見据え、燿の念押しに頷いた。

「大丈夫。気を付ける」

「ならよし」

 会話は再び途切れた。

 道中、懐かしい光景に幾度となく目を奪われ、危うく足が止まりそうになった。――ただ一つの例外を除いては。

 五人で暮らしていたあの家は、既に取り壊されていた。今は別の家が建ち、新しい住人がいる。この場所だけは、どうしても直視することが出来なかった。

「余所見をするな」

「!」

 発言もなく隣を歩いていた渚が、落ち着いた様子で、淡々と注意を促してきた。

「あ……ごめん」

 真っ当な指摘を受けて、樹は自分の至らなさを侘びた。

 渚は飽くまで冷静だった。何も感じていない訳はないが、樹のように感情に左右されることなく、この場所での正しい在り方をしている。

 しかし、樹がそう考えた矢先、渚は不意に視線を落とした。

「……もう終わったことだ」

 たぶん、本人は気付いていない。渚の微かに沈んだ声は、樹の認識を覆した。

「渚」

 仄かな悲しみを胸に抱き、樹は渚を呼んだ。

 渚は一見冷静な表情でこちらに目を遣り、無言で樹の言葉を待っている。

「こんな時まで、無理しなくて良いから」

 以前のように、渚を下に見てはいない。同情もしていない。これは樹の勝手な願いだ。

 渚は虚を衝かれた様子で、明確な困惑と焦燥の色を滲ませながら、暫し石のように黙りこくった。やがて、険を纏ったその視線は、決まりが悪そうに明後日の方向へ逸された。

「うるさい」

 否定ではなく、お約束の四文字が返って来たところで、後ろを歩いていた燿がいきなり吹き出した。

「え? マルス?」

「ううん。なんでもない」

 ニヤニヤしつつも、燿は詳細を伏せた。

 意味が呑み込めず、取り残された樹の隣で、渚が殺意すら感じる形相で燿を睨み付けている。樹の知らない所で何かあったのかも知れないが、触れるのはやめておくことにした。


 * *


 母校の正面玄関には、既にアポロ達の姿があった。いち早くこちらに気付いたディアナが、微笑を浮かべて手を挙げた。

 平日の昼間だというのに、教員や生徒の姿はどこにも見当たらない。風が草木の揺らす微かな音が漂う程度だ。人気の欠如した寂然な学校は、傍目には廃校にしか見えない。理由は言うに及ばず。燿が和服の男に声を掛けた。

「ウラヌス、またなんかしたでしょ?」

「はい」

 長い白髪を微風で揺らし、今日も揺るぎないニコニコ顔で、ウラヌスは燿の問いをすんなり肯定した。

「人払いはしておきます。あとはどうぞご自由に。もちろん、掟の範囲内でお願いしますよ」

「有難う。ウラヌス」

「いえいえ。ユピテルは素直で良いですね」

 悪気がないのは分かっている。渚が舌打した理由も、ウラヌスは理解していないだろう。

「おれはここに控えとく。マルスがヘマした時のためにな」

「うわー、ユピテルより弱い人がなんか言ってるー」

「ぶん殴るぞ」

 こっちはこっちで、いつもの喧嘩未満が勃発していた。

 課の皆は相変わらずだ。普段と何も変わらない。その光景を目にする内に、樹は自分が必要以上に思い詰めていたことに気付く。一度胸に手を当てて、深く息を吐いた。

「とにかく、だ」

 咳払いし、無理やり場を仕切り直したアポロが、樹と渚をまっすぐに見据える。

「思う存分、兄弟喧嘩して来い。サポートは大人おれたちに任せとけば良い」

 続いて、ディアナがポケットから取り出したスマートフォンを指し示す。

「いつでも連絡して頂戴ね」

 気遣いと優しさが心に染みた。こうして背中を押して貰うのは、これで何度目になるだろう。

「皆……有難う」

 たくさんの想いを一言に込めた。アポロ達になら伝わると確信して。

 渚が隣で難しい顔をして、何か言いたげにしていたが、結局その口から言葉が出ることはなかった。

「メルクリウスも『有難う』って言ってるよ!」

「な……っ」

 けれども、燿が悪気満載で言い放った内容はまさに図星だったらしく、いつにない渚の動揺ぶりに、この場にいる概ね全員の間で、緊張感のない笑いが沸いた。

「……全員、あとで覚えていろ」

 地を這うような声で悪役さながらの台詞を吐き捨て、渚はつかつかと一人で先へ行ってしまった。

「さーて。俺達も行きますか」

「うん。……マルス」

「何?」

 渚を追い掛ける傍ら、樹は燿に告げた。ずっと言いそびれていたことだ。

「頼りにしてるから」

 樹の言葉によほど意外性があったのか、燿の細い双眸がとたんに丸くなった。

「え? 急にどうしたの?」

「ちゃんと言ったことなかったから」

「そ、そう?」

 燿は僅かながらも目を泳がせ、ぽりぽりと頬を掻いた。視線が定まらない内に、彼はぼそっと独りごつ。

「調子狂うな……」

 この短時間で、樹は意図せず二人の意外な一面を知った。


 * *


 窓が締め切られ、外部から遮断された人気のない校舎内は、気味の悪い静寂に覆われていた。三人分の足音だけが、絶え間なく反響している。我ながら情けない話だが、今が昼でなければ、或いは渚や燿がいなければ、樹は別の意味で怯んでしまっていたかも知れない。

「おーい。あんまり前に行っちゃ駄目だよー」

 燿が彼なりの小声で警告する。

 どうやら、知らない間に歩調が早くなっていたらしい。樹も渚も、大人しく燿に従った。燿はボディーガードを兼ねて付いて来てくれてはいるものの、彼に頼りっ放しになるつもりはなかった。決着を付けるのは、飽くまで自分達だ。

 嵐の前の静けさ。いつ何が起きてもおかしくはない。美埼がどこに潜んでいるかも不明瞭な現状、隙を突かれる可能性も充分にある。

 不安がないと言えば嘘になるが、行かなければならない。美埼を退け、鈴を取り戻すために。鈴とまた笑い合うために。

 一階を見て回る。何もない。

「上かな……?」

「黙って歩け」

 独り言に対しても、渚は手厳しかった。

 二階を進む。物音一つしない。

「ほんとにいんのかな。あのチャバネゴキブリ」

 燿が若干イライラしているのが伝わって来た。

 三階。階段を上がり切った。西側には音楽室。東側には四年一組から順に各教室が並んでいる。ここからまた一部屋ずつ確認していく必要がある訳だが、既に三階だ。先はさほど長くないと思われる。



 矢先のことだった。場違いに落ち着いた、鈴の音のように澄んだ声。その悪意が滲む澄んだ声は、今まさに樹達の眼前にある、四年一組の教室から届いていた。

 とうに覚悟を決めていたのに、瞬時に怯んだ自分がいた。緊張が最高潮に達し、骨の髄まで冷えが回った。

 生唾を飲み、二人を振り向く。渚は青ざめた顔で唇を震わせながら、燿は害虫を見るかのような露骨なしかめっ面をしながら、それぞれ教室後方のドアを凝視している。

「ほら、行くよ」

 やや低めた声音で、燿が素っ気なく樹達を促した。先頭に立つ意思は見られない。自分に課された役割だけを、粛々と全うするつもりでいるのだ。

 樹は渚と共に頷き、教室に進み出る。緊張で汗ばんだ手でドアの持ち手を掴んで、ゆっくりと横に引いていった。

 警戒していた不意打ちに遭うことはなかった。美埼にその気はなかったらしい。しかし、薄気味悪い沈黙が落ちた室内は、当然のように荒されていた。酷く損傷した机や椅子が、乱雑に窓際へ押し遣られている。

 前方を見る。黒いオーバーコートを着た美埼が、教卓に悠然と腰を下ろし、にっこりと笑っていた。彼女の顔に浮かぶ笑みからは、隠す気もないであろう邪気が滲んでいる。

 だが、樹の目を引いたのは、美埼だけではない。教壇に力なく座り込んでいた少女が、顔を上げてこちらを見た。瞬間、その双眸が驚愕に見開かれた。

「樹君……?」

「鈴っ!」

 無事でいてくれたこと。顔が見られたこと。声が聞けたこと。名前を呼んでくれたこと。ただそれだけで、胸がいっぱいになった。瞳の奥に、じんわりと熱が広がった。

「良かった……」

 吹き零れる安堵。そして――美埼への怒りと怨恨。

「そんな今にも斬り掛かって来そうな顔しなくて良いのに」

 樹と視線が合うなり、美埼はくすくすと声を立てた。

「むしろ斬り掛かってよユピテル。あとでおやつ買ってあげるから」

 燿が樹を良い意味で、美埼を悪い意味で煽る。

 言われるまでもなく、樹はそうするつもりでいた。美埼が再び口を開くまでは。

「そうそう。先に言っておくわね。私は戦うためにここにいる訳じゃないの」

 一時、樹達が言葉を失くす。美埼は依然として攻撃してくる気配はないものの、到底信用に足る内容でないどころか、樹達の不信と警戒を加速させるものだった。

「本当よ? 私から仕掛けるつもりはないわ」

 当の本人も、信用されていないのは百も承知だろう。誰が何を言うより早く、どこまでも柔軟な態度で、美埼は重ねて断言した。しかし、真意を測りかねている樹達の目の前で、彼女は平然と大鎌に光を纏わせた。

ね」

 怖気が走るほどの狂気。軽やかな身のこなしで教卓から降り立った美埼は、教壇を踏み台に高く跳んだ。

「やめてっ!」

 鈴の絹を裂くような叫びも虚しく、美埼はどす黒く輝く大鎌を振り上げた。かつて燿を倒したあの禁術が、

「ちょっと! 言ってることとやって――」

 燿の罵倒が途切れる。樹も渚も突然の攻撃を前に動けなくなっていたが、樹は燿が微かに笑うのを聞いた気がした。

「しょうがないな」

 そんな燿の呟きは、どこか寂しそうで、優しかった。

 樹も渚も、抗いようがないほどの強力で、燿に突き飛ばされていた。為す術もなく倒れ伏した二人の背後で、凄まじい轟音が上がった。

 咄嗟に半身を起こし、渚と並んでそちらを振り返った。そこには既に燿の姿はなく、床上に巨大な穴が空いていた。

 全身から血の気が引いて行く。このおぞましい光景に愕然とする樹達のそばに、美埼が立つ。

 視界の端で、再び大鎌が持ち上げられた。美埼の意図は、嫌でも分かった。

「やめ――」

 振動を伴った樹の声は、新たな轟音に掻き消された。

 恐ろしさに、あらゆる思考が喰われつつあった。体が思う通りに動かない。

 その場にへたり込んで、力なく穴の中を覗く。けれど、見通すことすら叶わなかった。

 大量の瓦礫と、終わりの見えない暗闇。見下ろした先にあったのは、たったそれだけだった。嵐が過ぎ去った後のように、なんの物音も聞こえて来ない。

「ちょっと荒っぽくなったけど……あの人、普通に狙ったらよけちゃうから」

 美埼の言葉は、樹を失意の底に突き落とした。



【第12章 End】

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