第13章 よみがえり
第53話 帰還[Mars]
一九九一年八月十三日。
独り暮らしをしているアパートへ帰る途中、バッグに入れっ放しにしていたポケットベルが鳴った。これを仕事以外で使うことはほとんどないため、職場の誰かからだろう。そう思ったが、事実は違った。
表示された電話番号は、ついさっき立ち去ったばかりの実家のものだった。両親にこんな物は使いこなせない。となると、送信者は一人しかいない。
溜息混じりに確認した数字に、燿は眉を顰めた。
「さよならって何?」
一言もなく帰って行った燿への別れの挨拶――な訳がない。うっかり想像してしまったばかりに、危うく道のど真ん中で嘔吐するところだった。
しかし、この胸騒ぎはなんだ。
無視してアパートに帰るか、実家に戻って確かめるか。燿は自分でも驚くくらい、すんなりと後者を選んでいた。
血塗れの居間で、両親が死んでいた。
むごたらしい死に方をしている。両親のことが嫌いで堪らなかった燿ですら、思わず顔を背けてしまうほどに。
居間の片隅には、想像していた通りの人間がいた。血塗れの凶器をあちこちに放置し、変色した畳の上に座っている。
「へぇ、ほんとに来てくれたんだ? 送ってみるもんだね」
けれど、一瞬でも臆したのを悟られたくなくて、燿は努めて自制を利かせた声音で、久方振りに妹に話し掛けた。
「なんなのこれ。どういうつもり?」
狂気も露に、灯は燿の言葉に応じた。
「この家の血は残しちゃ駄目。根絶やしにしなきゃ駄目。そう思わない? あんただって、ずっとこの家が嫌だったんでしょ?」
「滅茶苦茶なこと言ってる自覚ある? 血迷うのは勝手だけど、限度ぐらい知っときなよ」
「あたしは正気だけど?」
「じゃあ何? 俺も殺す?」
「ううん。違う。あたしと一緒に死んで欲しくて」
何を言われたのか、暫くは理解出来なかった。
ひとしきり絶句した後、燿は唸るように言った。
「どいつもこいつも……。身勝手すぎて反吐が出る」
本当に、本当に。この家の人間は、どこまで人を不快にさせたら気が済むのか。
「寝言は寝て言いなよ。俺はもうこの家の人間じゃない。お前の狂言に付き合う義理なんか――」
「流れてる血は一緒なのに?」
「……っ」
言葉に詰まった。強烈な嫌悪と憎悪が、胸の中を満たしていく。
許せない。許さない。この忌まわしい妹も、そんな妹の言葉で傷付いている自分も。
「……お前のそういうとこ、ほんと嫌い。全部嫌いだけど」
結局一言も言い返せないまま、燿は低く吐き捨てた。
「奇遇だね。あたしもあんたが嫌い」
子供の頃から互いを憎んでいた兄妹は、積年の厭悪をぶつけるように睨み合った。
埒が明かない、何も生まない、無意味で長い睨み合い。終わらせたのは燿だった。
「良いよ」
灯が明瞭に動揺を示した。燿のこの言葉は、彼女の想定を遥かに上回っていたのだろう。
「一緒に死んでやるって言ってんの」
固まっている灯に、燿は冷淡に告げた。心はかつてないほど冷え切っていた。
燿は冷めた子供だった。心から笑ったことなど一度もない。
衣食住の提供だけが、親の責務だと信じて疑わない両親。子供達の前で怒鳴り散らすことを、なんとも思わない両親。生まれて間もない娘の世話を、小学生の息子に押し付ける両親。
燿にとって、妹の世話はさほど苦ではなかったものの、その妹も早い内に両親の影響を受け、変わってしまった。仲違いまで、そう時間は掛からなかった。燿と灯のごく普通の兄妹関係は、たった数年で幕を閉じた。
中学生になっても、高校生になっても、燿は依然として冷めた子供のままだった。
好きでも嫌いでもない授業を受けて、教室で友人達と馬鹿みたいな話をして、部室で将棋をして帰る。そして、家に帰ってうんざりする。そんな毎日。
成績が良かったのは、余計なことを考えなくて済むよう、勉強に明け暮れていたからだ。成績そのものには米粒大の興味すらなく、就職先も適当に選んだ。高校卒業後、すぐに実家から出られさえすれば、成績も職種もどうでも良かった。
実家を離れて一人になれば、少しはまともな人間になれるかもしれない。そんな幻想を抱いたこともあったが、所詮は幻想だった。社会人になっても、やはり燿は冷めたままだった。何も楽しくないのに、演技だけは上手くなっていく。
いつからだったか。燿は頻繁に考えるようになっていた。自分はどうして生まれて、どうして生きているのか。二十七年生きて何も得られない人生を、どうして歩み続けているのか。――あと何十年待てば、迎えが来てくれるのか。
今になって、ようやく気付いた。自分はずっと死にたかったのだ。死ぬ機会が欲しかったのだ。
目の前の妹が、それに気付かせてくれた。そして、機会をくれた。燿は、生まれて初めて妹に感謝した。
大量の血とガソリンの匂いが充満する居間を歩く。燿が間近に来るなり、灯は顔を強張らせた。
「何してんの? 死ぬんでしょ?」
灯が目を見開く。驚くことに、身震いしている。ここまでやっておいて、まだ迷うか。自分から言い出しておいて、まだ恐れるか。馬鹿にされたものだ。
小刻みに震える灯の手の中に、父親が愛用していたオイルライターを見付ける。やはり持っていたか。触りたくもないが、今はしょうがないと腹をくくる。
「貸して」
「っ!」
硬直したままの灯からライターを取り上げて、早々とキャップを開ける。ホイールに指を宛てがいながら、燿は冷え冷えとした眼差しを灯に向けた。
「灯。覚悟は良い?」
どこまでも冷淡に、燿は灯の反応を待った。
長い沈黙を経て、灯は観念して首肯した。先ほどの憎たらしい態度は見る影もない。燿は忌々しい妹から視線を外し、なんの迷いもなくホイールを回した。
特有の着火音が鳴る。目の前に赤い光が灯る。オイルの匂いが鼻を突く。
――
ライターを落とす間際に、燿は漠然とそんなことを考えた。
* *
無音の暗闇の中で、燿は目を覚した。
「ぐ……」
耐えがたい苦しみに、燿は何度目になるかも知れない呻きを発した。流石に血を流し過ぎた。既に痛みは遠のき、今はただただ寒い。もう長くはないだろう。
当然、自己治療は考えた。取り落とした大鎌も、手を伸ばせば届く位置にある。だが、伸ばそうとした腕は動かなかった。訝しみながら自分の腕に目を向けた。――諦めた。
それにしても、さっきのは夢だろうか。意識が飛んでいる間に見た、やけにリアルな光景。夢――いや、たぶん違う。
再び意識が消え始めた。次は目覚めることはないだろう。自分は。ここで。このまま。
人間だった頃の燿は、生への執着とも、死への恐怖とも無縁な存在だった。しかし、これも過去の話だ。ある因果によって、燿は変わってしまった。
因果とは他でもない。死神に選定されたことだ。
心配性で、お節介で、未だに世話を焼いてくる二人の先輩。生意気で、危なっかしくて、目が離せない二人の後輩。彼らの存在が、燿をすっかり変えてしまった。
「……死にたくないな……」
自分の命などどうでも良かった人間が、
死神として生きて、役目を全うして、転生先で今度こそまともな人生を歩む。見栄に邪魔されて誰にも話せていなかったこの願望は、いつの間にか燿の中に生まれ、いつの間にか住み着いていた。あの四人のせいだ。
だが、もうその願いは叶わない。自分は間もなく魂ごと消滅して、本当の意味で永遠の死を迎える。なんて馬鹿らしい末路なのだろう。
「……消えたくないな……」
意識が消えて行く。命が消えて行く。視界が暗転する。
「だったら、這いつくばってでも生きて見せろよ」
誰かの声がした。その直後、既にほとんど機能していない目が、青い閃光を捉えた。
それなりの音がした。何か破壊されたようだ。
「おれ達が、何度だって叩き起こしてやるよ」
急に視界が開けた。燿は黄色い光の中にいた。暖かくて、少しくすぐったい。あんなにも自分を苛んでいた苦しさが、ゆっくりと、穏やかな波のように引いて行く。
「ったく。虫の知らせで来てみりゃ、案の定ヘマしてんじゃねぇか」
頭はまだぼーっとしているが、そこにいる人物だけは辛うじて認識出来た。
「アポロ……?」
「おう。暫くじっとしてろ」
視線を動かしてみる。たった今まで、自分の周りに檻の如く積み上がっていた瓦礫が、見事な粉塵と化していた。こんな芸当をやってのける死神は、そう多くはない。
「間にあって良かったわ」
「ディアナ……?」
ぬくもりに満ちた微笑みが、燿の目の前にあった。
満月のような黄色に、海原のような青が加わる。二つの光に肉体を癒やされると同時に、珍しく擦り切れていた心にも変化が生じ始めていた。
願いが絶たれてしまう。魂が死んでしまう。たった独り、誰にも知られないまま消滅してしまう。どうやら自分は、それを酷く恐ろしいものと認識していたらしい。そうでないと、自分がこんなにも安堵している説明が付かない。
「ねぇ」
「なんだ?」
ようやく満足に声が出せるようになった頃、燿はアポロ達に問い掛けた。
「なんで来たの?」
「あ? だから、虫の知らせ――」
「いや、そうじゃなくて。普通に効率悪いで――うぎゃっ」
「来ねぇ方が良かったな」
無慈悲にも、まだ治り切っていない傷口を蹴られた。燿はピクピクと痙攣を起こしながら、辛うじて遺憾を述べた。
「待って……俺、怪我人なんだけど……」
「知らねぇよ」
原因は定かでないものの、アポロが怒り心頭に発しているのは良く分かった。
痛いとか、酷いとか、なんでとか。アポロに叱られた現状を嘆いていたところに、ディアナの声が割り込んだ。
「後輩が大事なのは、貴方だけじゃないのよ?」
あんぐりして見上げたディアナの顔には、微笑の代わりに苦笑が浮かんでいた。
間抜け面を惜しみなく晒した燿は、やがて呟いた。
「その発想はなかった」
「馬鹿野郎が。他人のことばっか見てねぇで、少しは自分を顧みろ」
アポロの怒りが収まる気配はない。その理由を、燿はようやく理解することが出来た。
「それにね。きっと、わたし達だけじゃない筈よ?」
ディアナの目が、上方を見詰めている。
上方。地上。燿がここに落とされる直前までいた場所。
燿は上半身を起こし、肩を落とした。遅緩に項垂れ、口を開いた。
「ねぇ」
「今度はなんだ?」
「泣いて良い?」
「……勝手にしろ」
暗闇の中、二つの光に照らされながら思う。
自分はなんて馬鹿なんだろう。
【To be continued】
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