第13章 よみがえり

第53話 帰還[Mars]

 一九九一年八月十三日。

 空井燿そらいようの不本意な帰省は、父親と大喧嘩をしたことによって、二十分と経たずに終わりを迎えた。

 独り暮らしをしているアパートへ帰る途中、バッグに入れっ放しにしていたポケットベルが鳴った。これを仕事以外で使うことはほとんどないため、職場の誰かからだろう。そう思ったが、事実は違った。

 表示された電話番号は、ついさっき立ち去ったばかりの実家のものだった。両親にこんな物は使いこなせない。となると、送信者は一人しかいない。

 溜息混じりに確認した数字に、燿は眉を顰めた。

って何?」

 一言もなく帰って行った燿への別れの挨拶――な訳がない。うっかり想像してしまったばかりに、危うく道のど真ん中で嘔吐するところだった。

 しかし、この胸騒ぎはなんだ。

 無視してアパートに帰るか、実家に戻って確かめるか。燿は自分でも驚くくらい、すんなりと後者を選んでいた。


 で、

 むごたらしい死に方をしている。両親のことが嫌いで堪らなかった燿ですら、思わず顔を背けてしまうほどに。

 居間の片隅には、想像していた通りの人間がいた。血塗れの凶器をあちこちに放置し、変色した畳の上に座っている。

「へぇ、ほんとに来てくれたんだ? 送ってみるもんだね」

 くらい笑みを燿に向けて、空井あかりは言った。一欠片の感情も見受けられないその瞳は、そこにある二つの遺体のものと大して変わらないように思えた。生きていながら死人とほぼ同じ目をしている妹を前に、背筋に冷たいものが走った。

 けれど、一瞬でも臆したのを悟られたくなくて、燿は努めて自制を利かせた声音で、久方振りに妹に話し掛けた。

「なんなのこれ。どういうつもり?」

 狂気も露に、灯は燿の言葉に応じた。

「この家の血は残しちゃ駄目。根絶やしにしなきゃ駄目。そう思わない? あんただって、ずっとこの家が嫌だったんでしょ?」

「滅茶苦茶なこと言ってる自覚ある? 血迷うのは勝手だけど、限度ぐらい知っときなよ」

「あたしは正気だけど?」

「じゃあ何? 俺も殺す?」

「ううん。違う。あたしと

 何を言われたのか、暫くは理解出来なかった。

 ひとしきり絶句した後、燿は唸るように言った。

「どいつもこいつも……。身勝手すぎて反吐が出る」

 本当に、本当に。この家の人間は、どこまで人を不快にさせたら気が済むのか。

「寝言は寝て言いなよ。俺はもうこの家の人間じゃない。お前の狂言に付き合う義理なんか――」

「流れてる血は一緒なのに?」

「……っ」

 言葉に詰まった。強烈な嫌悪と憎悪が、胸の中を満たしていく。

 許せない。許さない。この忌まわしい妹も、そんな妹の言葉で傷付いている自分も。

「……お前のそういうとこ、ほんと嫌い。全部嫌いだけど」

 結局一言も言い返せないまま、燿は低く吐き捨てた。

「奇遇だね。あたしもあんたが嫌い」

 子供の頃から互いを憎んでいた兄妹は、積年の厭悪をぶつけるように睨み合った。

 埒が明かない、何も生まない、無意味で長い睨み合い。終わらせたのは燿だった。

 灯が明瞭に動揺を示した。燿のこの言葉は、彼女の想定を遥かに上回っていたのだろう。

「一緒に死んでやるって言ってんの」

 固まっている灯に、燿は冷淡に告げた。心はかつてないほど冷え切っていた。


 燿は冷めた子供だった。心から笑ったことなど一度もない。

 衣食住の提供だけが、親の責務だと信じて疑わない両親。子供達の前で怒鳴り散らすことを、なんとも思わない両親。生まれて間もない娘の世話を、小学生の息子に押し付ける両親。

 燿にとって、妹の世話はさほど苦ではなかったものの、その妹も早い内に両親の影響を受け、変わってしまった。仲違いまで、そう時間は掛からなかった。燿と灯のごく普通の兄妹関係は、たった数年で幕を閉じた。

 中学生になっても、高校生になっても、燿は依然として冷めた子供のままだった。

 好きでも嫌いでもない授業を受けて、教室で友人達と馬鹿みたいな話をして、部室で将棋をして帰る。そして、家に帰ってうんざりする。そんな毎日。

 成績が良かったのは、余計なことを考えなくて済むよう、勉強に明け暮れていたからだ。成績そのものには米粒大の興味すらなく、就職先も適当に選んだ。高校卒業後、すぐに実家から出られさえすれば、成績も職種もどうでも良かった。

 実家を離れて一人になれば、少しはまともな人間になれるかもしれない。そんな幻想を抱いたこともあったが、所詮は幻想だった。社会人になっても、やはり燿は冷めたままだった。何も楽しくないのに、演技だけは上手くなっていく。

 いつからだったか。燿は頻繁に考えるようになっていた。自分はどうして生まれて、どうして生きているのか。二十七年生きて何も得られない人生を、どうして歩み続けているのか。――あと何十年待てば、迎えが来てくれるのか。


 今になって、ようやく気付いた。自分はずっとのだ。死ぬ機会が欲しかったのだ。

 目の前の妹が、それに気付かせてくれた。そして、機会をくれた。燿は、生まれて初めて妹に感謝した。

 大量の血との匂いが充満する居間を歩く。燿が間近に来るなり、灯は顔を強張らせた。

「何してんの? 死ぬんでしょ?」

 灯が目を見開く。驚くことに、身震いしている。ここまでやっておいて、まだ迷うか。自分から言い出しておいて、まだ恐れるか。馬鹿にされたものだ。

 小刻みに震える灯の手の中に、父親が愛用していたオイルライターを見付ける。やはり持っていたか。触りたくもないが、今はしょうがないと腹をくくる。

「貸して」

「っ!」

 硬直したままの灯からライターを取り上げて、早々とキャップを開ける。ホイールに指を宛てがいながら、燿は冷え冷えとした眼差しを灯に向けた。

「灯。覚悟は良い?」

 どこまでも冷淡に、燿は灯の反応を待った。

 長い沈黙を経て、灯は観念して首肯した。先ほどの憎たらしい態度は見る影もない。燿は忌々しい妹から視線を外し、なんの迷いもなくホイールを回した。

 特有の着火音が鳴る。目の前に赤い光が灯る。オイルの匂いが鼻を突く。

 ――来世つぎは、まともな家族が欲しいな。

 ライターを落とす間際に、燿は漠然とそんなことを考えた。


 * *


 無音の暗闇の中で、燿は目を覚した。

 宇野美埼うのみさきの猛攻により、背中から地下に叩き付けられた。幾らなんでも、あれを防ぎ切るのは無理が過ぎた。勢いを殺すので手一杯だった。

「ぐ……」

 耐えがたい苦しみに、燿は何度目になるかも知れない呻きを発した。流石に血を流し過ぎた。既に痛みは遠のき、今はただただ寒い。もう長くはないだろう。

 当然、自己治療は考えた。取り落とした大鎌も、手を伸ばせば届く位置にある。だが、伸ばそうとした腕は動かなかった。訝しみながら自分の腕に目を向けた。――諦めた。

 それにしても、さっきのは夢だろうか。意識が飛んでいる間に見た、やけにリアルな光景。夢――いや、たぶん違う。

 再び意識が消え始めた。次は目覚めることはないだろう。自分は。ここで。このまま。

 人間だった頃の燿は、生への執着とも、死への恐怖とも無縁な存在だった。しかし、これも過去の話だ。ある因果によって、燿は変わってしまった。

 因果とは他でもない。死神に選定されたことだ。

 心配性で、お節介で、未だに世話を焼いてくる二人の先輩。生意気で、危なっかしくて、目が離せない二人の後輩。彼らの存在が、燿をすっかり変えてしまった。

「……死にたくないな……」

 自分の命などどうでも良かった人間が、死神いまになってこんな考えを起こすなんて笑い話だ。

 死神として生きて、役目を全うして、転生先で今度こそまともな人生を歩む。見栄に邪魔されて誰にも話せていなかったこの願望は、いつの間にか燿の中に生まれ、いつの間にか住み着いていた。あの四人のせいだ。

 だが、もうその願いは叶わない。自分は間もなく魂ごと消滅して、本当の意味で永遠の死を迎える。なんて馬鹿らしい末路なのだろう。

「……消えたくないな……」

 意識が消えて行く。命が消えて行く。視界が暗転する。

「だったら、這いつくばってでも生きて見せろよ」

 誰かの声がした。その直後、既にほとんど機能していない目が、青い閃光を捉えた。

 それなりの音がした。何か破壊されたようだ。

「おれ達が、何度だって叩き起こしてやるよ」

 急に視界が開けた。燿は黄色い光の中にいた。暖かくて、少しくすぐったい。あんなにも自分を苛んでいた苦しさが、ゆっくりと、穏やかな波のように引いて行く。

「ったく。虫の知らせで来てみりゃ、案の定ヘマしてんじゃねぇか」

 頭はまだぼーっとしているが、そこにいる人物だけは辛うじて認識出来た。

「アポロ……?」

「おう。暫くじっとしてろ」

 視線を動かしてみる。たった今まで、自分の周りに檻の如く積み上がっていた瓦礫が、見事な粉塵と化していた。こんな芸当をやってのける死神は、そう多くはない。

「間にあって良かったわ」

「ディアナ……?」

 ぬくもりに満ちた微笑みが、燿の目の前にあった。

 満月のような黄色に、海原のような青が加わる。二つの光に肉体を癒やされると同時に、珍しく擦り切れていた心にも変化が生じ始めていた。

 願いが絶たれてしまう。魂が死んでしまう。たった独り、誰にも知られないまま消滅してしまう。どうやら自分は、それを酷く恐ろしいものと認識していたらしい。そうでないと、自分がこんなにも安堵している説明が付かない。

「ねぇ」

「なんだ?」

 ようやく満足に声が出せるようになった頃、燿はアポロ達に問い掛けた。

「なんで来たの?」

「あ? だから、虫の知らせ――」

「いや、そうじゃなくて。普通に効率悪いで――うぎゃっ」

「来ねぇ方が良かったな」

 無慈悲にも、まだ治り切っていない傷口を蹴られた。燿はピクピクと痙攣を起こしながら、辛うじて遺憾を述べた。

「待って……俺、怪我人なんだけど……」

「知らねぇよ」

 原因は定かでないものの、アポロが怒り心頭に発しているのは良く分かった。

 痛いとか、酷いとか、なんでとか。アポロに叱られた現状を嘆いていたところに、ディアナの声が割り込んだ。

「後輩が大事なのは、貴方だけじゃないのよ?」

 あんぐりして見上げたディアナの顔には、微笑の代わりに苦笑が浮かんでいた。

 間抜け面を惜しみなく晒した燿は、やがて呟いた。

「その発想はなかった」

「馬鹿野郎が。他人のことばっか見てねぇで、少しは自分を顧みろ」

 アポロの怒りが収まる気配はない。その理由を、燿はようやく理解することが出来た。

「それにね。きっと、わたし達だけじゃない筈よ?」

 ディアナの目が、上方を見詰めている。

 上方。地上。燿がここに落とされる直前までいた場所。

 燿は上半身を起こし、肩を落とした。遅緩に項垂れ、口を開いた。

「ねぇ」

「今度はなんだ?」

「泣いて良い?」

「……勝手にしろ」

 暗闇の中、二つの光に照らされながら思う。

 自分はなんて馬鹿なんだろう。



【To be continued】

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