第25話 悪夢の侵食
クロノスと名乗った小さな死神の手中の大鎌が、禍々しい光を放つ。振り上げられた大鎌に身が竦んだ。
父と一緒に逃げなければならない。けれど、ここまで接近された以上、満足に動くことは叶わない。無論、丸腰でどうにか出来る相手でもない。隙を突けるかすらも怪しいだろう。
絶望的な状況の中、動いたのは父だった。気が動転してがんじがらめになっている鈴の前に立ったまま、道を塞ぐように両腕を伸ばした。クロノスをまっすぐに見据え、彼は声を張り上げた。
「や、やるならおれをやれ! 鈴には手を出すな!」
声も体も大きく震えているのに、父は大きな刃物を携えた得体の知れない相手に立ち向かおうとした。自分だって怯えているのに、鈴を守ろうとそこに立ち続けている。
「え……なんで……」
無意識に呟いていた。そんな場合ではないのに、脳裏には戸惑いばかりが浮かび上がる。父の思いが分からなかった。父が何故こんなことをするのか、鈴には理解出来なかった。
鈴が何をするより先に、父がまた叫びを上げた。
「おれは嫌われているだろうが……それでも、おれにとっては大切な家族なんだ!」
父のその鋭い叫びに、鈴は息を呑んだ。愕然とした。大きく目を見張った。鼓動は爆発的に速さを増し、顔全体がじんと熱くなる。緩やかに視界が滲んでいく。
「う……っ」
気付いた時には泣いていた。腹の底から感情が湧き上がる。後悔と罪悪感と自己嫌悪でどうにかなってしまいそうだった。
溝を作っていたのは誰だ。諦めていたのは誰だ。それをお互い様だと断じていたのは誰だ。
信じようともしていなかった父の――諸星
お互い様などではない。拒絶していたのは、自分だけだった。
「ふぅん」
鉄也の決死の叫びを、さして興味もなさそうに聞いていたクロノスの無邪気な顔に、刹那的に寂しげな笑みが浮かぶ。
「ぼくも、家族に大事にされたかったなぁ」
しかし、人の感情の宿った笑みはすぐに消え失せ、クロノスは大鎌を振り下ろした。躊躇いなく振り下ろされた大鎌が、鉄也の身を切り裂く。血飛沫が舞う。鉄也の体が大きく後ろへ傾く。悲鳴も上げられないまま倒れて来る鉄也を、鈴は咄嗟に受け止めようと動いた。当然、女子高生が成人男性の体を受け止め切れる訳もなく、鈴は鉄也と共に後方に倒れた。
尻餅をつき、ベンチに背中を打ち付けた鈴の膝に、鉄也の頭部が重なる。瞼を閉ざし、微動だにしなくなった鉄也は、まだ微かに息をしていたが、事切れるのは時間の問題だった。
「どうして、こんなことするの……っ」
痛みに耐えながら、鈴は泣きじゃくる。彼女が涙声で紡いだ問い掛けに、クロノスは笑い声を立てた。
「仕方ないよ。
「……本能?」
「幸せそうに生きてる人間が妬ましい。死んだぼく達をほっといてくれなかった死神が憎い。そいつらに味方してる奴らも同罪だ。……って言っても、ぼくみたいな弱い死神は、下手に死神を襲ったら返り討ちに遭うから、襲えるのは人間ぐらいなんだけどね」
歪んだ視界の中で、クロノスが再度大鎌を振り上げた。次は鈴の番だ。しかし、何も出来ない。する気力も残っていない。
涙を流すばかりの鈴の耳に、足音が届く。荒い足音が接近している。こちらへ走って来ているのは漠然と理解した。
「見付けた!」
すぐ近くで足音が止まる。同時に、聞き慣れた声が聞こえた。
「樹君……?」
視線をそちらに動かす。公園の入口に、樹と渚が立っていた。
樹が自らの大鎌に藍色の光を纏わせ、公園内に足を踏み入れる。それを目の当たりにしたクロノスは、「げっ」と露骨に嫌そうな声を発しながら身を翻した。
公園の奥へ。公園を抜けた路地へ、クロノスは逃走を図った。樹が苦い表情をする。樹は速やかにクロノスを追い掛けようとしていたが、間もなく鈴達に気付き、足を止めた。
血を浴びた鈴と、血塗れでぐったりと倒れている鉄也を見て、樹は顔を強ばらせた。
「樹君……どうしよう……あたし……」
取り留めのない言葉を吐き出すことしか、今の鈴には出来なかった。
「あたしを庇って、こんなことになって……っ」
「鈴。落ち着いて。もう大丈夫だから」
嗚咽混じりに喋る鈴に、樹は優しく笑い掛けた。
「大丈夫」
樹は鈴に言い聞かせるように言ってから、真剣な顔に戻り、既に背後まで歩いて来ていた渚を振り返った。
「渚! ここをお願い!」
樹は渚にそう頼んで、逃走したクロノスを追って走り去った。
樹と交代するようにこちらへ進み出た渚が、重体の鉄也に大鎌をかざす。大鎌が菫色の光を纏う。治療を開始しながら、渚は一度だけ鈴を見た。
「怪我はこの男だけか?」
「うん……。あたしはなんともない」
「そうか」
起伏のない声音で確認を終え、渚は治療を続けた。
やがて治療が終わり、鉄也の傷が残らず消えると、鈴の瞳からは安堵の涙が次々と溢れ出した。
「渚君……有難う」
「仕事だ」
渚の返事は素っ気ない。虚無的な表情も揺らがない。
鈴は渚に尋ねる。
「この人――お父さんが目を覚ますまで、ここにいても良い?」
「……好きにしろ。ただし、余計なことは喋るな」
「有難う……」
渚はもう何も答えず、樹を追って走って行った。
* *
足音と気配を頼りに、逃走を図った
暫く走った末に、樹の双眸はクロノスの姿を捉えた。すぐさま藍色の光を纏わせた大鎌を振りかざし、樹は地を蹴った。樹に気付いたクロノスが眉を寄せる。樹の繰り出した斬撃を自らの大鎌で受け止めながら、クロノスは恨めしそうに目を細くした。
戦いが始まった。それは樹が圧倒的に有利な戦いの筈だった。立場が入れ替わったのは、防戦一方だったクロノスが発した、樹にとって致命的な言葉に起因した。
「君は今まで何人殺したの?」
言葉の意味はすぐに分かった。
今日一日、必死に思い出さないようにしていた悪夢がありありと蘇り、瞬く間に樹の頭の中を埋め尽くした。身と心を拘束された樹は、クロノスがこちらに向かって疾駆し、どす黒い光を纏わせた大鎌を真横に構えるまで、身動きの一つも取ることが出来なかった。
樹が我に返った時、既にクロノスの大鎌はそこまで迫っていた。咄嗟の応戦は僅かに間に合わず、脇腹を斬り付けられた。立て直す間もなく、次の一撃が来た。振り下ろされた大鎌を受け止め切れず、樹はそのまま後ろへ吹き飛ばされた。
地面に背中を強かに打ち付け、息が詰まった。激しい苦痛による熱に対し、体は震えを纏うほど冷たくなっていく。
傍らまでやって来たクロノスが、小さく笑い声を立てる。
「若い死神って良いよね。これ言うと大体取り乱してくれるから」
「……う……」
絶えぬ激痛に呻き、荒い呼吸を繰り返しながら、落としてしまった大鎌をなんとか引き寄せようと手を伸ばす。だが、樹の行動は瞬時に読まれ、大鎌は呆気なく蹴り飛ばされた。樹の手を離れたことで、宿っていた藍色の光が霧散した。
クロノスの大鎌が、ゆっくりと喉元に押し付けられた。微かな痛みが生じ、血が伝って行く感覚があった。自らの死を意識し、身が竦んだ。自分の表情が凍ったのが、嫌でも分かった。
「でも、君のことは殺さないよ」
クロノスが発した不可解な台詞に、思考が止まった。
「殺してやりたいのは山々なんだけどね。いま君を殺したら、ぼくが怒られるから」
忌々しげに表情を歪めて、吐き捨てるように言いながら、クロノスは大鎌を樹から離した。付着した血を払い、黒い光を収め、彼はゆっくりとこちらに背を向けた。
「記憶、早く返して貰えたら良いね」
「さっき、から……何を……」
樹がからがら発した言葉に、返答はなかった。
「じゃあね。樹君」
クロノスが一度だけこちらを振り返り、再び無邪気に笑う。
「それと、渚君」
樹の後方にちらりと目を遣ったのを最後に、クロノスは悠然と立ち去って行った。
後方から近付いて来る靴音を朧気に聞きながら、樹は意識を手放した。
* *
自分の仕事を終え、樹や渚と合流するためにやって来た
「なんでこんなことになってんの? ユピテルが苦戦するような相手じゃなかった筈だけど」
「後にしろ。お前が喋っていると集中出来ん」
「あっそ。ごめんね」
にべもない態度に肩を竦める。とはいえ、状況が状況だ。流石に空気を読む必要がある。言われた通り、大人しく待機することにした。
相手が重体のため、多少時間は掛かっていたものの、治療は問題なく終わった。樹の怪我は完治し、呼吸も安定した。あとは目を覚ますのを待つだけだ。
治療を終えた渚が、保留していた燿からの質問に答えた。
「私が来た時には、既にこうなっていた」
「原因に心当たりはある?」
「ないな」
「そっか。ま、あとで本人に聞けば良いか」
「ただ……」
「うん?」
「途中からしか聞いていないが、粛清対象が理解しがたいことを言っていた」
「どんな?」
渚にそう問うのと同時に、下方から苦悶の声が聞こえた。てっきり樹が目を覚ましたものだと思ったが、すぐにそれは間違いだと知れた。何を見ているのか、樹はうなされていた。
意識のない樹の口が微かに動き、酷く苦しげな声を漏らす。単なる呻きではなかった。謝罪の言葉と、許しを乞う言葉を辛うじて聞き取ると、燿は静かに嘆息した。
「あー……そういうことね」
「一人で納得するな。説明しろ」
「……」
「……マルス?」
急に沈黙した燿に、渚が訝しげな視線を向けてきた。
燿は若干迷った後、再び口を開いた。
「これ、君にはあんまり言いたくなかったんだけど」
言い訳じみた前置きをして、燿は渚の要求に応じた。
「回収や戦闘を任される死神なら、大抵一度は経験するんだよ。自分が死なせた人間や死神が夢に出て来んの」
瞬間、これまでほぼ無表情だった渚の双眸が見開かれた。この一目で分かるほどの動揺ぶりは想定内ではあったが、余り見ていて気分の良いものではなかった。
複雑な心境を横に置き、燿は続けて話す。
「俺はすぐに見なくなったけど、ユピテルはあんな性格だから、まだ見てても不思議じゃないと思う。よくいるんだよ。そこを突いてくる裏切り者って。えげつないことするよね」
すっかり黙ってしまった渚が、見開いたままの目を下方へ向け、白くなるほど強く握り締めた拳を震わせた。それを見た燿が短い溜息を吐いたのを最後に、辺り一面に沈黙が降りた。
【To be continued】
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