第8話 未練
通勤通学ラッシュの駅で人ごみに揉まれ、頭が留守になった状態で北口を抜けた鈴は、そこに樹の姿を見付けた。
東の通りを歩いて来た樹は、こちらに気付くことなく角を曲がって、学校前まで伸びる一般道に合流した。鈴は彼に追い付くため、止まっていた歩みを再開した。
「樹君、お早う」
「……鈴」
軽い足取りで追い付き、樹の背に声を掛ける。樹はそこでようやく鈴を認識したが、振り返る動作はいつになく薄のろく、重たげな瞼が瞳の半分近くを覆っている。明らかに昨日とは別の意味で様子がおかしい。
「えっと、樹君? なんか今日も眠そうじゃない? 寝た?」
「考え事してた」
「また?」
「……」
こちらの何気ない反応に、樹が不穏な沈黙を挟む。彼は眠たそうな顔を不服に歪め、やがてぼやくように異議を唱えた。
「鈴のせいだからな」
「へ?」
思いがけずぶつけられた苦情に驚く。最初はなんのことだか分からなかったが、時間を掛けて自分の胸に聞いてみたところ、一つだけ思い当たる節を見付けた。
「あー……ごめんね。昨日はいろいろ偉そうに語っちゃって」
「ほんとだよ」
当たっていた。確かに自分の気持ちを前面に出し過ぎたかも知れないと、今更ながら反省の念を抱く。一方的な感情が時として相手を苦しめることくらい、知っているつもりだったのだが。
樹は怒っているだろうか。ちらりと横顔を窺ってみても、相変わらず眠そうに見えるだけで、真意は判断出来なかった。
しかし、以降の樹の語調は静かなものだった。
「そういえば、もう一つのお願いって何?」
眠たそうな横顔はそのままに、樹は何事もなかったようにそんなことを聞いてきた。彼のあっさりとした態度に拍子抜けすると同時に、覚えていてくれた意外性に目が丸くなる。
「聞いてくれるの?」
「聞くだけなら」
答える傍らで欠伸を噛み殺す樹に、鈴は無遠慮に頼み込んだ。
「追試確定したから、また勉強教えて」
* *
眠い。授業中に意識が飛びそうになったのは久方振りだった。
勢いに負け、再び鈴に勉強を教えることになったところまではまだ良かったが、今日の放課後は用事があると後出しで告白された際には、自らの不運を呪わざるを得なかった。一限目から三限目の休み時間を全て指導に費やす羽目になったせいで、今日は現時点で一度もまともな休憩を取っていない。
けれど、昼休みに入るなり、鈴は幼馴染みの女子生徒に呼ばれ、弁当を片手にどこかへ行ってしまった。
折角の好機を逃す手はない。ひとまず昼食を済ませ、安堵の息を吐き出しながら机に伏した。このまま少し寝るつもりだった。
――誰かに机を叩かれた、気がした。既に夢うつつ状態の樹には断定出来ないが、今は気のせいだと思うことにした。
「宇ー野ーっ!」
「!」
耳元で甲高いで叫ばれ、樹は飛び起きた。
目を瞬いて呆然としていると、前の席から身を乗り出したクラスメイトがおかしそうに吹き出した。名前は
木谷は非常に外向的で友人も多く、クラス内でも目立つ存在だったが、樹と木谷が関わる機会は余り多くない。仲の善し悪しではなく、単純に静かに過ごしたい樹の思想と、じっとしていられない木谷の性格が噛み合っていないのだ。
「おー、起きた起きた。珍しいよな。お前が寝るなんて」
「急に何……?」
安眠への道を絶たれ、肩を落とす樹。萎んだ声で一応尋ねてみると、木谷は自分のバッグから取り出した何かを意気揚々と目の前に突き付けてきた。
「宇野! UNOしようぜ! 宇野だけに!」
「遠慮するよ」
白けた顔で辞退を申し出るも、木谷は引き下がらなかった。
「お前さぁ、いっつも思うんだけどよ。付き合い悪くね? 基本一人でいるし、なんかに誘っても全部拒否るし、体育の時も余った奴とばっか組んでるし。このままじゃ孤立すんぞ?」
放っておいて欲しいとは思ったが、学校で孤立すると何かと面倒が生じることも理解はしていた。
「……じゃあ、一回だけ」
「よっしゃー!」
少し考えてから返事をしたところ、理解出来ないほどテンションを上げた木谷が、後ろを振り返って仲間達を呼んだ。
「
「うっそ、マジでっ? 明日槍でも降るんじゃね?」
「頭でも打ったか宇野ーっ!」
大声でなかなか酷いことを言いながら、木谷と性格の良く似た二人もこちらへやって来た。
適当に移動させた机を並べて、各々席に着く。木谷がカードを切り、配っている間も、平山と田岡は雪崩の如く話し掛けてきた。
「今さ、オレらの間でUNOブーム来てんの。ほら、スマホの充電切れたら暇じゃん? で、切れた後の暇潰し考えてたらさ」
「おれの兄ちゃんが勧めてくれたって訳よ! ルール覚えんのすっげー苦労したけどな!」
「充電……? まだ昼休みだけど」
ささやかな突っ込みを入れたところ、三人とも三限目の時点で切らしていたことが明かされ、樹は更に唖然とした。何をしたらそうなるのか、全く見当が付かなかった。
「よーし、全員手札持ったな。じゃ、いつも通り俺からな!」
木谷から時計回りにゲームは始まった。しかし、この三人がゲーム中に静かにしている筈もなく、樹は早々に木谷に絡まれた。
「なぁ、宇野。ぶっちゃけどこまで進んだ?」
「何が?」
「諸星と」
「……」
「おーい。手札全部見えてんぞー」
木谷に釣られるように、平山と田岡も腹を抱えて笑い出す。
落とした手札を黙って拾い終えると、樹は溜息を吐いた。
「そういうのいいから」
「えー、なんだよ教えろよ!」
「次は誰?」
「普通に無視すんな!」
幾ら抗議されても何も言わない樹に、三人の間でブーイングが起こるが、それも徐々に鎮火していった。頑なに黙秘を貫こうとする樹を見て、流石に無駄と悟ったらしい。
「だがなぁ、宇野! 余裕かましてられんのも今の内だ! 次の一手で俺はとっておきの切り札を――って、何しやがんだこらぁっ!」
樹がしれっと置いたリバースが木谷を絶望させた。
* *
「疲れた……」
またしても勢いに負け、昼休みが終わるまで木谷達に付き合ってしまった。押しに弱い自覚はあるにせよ、ほとほと自分に呆れた。結局眠いまま、疲労まで抱え込んでしまった。
学校から程近いベンチに深々と座り、束の間の休憩を取る。ほぼ確実に仕事が入るので、いま帰宅する意味は余りない。
三十分と経たずにスマートフォンが鳴る。着信画面には、見慣れた上司のコードネームが表示されている。
すぐ近くに人の姿がないのを確認してから、樹は通話に応じた。
「ウラヌス。今日はなんの――」
樹の言葉が止まる。上司の声が聞こえる。いつもののんびりとした声で、上司は樹に指示内容を伝えてきた。
「……え?」
樹の顔が青ざめる。
* *
放課後、幼馴染みと一緒に直行したアパレルショップにて、人気キャラクターとの限定コラボTシャツをからがら手に入れた鈴は、胸を満たす歓喜と感動を存分に味わっていた。
帰り道が異なる幼馴染みと別れた後も、鈴の幸福感は収まる所を知らず、彼女は時折エコバッグの中を覗き込んではその都度恍惚する奇行を繰り返していたが、そんな浮かれ切った頭に冷水を浴びせるものがあった。視界に映り込んだある異変だ。
歩行者道路の横断歩道を渡った先に、人だかりが出来ていた。好奇心というより純粋な疑問から、鈴は走って横断歩道を渡り切り、そこで異変の全貌を知ることとなった。
「通り魔ですって」
「まだあんなに若いのに、可哀想にねぇ」
おばさん達が、ひそひそと話をしている。
肝を冷やしながら、鈴は歩道の異変を見下ろしていた。
三人ものクラスメイトが血塗れで倒れている光景は、感情的には到底受け入れられるものではなかったのに、見開いた目を逸らすことも出来ないでいた鈴の理性は、勝手にこの異変を現実として処理していった。冷えた体から力が抜けて行く。
底なしに明るくて、声が大きくて、良くも悪くも目立つクラスのムードメーカー達。関わりが薄い鈴ですら、すぐに名前と顔が浮かぶ男子三人組。そんな彼らが、通り魔に襲われた。
「犯人って捕まったのか?」
「さあ? あっちに逃げてったのは見たけど」
「え、やばくね?」
周りの声が遠い。音が遠い。
立ち竦んでいた鈴の視界を、一羽の白い蝶が横切った。
気付けば衝動的に走り出していた。蝶はひらひらと舞いながら、やがて二軒の飲食店の隙間へと吸い寄せられるように入って行く。サイレンが鳴り響く中、鈴はそれを無心に追い掛けた。
追い掛けた先に樹はいた。不自然な無表情をして、手にしたペンダントを静かに見下ろしている。最初は声を掛けるのを躊躇った。彼の無表情が、明らかに作られたものだと知れたからだ。
自分を制しようとする樹の意志の付属品。完全には程遠いこの無表情は、いつも彼が死神の仕事をする際に作り出しているものだ。
今の樹の心が無でないことを、鈴はもう知っている。
「樹君」
「っ!」
樹は弾かれたように顔を上げた。顔色は悪く、強ばっている。
「……今日だけは、見られたくなかったよ」
樹が低く呟く。しかし、意外にも声は落ち着いていた。
「ごめん……。ほっとけなかった」
「良いよ。謝らなくて」
俯き気味に謝る鈴を、樹は責めなかった。ペンダントをポケットに入れて、彼は薄く微笑んだ。これがなんの笑みなのか分からないでいる内に、彼の手がゆっくりとこちらへ伸ばされた。
一度だけ頭を撫でられ、鈴の思考が緩やかに停止する。樹は手を離しながら再び口を開いた。
「ごめん。心配掛けて。……それと」
鈴は動けなくなったまま、樹の言葉を聞く。
「変な顔」
「なっ、樹君があんなことするからでしょ!」
不本意な発言を受け、鈴はようやく我に返った。
「鈴だって、昨日似たようなことしてきただろ」
「う……そうだけど」
反論の余地は早々に失われた。
樹は不意に例の無表情に立ち返り、現場の方に目を向けた。やや押し殺した声音で、やがて彼は言った。
「平山と田岡は無事だよ」
それは鈴に幾らかの安堵をもたらすものであり、先程の蝶が誰のものかを示唆するものだった。
「そっか……。二人は助かるんだね」
全員が無事だったなら言えた筈の言葉が、今はどうしても言えなかった。故に、鈴は言葉をそこで終わらせた。
「……もう行かないと」
樹は多くは語らなかった。彼の視線がこちらに戻る。鈴は可能な限りの笑顔で見送る準備をして、口を開いた。
「またね」
「うん。また」
樹が跳躍し、屋根の上へと消えて行った後、帰路に就く傍らで、鈴はいつの間にか物思いに耽っている自分に気付いた。
助からなかった彼のいないあのクラスを、鈴は知らない。想像もしていなかった。いつも当たり前にそこにいた彼の命が奪われる瞬間を、樹はどんな思いで見ていたのだろう。どんな思いであの大鎌を振り下ろしたのだろう。
一人の死者と二人の負傷者を出した通り魔事件の犯人は、間もなく逮捕された。取り返しの付かない爪痕を残しながら、事件は表面上の解決の兆しを見せ始めた。
【第3章 End】
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