第3章 孤独の死神
第7話 確かめたいこと
「宇野君、お早う」
「ああ……うん。お早う」
始業前。席に着いた
いつもなら自分の席で窓の外を眺めている樹が、今日はどこか遠くを見る目で教室の前方を眺めている。彼は鈴が来た際にも反応らしい反応を示さず、それも引っ掛かりの要因となった。
樹に倣い、前方を見遣ってもこれといったものはない。勉強やゲームや雑談に興じるクラスメイト達が疎らに窺えるくらいで、なんら違和感はない。違和感があるとすれば、やはり樹の方だ。
樹の目は前に固定されているが、実際は何も見ていないのかも知れない。鈴が知る限り、こんなことは初めてだ。
「どうしたの? ぼーっとして。眠い?」
「少しだけ」
幸い、会話には応じてくれた。
「あの後、ちゃんと寝た?」
「いや、考え事してて、なかなか寝付けなかった」
「考え事って?」
「教えない」
「けち」
普段通り他愛のない会話をしている筈なのに、今日は何かが違っている。流石に気のせいではないだろう。その違和感は、会話を維持するごとに浮き彫りになっていった。
妙によそよそしい樹の態度。そして、それに少なからず不安を抱いている自分がいる。気まずいとも居づらいとも付かない不自然な空気のまま、他愛のない会話は続く。
「今朝は今朝で、布団が干せないからどけって
「渚?」
「双子の弟」
「ああ、昨日公園にいた――ん? 弟?」
疑いもなく信じていたものが、思わぬ形で否定された。
「宇野君が弟じゃなくて?」
「なんで?」
「あっちの方が立場が上っぽく見えたから」
「……否定はしない」
樹にも自覚はあったらしく、鈴の直球な言い分にも怒りはしなかった。しかし、彼の横顔には明らかに悔しさが滲んでいる。
と、ここまで会話を続けてみたものの、依然として樹の態度は変わらない。本人は普通の振りをしているのに、絶望的に下手な芝居のせいで意味を成していない点も変わらずだ。
「宇野君」
僅かに迷いつつも、意を決して口を開く。
「なんであたしの顔見ないの?」
「え」
樹の横顔が固まる。隠し通しているつもりでいたのか。
「今日ずっとそうだよね。なんかあった?」
「べ、別に何もな――」
「はい嘘ー。吐けもしない嘘吐かないの」
樹がうっと押し黙る。押し黙ったまま、気まずそうに、申し訳なさそうに視線を手元に落とす。
影のように付き纏っていた不安が、次第に濃度を増していく。それはある種の恐怖へと成り代わり、鈴の心を縛った。
緊張をはらんだ声で、鈴は恐る恐る樹に尋ねた。
「あたし、なんかした?」
「鈴のせいじゃないよ」
樹の返答は早かった。たぶん嘘ではない。だが、それならどうして目を合わせてくれないのだろう。
とはいえ、樹が何かしら問題を抱えているとしても、力になれるかどうかも分からない以上、無理に聞き出すのも抵抗があった。仕方なく、鈴は話題と共に気持ちを切り替えることにした。
「あのさ、宇野君。良かったらこれ」
バッグから取り出した物を、そっと樹の手元に置く。
「フランスの板チョコ。二枚貰ったから、一枚あげる」
フランスの名所のイラストが描かれた包みに、小振りのチョコレートが入っている。別にこの品自体に意味がある訳ではなく、これを樹に渡すことに意味があった。
視界に差し出された物を、樹が訝しげに見下ろす。彼は双眸だけを鈴の方へ動かし、疑問を言葉にした。
「どうして僕に?」
「んー。お疲れ様、かな」
「? なんの話?」
「昨日の話」
鈴は答える。目元と口元が自然と緩んでいく。
「昨日は疲れてて言いそびれちゃったんだけどさ。あたし、宇野君が無事で嬉しかったんだよ?」
「!」
樹の瞳に驚きの色が浮かび、その瞳がようやく鈴を捉える。
「凄く安心した。心配でどうにかなっちゃいそうだったから」
「……」
「えっと、まあ、そんな訳で貰って。チョコ嫌いじゃなかったら」
柄にもなく照れている自分がいる。早口で捲し立て、逃げるように視線をさ迷わせた。僅かながら火照った顔を悟られたくなくて、普段なら憂鬱でしかない始業を待ち望んだ。
「……人間に心配して貰ったのは久し振りかも知れない」
樹の呟きが聞こえ、無意識に目がそちらへ吸い寄せられる。
「有難う」
図らずも真正面から向き合う格好となり、落ち着き掛けていた気恥ずかしさがぶり返す。しかし、ぎこちなかった樹の表情に綻びが見えたことは、鈴の心をじんわり温めた。
* *
樹の様子は、下校時間になった頃には概ね元に戻っていたが、結局あれがなんだったのかは話して貰えなかった。
帰り支度を終えて席を立った樹を呼び止めると、鈴は自分の支度を済ませながら樹に言った。
「この後ちょっと良い? お願いがあるんだけど」
「お願い?」
「二つ」
「……そう。分かった」
樹は鈴が席を立つのを確認してから、鈴に歩調を合わせるようにゆったりと歩み出した。些細な配慮が今日は嬉しかった。
お願いというのもそう長い話ではないのだが、下校や部活の生徒でごった返す校内で言うのも気が進まない内容だった。
以前のカフェまで行く必要はないものの、ベンチの一脚くらいは欲しいところだ。近くにあっただろうか。基本的に使う機会がないせいで、いまいち記憶に自信が持てない。
まるで学校を出たのを見計らったように、樹のスマートフォンが着信を告げた。彼は道の端で足を止め、表示された発信者の名前に視線を落とす。
覗くつもりはなかったが、たまたま見えてしまったその名前は片仮名表記だった上、外国人の名前としても馴染みのない響きをしていたため、鈴はこれを死神からの着信と解釈した。
「今日は早いな……」
樹がやや苦い顔で独りごちる。彼は速やかに通話に応じ、今回も電話の向こうの相手と短い遣り取りを済ませると、スマートフォンを仕舞いながら鈴に向き直った。
「鈴、ごめん。今日は――」
「仕事?」
「うん」
「どっちの?」
「え? 回収の方だけど」
怪訝そうに答える樹を、鈴は真剣な眼差しで見据えた。
「じゃあ、一つ目のお願い。あたしも連れてって」
確固たる想いで、鈴は明瞭に自分の希望を告げた。
樹は驚きを隠せず、言葉を失っている。そんな彼が次に何を言ってくるのか、鈴はほとんど確信していた。
「なんで……あの日のこと、もう忘れたのか?」
「忘れてないよ。女の人を見殺しにしたことも、事故現場で見たものも、全部覚えてる」
「覚えてるんなら、どうして……」
「確かめたいことがあるから」
決意の下、改めて樹に訴え掛けた。
樹はまだ何か言いたそうにしていたが、いい加減時間を気にしたのか、鈴を置いて駅の方へと歩き出した。その際、背中越しに鈴に釘を刺すのも忘れなかった。
「付いて来るなよ」
足早に進む樹。鈴はそれを駆け足で追い掛ける。
学校から徒歩五分の駅を目前に左へ曲がる。ファッションビルやアミューズメント施設が立ち並ぶ通りに踏み入ると、目に見えて若者の割合が高くなった。
樹は一度こちらを振り向き、まだ鈴が付いて来ているのを見て眉を寄せた。
「鈴」
「嫌」
鈴の意志は固く、樹から離れるつもりはなかった。程なくして、樹が呆れとも苛立ちとも取れる溜息を吐き出す。
「知らないからな」
樹もこれ以上は言ってこなかった。
間もなく樹の足が止まる。鈴はすかさず隣に並び、彼が無表情に見詰める先に目を向けた。ここで間違いないのだろう。
前回と同様、現時点で変わった様子はなく、そこにいる人々にも特に異常はない。事故や事件の前触れになりそうなものも――。
視界の端で何かが動いた。そう感じた時にはもう、飛び上がるほど大きな音が耳をつんざいていた。沢山の悲鳴があちこちで湧き、見渡す限りの通行人の視線が一斉にそちらに集まる。
ビルの上層階から落下した広告看板の下に、複数の人間が倒れている。鈴の位置からは下半身しか窺えないが、看板の下からじわじわと漏れ出した血溜まりが、ことの大きさを物語っていた。
樹が動き出した。彼がアミューズメント施設の陰に移動しようとしているのが知れると、早急に後を追った。
「宇野君――」
「後ろ」
「! そうだった」
前回指示された内容を思い出し、鈴は慌てて樹の後ろに下がる。
「人が密集してるけど、見付かったりしない?」
「基本的には」
密かに心配していた質問を投げてみたところ、淡々とした答えが返って来た。樹は一瞬で死神の姿に変わると、自らが身に付けているオーバーコートを指し示した。
「これを着ている間は、自分とその周りの気配が希薄になるから、自分から出て行かない限りはほとんど気付かれないよ。……たまに誰かさんみたいな例外はいるけど」
「誰かさんって、あたし?」
「他に誰が?」
抑揚のない声音で言い終えるが早いか、樹は大鎌に藍色の光を纏わせ、空気を裂くように振り下ろした。流れて行った光が看板の下に潜り込むと、入れ替わりに蝶の形をした白い光体が二つ、ゆっくりとこちらへ飛んで来る。二羽の蝶を風変わりなペンダントに取り込んだことで、ここでの樹の役目は終わった。
「それで? 確かめたいことって――」
ペンダントをポケットに戻しながら、樹がこちらを振り返ると同時に、鈴は言葉もなく彼の方へ手を伸ばした。
鈴の手の平が樹の頬に触れる。樹はびっくりした顔のまま動かなくなり、何が起きたのか理解出来ていない様子だった。
「やっぱり」
「す、鈴……?」
なすがままになっている樹に、鈴は穏やかに笑い掛ける。
「宇野君、また寂しそうな顔してる」
樹の表情が静かに凍り付く。
「それから、つらそうな顔してる」
「……っ」
「最初はなかなか気付けなかったんだけどさ。宇野君って、仕事の後いっつもこんな顔してたよ。昨日だってそう。自覚なかった?」
樹は何か言おうとして口を開くが、その口から言葉が出ることはなかった。何も言わずに閉じた唇が、小さく震えている。
鈴の手が、そっと樹から離れる。
「考えてみれば、当たり前だよね。助けられる人間を見捨てて、元は仲間だった死神を手に掛けて。あたしが死神だったら、平気でいられる自信なんかないし。宇野君だって――」
「やめて」
ようやく発せられた樹の声は、今にも消え入りそうだった。
「そんなことない。僕はもう慣れてるし、これぐらい平気だよ」
鈴はただ、樹の言葉を聞く。どんなに説得力に欠けていても、今は彼の言葉を無下にする気にはなれなかった。
「平気じゃなきゃ、いけないんだ」
最後は、ほとんど自分に言い聞かせているように見えた。
叱られた子供さながらに小さくなっている樹に、鈴は言う。
「ねぇ。樹君って呼んで良い?」
「……え?」
「あたし、樹君のこと友達だと思ってるから。……話ぐらいなら、いつでも聞くよ」
緩慢な足取りで樹を追い越し、騒ぎの渦中にある通りに出る。背を向けたまま、樹に声を投げた。
「また明日、学校でね」
樹が以前くれたものと同じ言葉を送り、鈴は一人駅を目指した。
二つ目のお願いを言うのをすっかり忘れてしまったが、それも明日があるので良しとする。明日また会った時に言えば良い。
学校は面倒だし、授業は嫌いだ。しかし、最近は少しだけ学校で笑う機会が増えた気がする。友達らしい友達も作らず、ただ行って帰って終わりの学校生活が、少しだけ変わった気がする。
これからも、少しずつ変わっていくのだろうか。
【To be continued】
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