第6話 死神達の夜話

「鈴……。またこんな時間に」

 公園から帰宅すると、玄関先に父親がいた。彼もいま帰宅したところらしく、鉢合わせた鈴に躊躇いがちに声を掛けてきた。

 腹の底から湧き上がる感情を抑えながら、鈴は静かにそちらを見た。複雑な表情をした父と、暗い表情をした娘が向かい合い、今日もまた手探りの会話が始まった。

 心を殺し、鈴は淡々と答えた。

「ちょっとコンビニに行っただけだよ」

「幾ら近くても、夜の一人歩きが危険なのは分かるだろう?……父さんは、お前を心配しているんだ」

「……」

 母親の再婚相手。鈴は彼のことが好きではなかった。

 母が選んだ男性だ。真面目で優しい人なのも知っている。その上で、どうしても受け入れることが出来ない相手。歩み寄ろうとしたこともあったが、一度だって上手くはいかなかった。

 自分の父親は、死んでしまったあの人だけだ。この人じゃない。そんなことを考えてしまう自分が、鈴は嫌いだった。

 父の勤務時間の都合上、二人が顔を合わせる機会は多くないが、時折こうして向かい合う度、鈴は暗鬱な気持ちになる。父の顔を正面から見ることさえ出来ないまま素っ気ない態度を取り、それを後悔して自責する。いつもそうだ。

 唇を噛む。鈴は視線を下方へ移し、父の横を通り過ぎた。

 娘の小さな反抗を、父は責めなかった。


 * *


 公園からアパートに戻ると、玄関灯の前にマルスが立っていた。樹達を待っていたらしい。彼はこちらに気付くと、操作していたスマートフォンから顔を上げ、気楽な口調で二人を迎えた。

「やっほー。お疲れ。差し入れ持って来たよ」

 隣を歩いていた渚が僅かに顔を顰めたが、敢えて何か言うこともなく、先に鍵を開けて家の中へ入って行った。

「マルスも仕事の帰り?」

「ん。バイト終わってすぐに電話来てさ。今の今まで仕事」

「お疲れ」

「今日は十人分ぐらい回収したかな。結構手間だったよ」

 世話話をしながら、二人で渚に続く。

 兄弟で暮らす分にはさほど不便のない1LDKも、客人が来ている間はやや狭さを感じる。特にマルスは大柄なので、客人が彼ならその感覚はより一層強くなる。

 料理時にしか使っていないダイニングキッチンを通過し、リビングに移動する。リビングにはローテーブルやテレビボード、カラーボックスが置いてある程度だが、こうして三人が入るとそこそこ窮屈を強いられる。ここに上司や他の先輩が加わった日には、ほとんど足の踏み場がなくなってしまう。

 渚はローテーブルに頬杖を突き、スマートフォンの画面を眺めていた。彼の向かいの窓際に樹が座り、その隣にマルスが座る。いつの間にか決まっていた三人の定位置である。

「これ、バイト先で貰ったやつ。賞味期限切れる前に食べてね」

 マルスが持参した小振りのトートバッグの中から、次々と和菓子が登場する。今日はやけに数が多い気がする。

「いつまで?」

「今日まで」

「もう終わるんだけど」

「で、こっちがコーヒーね」

 樹の真っ当な指摘を聞き流し、マルスは次に三人分の缶コーヒーを取り出した。彼は自分と樹の前に一本ずつ置いた後、もう一本をテーブルの上でスライドさせて渚の手元へ移動させた。

「寝る前にコーヒー?」

「気にしない気にしない。一本飲んだくらいじゃ変わんないよ」

「……明日の朝にでも飲むよ」

 マルスはどこまでもマイペースだが、死神としての能力は樹などとは比較にならないほど高く、そこは純粋に羨ましかった。

 ちなみに、マルスというのはコードネームで、本名は空井燿そらいようという。しかし、樹達が彼をそちらの名で呼ぶことは余りない。隣人や友人というよりも、死神という仕事上の先輩という認識が強いためかも知れない。似たような理由からか、彼も樹達のことはコードネームで呼んでいる。

「今日ユピテルが粛清した死神、元々は別の部署にいた死神なんだけど、捜査の目をかいくぐるためか、あちこち移動しながらこそこそ悪さしてたみたい。迷惑な話だよねー」

 台詞の割にどうでも良さそうに話す燿。実際、彼にとってはどうでも良い話なのだろう。

 口数の多い燿が自分のコーヒーを開けて飲み始めると、室内が急に静かになった。とはいえ、これが束の間の静けさであることは樹も分かっており、実際その通りになった。

「ところでさ、ユピテル」

 燿ははたと何かを思い出した様子で、コーヒーをローテーブルに戻しながら、樹に再び目を向けた。

「またメルクリウスに怒られた?」

 不意打ちで図星を突かれ、樹は一瞬返事に窮した。

「な、なんで?」

「しなびたほうれん草みたいになってるから」

「……他に例えあるだろ」

 燿はいつも独特の例えを用いるが、彼が樹の状態を例える時、そこには大抵悪意がある。

「どうせ人間絡みでしょ? もしかして、前に一緒にいた子?」

「うん……」

 観念して頷いた。昔から知られている相手だ。ただでさえ嘘や誤魔化しが苦手な樹の虚偽の言葉など、簡単に見抜かれてしまう。

「別に人間と関わること自体は否定しないよ? こうして人間のふりして生活してる以上、人間との関係は切っても切れないものだしね。ただ、程度の問題なんだよ」

 朗々たる声で、燿が語る。

「俺達は人間じゃない。どれだけ人間のふりをしても、人間と同じにはなれない。必ずどこかでずれが生じる。関わりが深ければ深いほど、いつかそのずれに苦しむことになるよ?」

 さっき公園で渚に言われたのも、結局はこういうことだ。実際に過去に何度か通った道で、理解はしているつもりだった。

「その子、名前は?」

「諸星鈴」

「その鈴ちゃんって子に死神の情報を知られるのも、大なり小なりリスクはある。広められでもしたら面倒だからね。まあ、これに関しては、最悪上に頼んで鈴ちゃんの記憶を――」

「鈴は言い触らすような子じゃない」

 衝動的に遮っていた。

 この感情の名前は知らない。分からない。しかし、燿の言葉を最後まで聞くことを、樹の心が拒んでいた。

 意外な反発だったのか、燿は面食らったように目を瞬かせ、これまで会話に参加していなかった渚も、ちらりとこちらを見た。二人分の無言の視線に晒され、息が詰まりそうになった。

 渚の視線はすぐにスマートフォンへと戻ったが、燿の方は訳が違った。すっと細くなった双眸が樹を見据え、トーンの下げられた声が樹の感情に揺さぶりを掛ける。 

「情でも湧いた?」

「っ、別にそんなんじゃ……!」

「はは。ごめんごめん。ちょっと意地悪だったね」

 瞬時に元に戻った燿が、何事もなかったように笑う。彼は残りのコーヒーを飲み干すと、缶とトートバッグを手に立ち上がった。

「今はまだ、ユピテルから見た鈴ちゃんを信じることにするよ」

 そう言い置き、燿は樹達に背を向け、リビングを出て行った。足音が遠ざかり、玄関のドアが開閉する際に「またねー」と陽気な挨拶が聞こえたのを最後に、室内は本当の意味で静かになった。

 手付かずだった二本の缶コーヒーを冷蔵庫に片付けた後、兄弟は学校の宿題や動画の視聴といった各々の時間を過ごしていたが、やがて動画に飽きたらしい渚が、スマートフォンを充電ケーブルに繋ぎながら、ぼそりと呟くように言った。

「忠告はしたぞ」

 樹の手が止まる。なんのことを言われているのかは分かった。

「あとは自分で判断しろ。そこまで面倒を見てやるつもりはない」

 無表情に言い終え、渚は早々と隣の寝室に引っ込んで行った。間もなく、彼がドアの向こうで布団を敷き始めたのが音で分かった。

「……僕も寝ようかな」

 ちょうど宿題も終わり、起きている意味はなくなった。明日も学校だ。必要以上の夜更かしは良くない。

『最悪上に頼んで鈴ちゃんの記憶を――』

 問題集と文具を仕舞う途中、不意に先の燿の言葉が頭を掠めた。あの会話の中で一番思い出したくなかった言葉だ。

 雑念を払うように頭を振り、緩慢に立ち上がる。リビングの明かりを消すと、満たされた闇で何も見えなくなった。

 寝室のドアノブを手探りで探し出しながら、樹は一向に晴れる見通しの立たない気持ちを持て余した。



【第2章 End】

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