第12章 最後の嫌がらせ

第49話 残された者達

 諸星鈴もろほしすずの義父――鉄也てつやは、隣で蒼白な顔をし、震える手で鈴のスマートフォンを握り締める鏡花きょうかに対し、掛ける言葉を見出せないでいた。

 いま鏡花が手にしているスマートフォンは、鈴が帰っていない報せを受け、慌てて仕事を切り上げた鉄也が、帰宅途中に見付けた物だ。最寄り駅付近に落ちていたこのスマートフォンは、大きさも色もケースのデザインも、全てが鈴の物と酷似しており、鉄也を戦慄させた。鉄也はことを祈りながら、その場で鈴の番号に電話を掛けたが、祈りは届かなかった。

 帰宅後、鉄也は警察に捜索願を出し、鏡花は鈴のスマートフォンを使い、アプリに登録されている人物に片っ端からメールを送った。そんな慌ただしい時間を経て、二人はソファーに身を寄せ合うように座ると、言葉少なに連絡を待ち始めた。

 以上が、現在に至るまでの経緯だ。警察でも、鈴の知人でも、それ以外でも良い。今はとにかく、一つでも鈴に繋がる情報が欲しい。誰だって構わない。早く。誰か。

 鈴のスマートフォンが通知音を上げた。二人同時に、引き入れられるように画面を見遣った。

 待ちに待った「誰か」からのメール。表示された差出人名を目にした鉄也の頭に、何かがよぎった。

宇野樹うのいつき……?」

 どうにも既視感がある。記憶をたどり、やがて思い出す。

『樹君は関係ない!』

 その名は、かつて鈴が鉄也に放った言葉の中に含まれていた。一人の少年の姿が、鉄也の瞼の裏に浮び上がった。


 * *


 リビングへ戻って来た宇野なぎさが目にしたのは、この世の終わりのような顔をして、普段とは一線を画す速さでスマートフォンを操作する兄の姿だった。

 樹はしきりにキーを叩いている。一度止まったかと思えば、すぐにまた叩き、止まる。止まり、叩く。止まる。叩く。その間、画面から片時も視線を外さない。

 疲れているので、ひとまず放っておくことにした。必要なら、向こうから何か言ってくるだろう。渚は自分の定位置に戻ると、おもむろに自らのスマートフォンに手を伸ばした。これは中毒故の自然な動作に過ぎなかったのだが、結果として、通知ランプの点滅にいち早く気付くのに一役買った。

 樹の奇行が目前にある現状、なんとなく無関係でない気がしなくもない。通知に従い、渚は黙々とスマートフォンを操作した。――事情は分かった。

 再び樹を見る。この世の終わりのような顔をしている。

 思わず溜息が出た。今から徹夜覚悟で樹を見張らなければならないと考えると、気が重くなってくる。徹夜を前提とし、コーヒーのストックをチェックしに行こうと腰を浮かせた時、インターフォンが高らかに鳴り響いた。

 こんな時間に訪ねて来る者といえば、思い付く限り一人しかいない。一応モニターを確認したが、やはり確認するまでもなかった。別の溜息を漏らしつつ、渚は玄関へ向かった。

 玄関口に立つ。解錠し、気が進まないままドアを開けた。間を置かず、渚は客に向けて問うた。

「なんの用だ?」

「ん? なんのって、ユピテルを気絶させに――ちょっと! なんで締めようとすんの!」

 客こと空井燿そらいようが、閉まり掛けたドアの隙間に足を突っ込んで来る。渚は露骨に顔を顰めながら、何故ドアを開けてしまったのかと内心で自問した。

「狂人を招く趣味はない」

「失礼な! 俺ほどまともな死神がどこにい――こら! 先輩の足を蹴るんじゃありません!」

 いつもの押し問答。頭痛の種が増えた。こうなったら、この男は何を言っても引かない。

 燿を言葉でねじ伏せるのは容易でないし、物理的に追い出すには体格と力の差があり過ぎる。これ以上粘っても近所迷惑にしかならないのは嫌でも分かった。意図的に舌打ちしながら、渚はドアを掴んでいた手を引っ込めた。

「もう。最初から素直に開けてくれれば良いのに。メルクリウスって、ほんと天邪鬼だよね」

 持ち前の厚かましさで渚の神経を逆撫でする燿。しかし、彼は渚の罵倒を待たずして、ほんの少し真面目な顔になった。

「君達のとこにも来たんでしょ? 鈴ちゃんのお母さんから。それで、ユピテルが後先考えずに飛び出して行くんじゃないかと思って、こうして止めに来たんだよ」

「それを先に言え」

 喉まで出ていた暴言を飲み込み、渚は本日三度目の溜息を吐いた。

「で、気絶させるべきだと思ったわけ」

「……何故そうなる?」

「あのねぇ。いま何時だと思ってんの。とっくにホームセンター閉まってるでしょ。ロープ買えないじゃん。縛れないじゃん。じゃあもう殴るしかなくない?」

「その発想が狂人だと言っているんだ」

「土に埋める? 海に沈める?」

「お前が沈め」

 新たな押し問答が始まった頃、リビングで動きがあった。

 荒立たしい足音に釣られて振り返る。リビングから飛び出した樹が、血相を変えて走って来る。渚達ではなく、その後ろにあるドアを目指して。

「ほーら。言わんこっちゃない」

 呆れ返った声を発するが早いが、燿がつかつかと屋内に上がり込み、樹の前に立ち塞がった。


 * *


 およそ半時間後。静寂に包まれた宇野家のリビングで、燿は渚と共に樹の監視に当たっていた。

 燿達の向かいに正座させられた樹は、見るからに納得も反省もしておらず、仏頂面で視線を逸し、押し黙っている。背負い投げして捕獲したは良いが、普段に輪を掛けて子供染みた樹の挙動には、ほとほと困り果てた。

「ユピテル」

 燿が呼ぶと、樹はようやくこちらを見た。

「頭は冷えた?」

「……」

「冷えてないと」

 いい加減、腹が立ってきた。少々物騒な考えが頭を掠めた時、樹がぽつりと、弱々しく言葉を発した。

「出来ないよ」

「……分からなくはないけどさ」

 不承不承、認めるべきことは認めるが、だからといって、おいそれと行かせる訳にはいかない。

「鈴ちゃんの失踪が死神と無関係なら、それはお巡りさんの領分だし、死神と関係があるなら、いずれウラヌス達が犯人にたどり着く。現状、俺達にやれることなんかないと思うけど?」

「サトゥルヌスが関わってたら?」

「えー……そういうこと言っちゃう?」

 あえて触れないでいた内容を当たり前のように口に出され、眉間に皺が寄ったのを自覚する。

「クソアマが関与してんなら、そりゃもうお手上げでしょ」

「っ、マルス!」

「あー、もう。めんどくさいな。ウラヌス達が把握出来てないクソアマの居場所を、俺達みたいな普通の死神が突き止められる訳ないでしょ。ちょっとは落ち着きなよ。またぶん投げるよ」

 投げ遣りになる燿と、それに食って掛かる樹。そんな二人を見兼ねたのか、渚がここで初めて口を開いた。

「樹」

 お決まりの無感情を装った瞳が、樹を見据える。

「忘れるな。我々は人間あちら側の事件には介入出来ない立場だ」

 樹がはっと息を呑んだ。動揺する余り、基本的なことすら失念していたらしい。反論のために開いていた口は、矛先を失ったことで一時的に停止し、やがて真一文字に結ばれていった。

「少なくとも、最低限の情報が入るまでは動くべきではない」

「そういうこと。クソアマの関与だって、可能性の一つでしかない訳だし」

 樹はすっかり静かになっていた。彼は目に見えて落胆していたが、もう反抗はしてこなかった。

「ごめん……。二人とも」

「分かればよろしい」

 樹が少なからず平常心を取り戻し、こちらの意見を受け入れたのが分かると、燿は出されていたお茶にようやく手を付けた。溜飲が下がり、幾らか肩の荷が下りた。

「悔しいだろうけど、今は待つしかないよ」

 燿が諭すと、樹は暗い顔をしたまま小さく頷いた。

 室内に、再び静寂が訪れた。


 * *


 夜も更けたウラヌス邸の客間。黒いオーバーコートを纏ったアポロとディアナは、勧められた座椅子に腰を落ち着け、鉄壁のニコニコ顔をしたウラヌスと対面していた。

 アポロの隣で、ディアナが物憂げな表情をしている。理由はアポロも知るところだ。ディアナの性格上、自責を避けられないことも、長い付き合いで身に染みている。

 普段は基本的に聞き手に回っているディアナだが、今日に限っては、早々と自ら口火を切った。

「ごめんなさい。わたしが至らないばかりに、あの子達を危険に晒してしまって」

 クロノスの追跡を任されていたディアナもまた、宇野美埼みさきの策略に嵌った一人だ。美埼が隠し続けていたクロノスの姉――ヘルメスの存在に気付けないまま、樹と渚を行かせてしまったことを、彼女は酷く気に病んでいるのだ。

「ディアナ。さっきも言ったが、この件はおれ達の連帯責任だ。お前が一人で抱えることじゃねぇよ」

「でも……」

「済んだことぐだぐだ言ってなんになるんだ? おれ達が考えんのは、これからどう立ち回るかだろ?」

 不器用なりにディアナを宥め、なんとか落ち着かせると、アポロはウラヌスに視線を固定した。

「で? あんたの考えは?」

 ウラヌスの答えは早かった。

「ぼく達のやることは変わりません」

 ウラヌスは緩い笑みを絶やさず、あたかもなんでもないことのように断定した。事務的な言葉を穏やかな声に乗せ、彼は穏やかに続ける。

「サトゥルヌスの命は。我々は被害を最小限に抑えるため、サトゥルヌス消滅の瞬間まで時間を稼ぐだけです。無事に耐え切れば、あとはなんの問題もありません」

 たった三人で執り行われた夜更けの会合は、ごく短い時間でお開きとなった。



【To be continued】

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