第57話 橙色の死神[後編](最終回)

 死神の仕事と並行だったにも関わらず、諸々の手続きと引っ越し作業を、僅か一週間という限られた過ぎた期間で終わらせた樹と渚は、ボロ雑巾状態から復活する暇もなく呼び出しを食らい、早々に会合の場へ赴く羽目になった。

 引っ越し先のマンションの前でタクシーを待つ間、樹はぼんやりと考えていた。東京で過ごした日々のこと。そこで体験したこと。関わった人達のこと。あの三ヶ月間のこと。

 つい最近のことなのに、とても遠くに感じる。現実以外の何物でもないのに、まるで現実感がない。長い夢から覚めたような、そんな心地がする。

 この感覚の正体に、樹は気付いていた。

 少女と出会い、別れるまでの三ヶ月間。

 少女はいつの間にか隣にいて、ずっと隣にいて、それが当たり前になっていた。彼女はもういない。隣にも、どこにもいない。これからは、それが当たりになっていくのだ。

「……結局、最後まで描けなかったな」

 日陰で涼みながら、樹はそう呟いた。結構な小声だった気がするが、前に立っている渚は拾ってくれた。

「部屋の絵のことか?」

「うん。一応、写真は撮って来たんだけど……。たぶん続きは描けない。僕が描きたいのは、自分の居場所と、そこから見渡せる世界だけだから」

「……そうか」

 渚はこちらを見ない。しかし、いつものような冷ややかさはなかった。

 あと五日で、樹と渚は戸籍上になる。活動拠点の異動に伴い、この地でまた高校一年生からやり直すのだ。急な異動となった今回は、東京からの転入生という形で、九月より通学を始める手筈になっている。

「渚。そろそろ真面目に学校に行――」

「断る」

 渚に冷ややかさが戻ったところで、タクシーが到着した。

「この旅館まで」

 渚がイントネーションのない声で行き先を指定すると、目を丸くした運転手がこちらを二度見した。

「君ら、心霊マニアか何か?」

 凍結した樹の隣で、渚が「馬鹿馬鹿しい」と毒づくのが聞こえた。が、運転手は気付いていない様子で、タクシーを発進させながら勝手に喋り始めた。

「あそこ、地元じゃ有名だよ。死神の宿とか呼ばれててね。泊まったら魂抜かれるんだとか」

 聞かなかったことにした。

 山道を進んだ先でタクシーを降り、車では到底入れない狭い獣道を進んだ。

 荒れに荒れた林の中でようやく見付けた宿は、この世のものとは思えない外観をしていた。管理されているかも疑わしい蔦まみれの和館は、禍々しい空気を惜しみなく漂わせ、樹をこの上なく自然な回れ右に誘導した。

 渚のスマートフォンが凶器と化すまでに、ほとんど時間は掛からなかった。


 * *


「お待ちしていました。ユピテル。メルクリウス。突然の決定で苦労を掛けましたね」

 出迎えてくれたウラヌスに案内され、外観に反して小綺麗で豪奢な館内を進む。通された客室には、既にオーバーコートを着た同課の皆が集まっていた。

 燿達は燿、アポロ、ディアナの順に窓側に詰めて横並びに着席していて、座卓を挟んだ三つの空席には、冷茶グラスとお茶請けが用意されている。樹は渚が窓側の席に着いたのを確認してから、隣の座椅子に腰を下ろした。

「二人とも遅いよ! もう首が伸び過ぎてキリン状態だよ!」

 燿が大声で不満を口にする。渚が煩わしそうに舌打ちした。

「体力馬鹿の視点で物を言うな」

 不満を一蹴し、渚は剣呑な双眸をウラヌスに定めた。

「用件はなんだ?」

「ええ。早速お話ししましょうか」

 ウラヌスは樹と渚のグラスにお茶を注いだ後、皆とは別の座卓に着いた。樹はこれに違和感を覚えるも、すぐに話が始まったため、指摘の機を逃してしまった。

「マルス達には既に話してありますが、この度、我々の部署に新たな仲間を複数名加えることが決まりました」

「新しい仲間……?」

 つい聞き返した樹に、ウラヌスは頷いた。

「ここは長らく人員不足に頭を抱えていましたが、それが先日のサトゥルヌスの件で浮き彫りになりました。今後もあのような不測の事態が起こらないとも言い切れませんから、急きょ人員を増やす運びになった訳です」

 ウラヌスはそこでいったん言葉を区切り、のほほんとお茶に手を付けた。

「適合者は五名。いずれも東京で集めた自死者ですから、我々の異動は不可避でした。……ここまでで何か質問は?」

 首を振る樹と無言の渚を見て、ウラヌスは話を再開した。

「新たな仲間の内、一名がこの課に加わります」

「え?」

 なんら不思議な話ではないのに驚いてしまったのは、渚と共に死神になったあの日から今日に至るまで、ずっとこのメンバーでやってきたからだろう。どんな形であれ、この課の違った姿が想像出来なかったのだ。

「大丈夫。すぐに慣れますよ」

 樹の思いを汲み、ウラヌスは励ましてくれたが、その励ましの言葉に、うっすらと含みを感じるのは何故だろうか。

「仲間は既にこの館内にいます。今からマルスに呼びに行かせますので、暫しお待ちを」

「ほんっと、ウラヌスって俺をこき使うの好きだよね」

 燿が沈黙から一変、ぐちぐちと悪態を吐き始めたところで、アポロとディアナが緩慢に口を開いた。

「マルス。今日はちゃんと静かに出来てたな」

「偉いわよ。マルス」

「いや、俺をなんだと思ってんの! なんでこの年で子供扱いされなきゃいけないの!」

 大人らしからぬ理由で褒められた燿は、子供さながらに喚き散らす。

「そりゃ、精神年齢が低いからだろ」

「低くないよっ!」

 そんな説得力の欠片もない反論の後、燿は盛大な溜息混じりに腰を浮かせた。

「……じゃ、ちょっと待ってて。連れて来るから」

「う、うん。分かった」

 まだ微妙に不機嫌な燿にそう応じる。

 燿がいったん部屋を去る。樹は燿達を待つ傍ら、隣の空席に目を遣った。ウラヌスの席だとばかり思っていたそこは、どうやら新しい仲間のために用意されたものだったらしい。

 その仲間は比較的近くにいたようだ。程なくして、二人分の足音が部屋に近付いて来た。

「失礼しまーす!」

 若い女性の声。明るくて、良く通る声。少し高くて、心地よく響く声。

 襖が開き、露になった二人の死神の姿を見た。燿と、を纏った少女の姿を見た。

 言葉が出て来ないほど、動けなくなるほど、思考が止まるほど、樹は我を忘れていた。そんな樹を知ってか知らずか、橙色とうしょくの死神は樹の隣へやって来た。

「初めまして。あたしはウェヌス。本名は――」

 ようやく口にしたその名は、自分の声とは思えないくらい細く、情けない涙声にしか聞こえなかった。

「へ? もう聞いてたの?」

 目を丸くし、怪訝な様子で着席した諸星鈴は、早々に樹の顔をまじまじと見詰めてきた。

「うーん……」

「な、何?」

「あたし達、初対面だよね?」

「え?」

「なんか、しきかん? きしかん? があるんだよね。気のせいだとは思うけど」

 眉尻を下げて、曖昧に笑う鈴。あの時みたいに。

 鈴を失ったあの瞬間から、ずっと心の引き出しに仕舞っていた数々の想い。あっという間に漏れ出したこれは、樹を酷く掻き乱した。

 僅かでも気を抜けば、きっと泣いてしまう。樹は無理やり微笑を作って、無理やり普通とおぼしき反応を示して見せた。

「初対面だよ。変なこと言うなよ」

「あはは……やっぱそうだよね」

 気付かれていないかと不安を抱えつつ、樹は無意識に鈴の視線から逃れるように、周りにいる皆を見渡した。

「全く……人騒がせな奴だ」

「それ、メルクリウスが言っちゃう?」

「うるさい」

 渚と燿が、日頃と変わらない調子で会話を交している。アポロとディアナが、一歩引いた所から後輩達を見守っている。ウラヌスが、鉄壁のニコニコ顔でお茶を注いでいる。そんな当たり前の光景に、新たな当たり前が加わろうとしている。

「どうしたの?」

 声を掛けられ、はっと我に返る。

「な、なんでもないよ」

「そう?」

「ところで……その色は?」

 最初の衝撃が強すぎて、すっかり聞きそびれていたこと。尋ねる程度の落ち着きを取り戻せたのは幸いだった。

「ああ、これ? なんか、百年に一度あるかないかのすっごくレアなコートで、知らない死神も多いみたい。良く分かんないけど、そこのお兄さんは『最強の証』とか言ってたよ」

 そう言って、鈴は燿の方を見る。

 燿は説明を引き受ける。

「ウェヌスはね、死神やるの今回が初めてじゃないんだよ」

「え?……前にも?」

「うん。それで、死神の役目を全うした当時の力が、今もまだ残ってるんだってさ。ね? 反そ――最強でしょ?」

 燿は笑っているが、どことなく悔しそうだ。

 確かに、全く勝てる気がしない。呆気に取られる樹の隣で、鈴が再び口を開いた。

「まあ、そんなピンと来ない話は置いといて。皆の本名聞いても良い? あたし、横文字苦手で……コードネームの方は、すぐに覚えられる気しないから」

 自嘲気味に言う鈴。彼女の明るさと和やかさが伝播して、場の空気が少しずつ変わってゆく。やっぱり、鈴は鈴だ。

 明るくて、純粋で、まっすぐで、温かく包み込んでくれる。樹が愛した鈴がここにいる。この世界にいる。

 こうして死神になったことが、鈴にとって良いことなのか、今はまだ分からない。

 けれど、もし鈴が死神の仕事や悪夢、記憶のことで悩むようなら、持てる全ての力を使って支えていこう。かつての鈴が、樹にしてくれたように。

「ねぇってば! 聞いてる?」

「!」

 耳元で呼ばれて、樹は慌てて鈴に向き直った。

「あ、ごめん。何?」

「もう。何、じゃないでしょ。あとは貴方だけだよ」

 鈴は不満げにこちらを見詰めている。樹は少し考えて、彼女が名前のことを言っているのだと把握する。

「僕は宇野樹だよ」

「宇野樹君ね。あたしは――って、もう知ってるか」

 鈴はそう言った後、不貞腐れた顔で窓の方を眺めている渚をちらりと見てから、再び樹を見た。

「双子なんだよね? じゃあ、下の名前で呼ぶね」

 鈴はすっと手を伸ばして、樹の手を握った。手が違うが、握手のつもりらしい。

「よろしくね。樹君!」

「うん。……よろしく。鈴」

 鈴のまっすぐな笑顔と向かい合って、樹はようやく心から笑うことが出来た。


 二〇二二年六月二十七日。時を越え、運命を外れた少年と少女の魂は、この世界で二度目の再会を果たした。



【藍色の死神 End】

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藍色の死神 福留幸 @hanazoetsukino

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