第1章 死神と少女

第1話 藍色の死神

 二〇二二年四月七日。

 心躍る春休みが電光石火の如く終わりを迎え、望まない学校生活にその座を受け渡した辺りから、諸星鈴もろほしすずの記憶は曖昧だった。

 意気消沈の中で朝の支度を済ませたのも、人波に揉みくちゃにされながら電車に乗ったのも、改札口を通ってふらふらと駅を出たのも、つい先ほどのことなのに、余り覚えていない。恐らく、心が無の極致にあったためだろう。

 通学という行為は、鈴にとって憂いの筆頭だった。学校生活に付いて回る勉強というものが、彼女は何よりも嫌いだった。通勤通学ラッシュ時の電車移動も相まって、登校する頃には既に精神的に消耗しているのが常だった。

 バッグのポケットにICカードを突っ込み、残りの距離を歩く。五分程度の距離だ。すぐに着く。いや、本来ならば着く筈だった。

 学校を目前に控えた並木の道で、その違和感はやって来た。何故かは分からない。説明も出来ない。けれど、何かがおかしいことだけは確信した。

 歩みを止め、周囲を見渡す。他の通行人は気付いていない。気付いているのは、鈴ただ一人だけに思えた。

「! あ……」

 鈴の目がある一点を捉え、視線と関心はたちまちそちらに吸い寄せられた。素通りの選択肢は失せた。感じた違和の正体がそこにあると、彼女の直感が告げていたのだ。

 葉桜の木の陰に誰かがいる。単なる通行人の類でないのは、一目で分かった。そろりそろりと近付いて行き、目を凝らす。

 寒色のオーバーコートを着用した細身の背中。そして、右手に握られた。空間に溶け込むようにして佇むその姿は、コスプレと呼ぶには余りにも綻びに欠けていて、却って過剰な浮世離れを引き起こしていた。

 そんな浮世離れした人物の足元に、人が倒れているのが見て取れた時は、口から心臓が飛び出るかと思った。倒れているのは中年の男性で、微動だにしない。オーバーコートを着た人物は、どうやらこの男性を見下ろしているらしかった。

 嫌な想像が頭を駆け巡る。これが当たっていれば、自分はなかなかまずい状況下にいることになる。蒼白な顔で後ずさりし掛けた鈴だったが、叶わなかった。

 オーバーコートを着た人物が、ゆるりとこちらを振り返った。目が合った。見開かれた両者の目が、互いを凝視する。

 相手は異様に若く、少年の容姿をしている。年の頃も、鈴との差はほとんど窺えない。非現実的な光景を更に複雑化させているその顔を、少年はあからさまに顰めながら独りごちた。

「最悪。見られた」

 少年はフードを目深に被り、再びこちらに背を向けた。逃げるつもりか。彼の背中に、鈴は慌てて絞り出した言葉をぶつけた。

「人殺し?」

 咄嗟に思い付いた言葉がこれだったのだから仕方がない。とはいえ、冷や汗が止まらない。

「人聞きの悪い」

 不満を声に乗せ、少年は言った。しかし、もう振り返りはしなかった。彼はなんの先触れもなく、軽やかな身のこなしで垂直に跳躍すると、瞬く間に樹木の枝葉の向こうへ消えてしまった。

 上方で枝葉のぶつかり合う音が何度か聞こえたのを最後に、少年の気配は完全に失せ、呆然と立ち尽くす鈴を置き去りにした。

「え、何?」

 続けざまに起こった、常軌を逸した出来事。日常の風景との乖離が大き過ぎて、笑いさえ込み上げて来た。

 自分が何を見たのか。あの少年はなんだったのか。いずれも理解の範疇を超えている。ただ――あの少年を視認した瞬間、かつて本で読んだある存在が、鈴の脳裏をよぎっていた。

 。あの少年の姿は、まさに空想の世界の死神そのものだった。彼が立ち去る際、僅かに掛かった陽光により、彼の纏うオーバーコートが藍色であることだけは判明したが、それを念頭に置いてもなお、鈴には彼が死神にしか見えなかった。

 そして、鈴はふと思い出す。

「って、違う違う違う! 電話! 電話しないと……っ!」

 現状を思い出し、我に返った。今は空想的な思考に耽っている場合ではなく、常識的な行動を起こさなくてはならない時だった。

 ようやく戻って来た正常な見解の下、鈴はスマートフォンを取り出す。救急車と警察を呼んだ後は、あの藍色の死神について考える暇などなくなったが、彼との邂逅はまだ終わっていなかった。


 * *


 男性は既に死亡しており、現場は一時騒然となった。

 事情聴取は予想通り長引き、勿論なんの成果も得られなかった。解放され、自由の身となった鈴は、その足で学校へ向かった。

 帰宅も視野に入れたが、距離があるのでやめた。すぐにでも座って休憩したかったためだ。屋外は落ち着けないし、カフェはお金が掛かる。余り回らない頭で悩んだ結果、登校という結論に至った。

 勉強は嫌いだ。しかし、座ってぼーっと出来るなら、この際どうでも良かった。

 新学期を迎えて、既にクラス替えが行われた後。二年二組の教室に入ると、鈴は一年生の時も一緒だったクラスメイトを見付けて席を尋ね、やっとの思いで座ることが叶った。ちょうど休み時間なのが幸いだった。バッグを机の上に置いたまま、彼女は一息を吐いた。

 窓際の最後列は得られなかったものの、その隣だったのでまあ良しとしよう。隣にいる男子生徒は、ずっと窓の外を眺めていて顔が窺えないが、恐らく初めて見る生徒だ。

 窓の外に何がある訳でもないだろうに、良く飽きずに続けられるものだ。余計な世話だが、つい考えてしまう。

 机の上のバッグが滑り落ち、床に激突したのはそんな時だった。周囲の会話が一部中断されるほどの大きな音が、教室中に響いた。

 やってしまった。疲れていたとはいえ、バッグぐらいはちゃんと掛けておくべきだったと反省しながら、鈴はバッグを拾うため、席を立つ。どうやらファスナーを閉めるのも忘れていたらしく、中身まで床に散乱していて溜息が出た。

 しゃがんで所持品を拾っていると、ふと視線を感じた。顔を上げると、隣の席の男子生徒がこちらを見下ろしていた。流石に驚かせたか。ひとまず詫びを入れようと、鈴は口を開いた。

「ああ、ごめん。びっくりさせ――」

 鈴の言葉が途切れる。男子生徒の顔が鮮明になり、それに伴い、強烈な既視感が生じた。理由はすぐに分かった。

 だった。服装こそ制服に変わっているが、間違いない。彼は明らかな当惑の表情で鈴を見ていたが、やがてばつが悪そうに視線を窓の外へと戻してしまった。

「……こんなことある?」

 鈴の呟きを聞いた者はいない。



【To be continued】

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