第26話 そこにある悪夢
鉄也が目を覚ました。
まだ焦点の定まらない鉄也の瞳が、再び自分を映してくれるのを静かに待つ。鉄也とまた向き合うことが叶い次第、言うべきことを言うつもりだ。だから、鈴はその時が訪れるのを待ち続けていた。どれほどの時間を消費しようとも、待ち続けるつもりでいた。
「す、ず……?」
やがて、鉄也がたどたどしくも言葉を発した。
鉄也が目覚めてくれた喜びと、自分の名を呼んでくれた喜びに、笑みが波紋のように広がる。鉄也の瞳が、はっきりとこちらを認識したのが分かった。鉄也は非常に慌てた様子で起き上がると、しきりに辺りを見回し始めた。
「さっきの子供は……?」
「悪い夢だよ」
鈴は答えた。予め用意していた答えだった。
滲んで来る涙を人差し指で拭って、口元を緩める。今から言うべきことを言う。やっとで言える。
「お父さん」
あの人でも貴方でもない。鈴が鉄也を面と向かって父と呼んだのは、今日が初めてだ。絶句するほど驚いている鉄也と向き合い、鈴は言うべきことを言った。
「今までごめんなさい」
呆然としていた鉄也が、少しだけ泣きそうな顔になる。ややあって、彼は鈴に笑い返しながら言った。
「帰ろう。鈴」
「うん」
鉄也が言い、鈴が力強く頷く。二人一緒に立ち上がり、踵を返した。鏡花が待つ家に帰るために。
公園を出る際、鈴は一度だけ後方を振り返った。樹達は大丈夫だろうか。あれから公園に戻って来ていないが、以前のように怪我などしていないだろうか。いずれにせよ、今は確かめる術がない。
鉄也と共に帰宅した後、鈴はすぐさま樹にメールを送った。
* *
誰かの話し声が聞こえる。知っている声だ。
「ユピテルを殺したら怒られる……か。で、君達のことを知ってる風だった訳ね。アポロ達なら何か掴んでるかも知れないけど、教えてくれるかは微妙なとこだね。聞くだけ聞いてはみるけど」
聞こえはするものの、内容はさっぱり入って来ない。頭が回らない。ぼんやりとした意識のまま、意味の理解出来ない言葉をただ聞いている。
「ああ、ユピテル。起きた?」
ぼやけた視界が、少しずつ鮮明になっていく。
「おーい」
傍らにしゃがんだ燿が、こちらの顔を覗き込んでいる。が、それを認識する間もなく、樹は飛び起きていた。頭部に衝撃と激痛が走り、先程とは違う意味で意識が飛びそうになった。樹は再び地面に崩れ落ち、頭部を押さえて悶絶した。
頭突きを喰らった燿もまた、うずくまって悶絶していた。プルプルと身を震わせながら、彼は珍しく樹に対し憤りを示す。
「……ユピテルって、普通に起き上がれないの?」
「ごめん……」
地を這うような声で詰問され、樹は萎縮して小さくなった。なかなか収束を見せない痛みに必死に耐えていると、上方から冷ややかな声が降って来た。
「遊んでいる場合か」
「遊んでないでしょどう見ても!」
「いちいち大声を出すな」
渚が燿の不平不満を足蹴にする。それ自体はいつものことだが、樹はその光景の中に違和感を見出した。そして、気付く。
渚の纏う雰囲気が、いつもと微妙に違っている。あの虚無的な表情は影に隠れ、どことなく殺気立っているように見えた。今の渚の瞳の奥に潜む何かが、普段以上に人を寄せ付けない、近寄りがたい空気を漂わせていた。
「渚――」
「自分の心配をしろ」
樹がおずおずと言い掛けた言葉は、低められた声で遮られた。
一人で先に歩き出した渚を、燿が何でもないような顔で追って行く。燿はちらりとこちらを振り返り、樹に呼び掛けた。
「ほら、ユピテルも行くよー」
「あ……うん。いま行く」
釈然としない思いを抱いたまま立ち上がり、樹は駆け足で二人に追い付いた。
* *
翌日の夕刻。鏡花から急きょ頼まれた買い物を終え、帰宅するために駅へ戻る途中、街灯の陰に樹の姿を見付けた。藍色のオーバーコートを身に纏っており、死神の仕事で来ていたのが分かった。飛び付きたい衝動を抑えつつ声を掛けると、樹は柔らかい表情で小さく手を振り、ぱたぱたと駆けて来た鈴を迎えた。
「昨日は無事で良かったよ。怪我とかもしなかった?」
鈴の開口一番の問い掛けに、樹は一瞬フリーズした後、視線を泳がせながら淡々と応じた。
「しなかったよ」
「いや、絶対嘘だよね?」
これで誤魔化せると思っているのなら恐れ入る。
「もう……。良いよ。生きててくれてるから」
呆れも心配もしたが、結局はそこに行き着く。
気を取り直し、鈴は神妙な面持ちで樹を見上げた。もう一つ、なんとしても聞いておかなければならないことがあった。
「あのさ、樹君」
「何?」
「この間のこと、まだ怒ってる?」
この間のこととは、もちろん二日前に樹のお化け嫌いをからかったことだ。丸一日以上も口を利いて貰えず、ひたすら放置されたトラウマがまざまざと蘇る。
樹は故意と取れなくもない数秒間の恐ろしい沈黙を挟んでから、いつもと別段変わらない口調で答えた。
「怒ってないよ。多分」
「多分!?」
表情が控え目なのもまた、怖さをかさ増ししている。内心怯え、気が気ではなかった鈴は、間もなく樹によって追い討ちを掛けられる羽目になる。ふいっと真顔で目を逸らされ、頭を金棒でかち割られるような衝撃に見舞われた。ショックの余り崩れ落ちそうになりながら、鈴は二日前の軽率な自分を呪った。
樹はまだ怒っていた。事態は鈴が思っていた以上に深刻だったらしい。取り返しが付かないほど嫌われてしまったと絶望感に打ちひしがれていたら、樹が予想だにしない言葉をぽつりと口にした。
「……他の所なら良いよ」
「へ?」
目は逸らしたままだが、樹は確かにそう言った。心情が心情だったので、すぐには意味が呑み込めなかったものの、言葉が胸に浸透して来るに連れ、体がじんと熱を帯びていった。自分のキラキラした瞳と、弛緩し切った顔が目に浮かぶ。
「うん! 考えとくね!」
鈴は歓喜に身を任せ、先程とは打って変わって声を明るくした。
心なしか気恥ずかしそうに見えなくもない樹の視線が、ようやくこちらへ戻って来た。
「仕事の休みと合えば一番良いんだけど」
「え? 死神の仕事って、ちゃんと休みあるの?」
「一応。でも、滅多にないし、次もいつになるか分からな――」
会話の途中、樹ははっと思い出したようにスマートフォンを取り出し、画面に目を向けた。見たところ、時計を確認したらしい。
「ごめん。もう行かないと……」
「あ、そっか。あたしこそごめんね。長々と呼び止めちゃって」
またすぐに会える筈なのに、とても名残惜しい。樹も同じように思ってくれているだろうか。
「後で電話しても良い……?」
「うん。良いよ」
穏やかな声音で二つ返事をされ、歓喜が三割上乗せされた。
「行ってらっしゃい。またね。樹君」
「また後で」
樹の空いた左手が、やや躊躇いがちに鈴の方へと伸びて来る。きょとんとしていると、数回頭を撫でられた。そんな不意打ちに、不覚にも心臓が波打ち、顔から火が出そうになった。
逃げるように去って行く樹の背を見守りながら、上昇した心拍数を静々と落ち着けていたら、ゆったりとした足音が耳に届いた。最初は通行人が近くを通ったのだろうと気に留めなかったが、足音は鈴の真後ろまで来て止まった。鈴が無意識に振り返ろうとするが早いか、澄んだ女性の声が空気を震わせた。
「こんばんは」
「!」
突然声を掛けられ、鈴は驚いた。
鈴に声を掛けたのは、若い女性だった。顔見知りではないが、鈴を見詰める表情はとても親しげで、優しげだった。
「初めまして。貴方のことは聞いてるわ。諸星鈴さん」
「だ、誰……?」
「私は死神よ」
「死神?」
「ええ。貴方のことも、仲間から聞いたの」
自ら正体を明かしたこの女性は、見た目だけなら女性というより少女と言った方が違和感がない。外見は十代の後半ほど。樹や渚、昨日のクロノスには及ばないものの、非常に若い。
「どうしたの? 堅い顔して」
少女のこの鈴の音のように澄んだ声に、鈴は聞き覚えがあった。しかし、いつどこで聞いたのかは思い出せない。
「分かった。私を裏切り者じゃないかって疑ってるのね?」
「そ、それは……」
図星を突かれ、鈴は口ごもった。だが、これによって少女が気を悪くした様子はなかった。
「良いのよ。判断材料がないんだもの」
にっこりと笑う少女は、おもむろに尋ねてきた。
「樹達は元気にしてる?」
「え?」
思いもよらない質問に戸惑う。その戸惑いから、鈴は答えるよりも先に聞き返していた。
「樹君達と知り合いなの?」
「以前、同じ部署にいたことがあるのよ」
「そうなんだ……」
警戒を解いた訳ではないが、少しだけ安心した。
「樹君達なら元気だよ」
「そう。良かった。……ねぇ。諸星さん」
「何?」
「貴方、死神を認識する力に長けてるそうね」
どきりとした。目の前の少女は、どこまで知っているのだろう。
「それも……仲間の死神に聞いたの?」
「ええ。そうよ。貴方は有名だから」
「有名? あたしが?」
知らなかった。しかしながら、死神と行動を共にする人間が圧倒的少数であることを考えれば、それに該当する鈴が多少噂になるくらい、別段不自然でもない気はした。
鈴は先の少女の言葉に応じた。
「どうしてかは分かんないけど、普通の人よりは高いみたい」
「生まれつき?」
「ううん。樹君と出会ってから。それまでは、死神の存在すら知らなかったよ」
「なるほどね……」
少女は少し考えるような空白を挟んだ後に、再び口を開いた。
「樹と出会ったのを切っ掛けに、そういう力に目覚めたのかもね。でも、そうでないとしたら――貴方と樹の間には、なんらかの縁があるのかも知れないわね」
「縁?」
「これは私の想像だけど……貴方が死神を見付けた先には、いつも樹がいたんじゃないかしら?」
刹那的に思考が止まった。こんなにも簡単なことなのに、何故いままで気が付かなかったのだろう。
鈴が死神に出会う時、そこには必ず樹の姿があった。思えば、鈴が死神の姿を認識出来ていたのは、樹が担当する事件に立ち会った時だけだった。
鈴は樹が関与していない現場に居合わせたことがない。渚や燿が樹とは別の現場で仕事をしている姿を見たことがない。これが何を示唆しているのか、鈴には見当も付かない。
鈴は呆然としながら答えた。
「いた……」
「それなら、こっちの可能性の方が高そうね。どういう縁かは分からないけど」
いよいよ何を言って良いか分からなくなり、鈴は口を噤んだ。こちらの動揺を知ってか知らずか、少女はふと独りごちた。
「さて、そろそろ戻らないとね」
「仕事……?」
「まあ、そんなところよ」
「あ、待って」
去ろうとした少女を、鈴が呼び止める。
「何かしら?」
「名前、聞いても良い?」
「ああ、まだ名乗ってなかったわね。私は――」
自らのコードネームを告げて、少女は今度こそ鈴に背を向けた。
「またお話しましょう。諸星さん」
そんな台詞を最後に、その不思議な少女はゆっくりと鈴から離れて行った。他の死神にはない独自の空気を纏ったこの少女が何者なのか、鈴が知るのはもう少しだけ先の話になる。
【第7章 End】
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