第8章 絶望の返還

第27話 かくしごと[前編]

 出来たばかりの朝食を取りながら、朝のニュース番組を眺める。今日は比較的平和な話題が多い。普段からこんな話題ばかりならどんなに良いだろうと不毛な考え事をしていると、テレビ台に置いてある卓上カレンダーがふと目に留まった。

 少し前に六月に入った。六月は宇野樹うのいつきと弟のなぎさにとって、ある意味では特別な月と言えた。

 六月二十七日。人間だった頃の二人が、自らの人生を終わらせた日。死神となり、よう達と出会った日。死亡時の記憶はないが、やはり思うところはある。それはきっと渚も同じだろう。お互いに触れるのを避けているのは、常々肌で感じている。

「樹」

「! ああ、ごめん」

 抑揚のない口調で催促され、樹はほとんど手付かずだった朝食を再開した。余りのんびりし過ぎると遅刻する。

 飲みやすい程度に冷めた味噌汁を啜っていると、樹のスマートフォンに着信が入った。発信者は空井そらい燿となっている。

 わざわざこんな時間に掛けてくるのだから、何かしら急ぎの用があるに違いない。樹は箸と椀を置き、手早く通話アイコンを押した。樹がスマートフォンを耳に宛てがうのと、燿が電話越しに喋り始めたのは同時だった。

『おはよ。今ちょっと良い? すぐ終わるからさ』

「少しなら大丈夫だよ」

『ありがと。メルクリウスにも聞こえるようにしてくれる?』

「? 分かった」

 樹は言われた通りにスマートフォンを操作し、ローテーブルに載せてから、渚に声を掛けた。

「渚。マルスから」

 無感動な目がこちらを見る。渚は樹同様に箸を置くと、電話の向こうの燿に無愛想に問うた。

「なんの用だ?」

 間を置かず、燿が用件を切り出した。

『前にアポロが言ってたでしょ? 厄介なことが起きそうだって』

 これには樹が応じた。

「うん。言ってたね。何か聞けた?」

『なんとかね。あれさ、ある裏切り者が関与してるんだけど……。最近、女の死神に会わなかった? 味方以外の』

「女の死神?」

『そ。見た目は若くて、君達よりちょい上ぐらい』

「会ってないと思う。渚は?」

 珍しく真面目に聞いている渚に尋ねる。渚は首を横に振った。

「会っていない」

 二人の答えを聞き届けると、燿はすかさずこう告げた。

『そいつに会ったら、全力で逃げてね』

「え? 逃げる?」

『どんな理由があっても戦っちゃ駄目。会話すんのも禁止。余計なことは考えなくて良いから、とにかく逃げて逃げて逃げまくって』

「そんなに強い相手……?」

『まあね。性悪の地雷女だけど、強くなくはない』

 飄々としていた燿の声色に、あからさまな嫌悪が混じった。

「マルスの知り合い?」

『不名誉極まりないけど、一応ね。知り合った当時の自分をぶん殴りたいよ。さっさと死ねば良いのに。あのクソアマ』

「そ、そう……」

 燿がここまで露骨に嫌悪を示す相手がいることに驚いた。

 罵倒するだけ罵倒して落ち着いたのか、燿は何事もなかったかのように言った。

『そんな訳で、よろしくね』

「分かった。気を付ける」

 釈然としない思いを抱きつつ、警告を受け取る。

 樹が承諾した直後、電話の向こうの燿が急に沈黙した。会話を続ける訳でも、通話を切る訳でもなく、ただ沈黙した。違和感と同時に言い知れぬ不安を覚えて、樹は怖々と彼を呼んだ。

「マルス?」

『万が一のために言っとくけど』

 ややあって、感情の読めない燿の平淡な声が聞こえて来た。

ね。君達にいなくなられたら、流石に俺もへこむよ』

 今の燿に、いつもの陽気さはない。

 言葉の意味は分からないが、前半には既視感があった。既視感の正体はすぐに分かった。樹達は以前、アポロにほぼ同様の言葉を掛けられていた。これが燿の口からも出たことに、一種の不気味さを感じた。燿やアポロ達が当たり前に知っていて、自分達が知らない何かが確実に存在しているのだ。

 樹が意味を尋ねるより先に、通話は静かに切られた。

 樹も渚も、何も言わなかった。樹は強い困惑の色を浮かべて。渚は酷く不満げに眉を寄せて。喋るのを、動くのを忘れてしまったかのように、二人は暫し黙し続けた。

 ニュースキャスターの声と、外から入って来る自動車の音だけがリビングに響く。心地悪い静けさがあった。

 やがて、沈黙を破ったのは渚だった。

「どいつもこいつも……」

 低く、苛立たしげに毒舌を吐く渚。言い方はともかく、樹が抱いた感情も似たり寄ったりだ。自分達の手の届かない所で、間違いなく何かが起こっているのに、それ以上のことを知る術がない。自分達だけが蚊帳の外にいる疎外感と、それをどうすることも出来ない焦燥感が胸を占めた。

 そんな二人の思いなど関係なく、その時は刻一刻と迫っていた。


 * *


「……柄にもないこと言っちゃったな。まあ、別に良いか」

 樹達との通話を一方的に終わらせた後。燿は無表情にそんな呟きを漏らしていた。

「ごめんね。二人とも」

 ここにはいない樹達に詫びて、スマートフォンをバッグに突っ込むと、燿は足早に目的地へと歩み出した。


 * *


 昨夜。大人数での会合を想定した広大な和室で、三人の死神達が顔を付き合わせていた。和服姿の男と、黒いオーバーコートを着た二人の男。その内の一人であるアポロは、座卓を挟んだ向かいで正座を崩し、呑気に大欠伸をしている燿を見た。

 燿がいる以上、この会合が平和に終わるとは思っていないが、それでも可能な限り穏便に済ませられないかと、同僚のディアナと共に模索し始めたのが三日前。しかし、努力も虚しく、成果が出せないまま今日を迎える結果となってしまい、今は居心地が悪いを通り越して、生きた心地がしない。

「何? 改まって」

「そうですね。作戦会議といったところでしょうか」

 アポロの心情を置き去りに、燿とウラヌスの会話が始まる。

「作戦会議? っていうか、ディアナは?」

「粛清の仕事で不在です」

「ふーん」

 聞いておいて早々に興味を失ういつも通りの燿に、アポロは慎重に口火を切った。

「で、作戦会議の内容なんだが」

「うん」

「厄介なことが起きるって、前に言ったろ?」

「あー、あれね。やっと俺にも教えてくれる気になった?」

「黙ってたのは悪かった。死神になって半世紀経たねぇ奴には秘密にしとけって、ウラヌスから雑な指示受けててな」

「なんで?」

「情報漏洩を防ぐためだとよ。裏切り者になるリスクが低い死神だけで対策を練ようって話になってな」

「俺はウラヌスに信用されてないってこと?」

「……」

「あ、そこ否定しないんだ」

 燿がウラヌスを睨む。しかし、ウラヌスの緩い笑顔は鉄のように動かない。

 しかし、怖いのはここからだ。切り出すのは恐ろしくてならないが、言わない限り話は進まない。

「マルス。落ち着いて聞け」

「そんなの内容によるよ」

 現時点ではまだ飄々としている燿に、アポロは肝を冷やしながらとうとう切り出した。

「サトゥルヌスが帰って来た」

 アポロがそのコードネームを口にした瞬間、燿は予想と寸分違わぬ反応を示した。

「そんなおっかねぇ面すんなよ。お前にとって、因縁の相手なのは分かるが――」

「あのチャバネゴキブリ、まだ生きてたんだ」

 アポロの言葉は、燿が恐ろしく低い声で吐いた暴言に遮られた。アポロは怖気付いた。

 この後、ウラヌスが提示した幾つかの情報を、燿は当初どうでも良さそうに聞いていたが、ウラヌスのある指示を皮切りに、あからさまに態度を変えることとなる。

「君はぼく達が到着するまで、彼女を足止めして下さい」

 燿が眉を顰める。

「……粛清しろとは言わないんだね」

 そう嫌味ったらしく毒づいた燿に、ウラヌスはいつもの穏やかさで平然と応じた。

「ええ。だって、君には無理でしょう?」

「っ!」

 たちまち目を剥く燿。彼は上下関係を完全に無視し、自らの大鎌をウラヌスに突き付けた。

「お、おい! マルス!」

 凄まじい形相でウラヌスを睨め付ける燿に、アポロは慌てふためいた。しかし、返り討ちに遭うので手も出せない。顔面蒼白で成り行きを見守っていると、辛うじて燿の方が引いた。

「次言ったら殺すから」

 燿は怖気が走るほど冷たい表情で吐き捨て、激昂も収まり切らない内に座椅子に座り直した。

「マルスは怒ると怖いですね」

「怒らせたのあんただろ」

 何がいけなかったのかまるで理解していないウラヌスに、アポロは声を潜めて苦言を呈した。

「マルスの戦闘に対するプライドの高さはブルジュ・ハリファ並みだぞ。あんなこと言ったらブチ切れる決まってんだろ」

「ぼくは事実を言ったまでですよ」

「それが駄目なんだっつってんだろうが」

 ウラヌスはニコニコ顔で人のトラウマを抉る癖があるので面倒だった。これが無自覚というのだから恐れ入る。

「とにかく、あんたは必要事項だけ喋ってりゃ良いんだよ。間違っても、マルスがあの女に負けたことは――ひっ!」

「聞こえてるんだけど」

 赤い光を纏った大鎌の切っ先が、アポロの頭上にあった。いつの間にか傍らに立っていた燿の目は血走っていた。

 あろうことか躊躇いなく振り下ろされた大鎌が、座椅子を貫通して畳に大穴を空けた。一瞬でも飛びのくのが遅れていたら、怪我どころの騒ぎではなかった。アポロは腰を抜かし、年甲斐もなく涙目になった。

「お、お、おまっ……おれを消滅させる気か!」

「うん」

「やめろっ!」

 腰を抜かしたまま後ずさり、半ば消滅を覚悟しながら両手を上げて命乞いをすると、燿はようやく光を収めてくれた。鼻を鳴らし、憤然と席へ戻って行った燿に、ウラヌスがニコニコ顔が目に浮かぶ緩すぎる声音で発言した。

「最後に、君にはもう一つ言っておかなければならないことがあります」

「何?」

「ユピテルとメルクリウスを、彼女と関わらせてはなりません」

 ウラヌスの不可解な発言に、燿は怪訝な顔をする。

「なんで? お子様には刺激が強すぎるから?」

「違います」

 アポロは燿から距離を取ったまま、燿とウラヌスの会話に耳を傾けた。燿の顔が徐々に強ばっていく。やがてウラヌスの説明が終わると、燿はなんとも言えない様子で頬杖を突いた。

「あー……そりゃ駄目だ。分かった。俺も気を付けとくよ」

「感謝します。あの二人を一番近くで見ているのは君ですから。君ほどの適任はいません」

「……そうかもね。話は終わり?」

「ええ」

「そ。じゃ、帰るね」

 淡々と言い、燿は一人和室を立ち去った。

 作戦会議はそこでお開きになった。


 * *


「お早う。二人とも」

 諸星鈴もろほしすずは、通学途中に樹と渚の姿を見付けた。二人に駆け寄り、明るく声を掛けた。

「お早う。鈴」

 振り返った樹の笑顔は今日も柔らかく、鈴の心をぽかぽかと温めた。一方、渚は鈴に気付くなり黙って歩調を速め、鈴達の前を歩き出してしまう。毎度のことではあるが、少し切ない。

「ねぇ、樹君」

「何?」

「あたし、渚君に嫌われてるのかな?」

「どうして?」

「だって、あたしが来ると必ず前行くし――」

「三人も並べば通行の妨げになる」

「へ?」

 しっかり聞いていた渚に、この上ない常識的な理由を明かされ、呆気に取られる。隣で樹が小さく吹き出した。

 会話を挟みながら、三人で通学路を歩く。ちょうど学校が間近に迫った頃、樹がふと思い出したように口を開いた。

「そういえば、もうすぐ期末テ――」

「きゃー! 言わないで!」

 即座に顔を青くして大声を上げた鈴に、樹がまたかといった表情になる。

「鈴……。いい加減、授業中に寝るのやめたら?」

「だってー」

「だって、じゃない」

「でも、なんだかんだ言って、また勉強教えてくれるんで――いひゃい!」

 いつもの光景。いつもの学校生活。こんな時間がこれからもずっと続くものだと、鈴はいつの間にか錯覚していた。何も分かっていなかった。平穏などとうに終わっていることも。こうして樹達と楽しく過ごせる日々が、今日で終わってしまうことも。



【To be continued】

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