第2章 司るもの

第4話 テスト勉強と死体の夜

 あれから一週間。諸星鈴もろほしすずが見る限り、学校での宇野樹うのいつきの様子に変化はなかった。

 何事もなかったかのように学校に来て、何事もなかったかのように授業を受けて、何事もなかったかのように帰って行く。あの日の微笑も、鈴に掛けてくれた言葉も、全て夢だったのではないかと勘ぐってしまうほど、樹は淡々と日々を過ごしていた。

「ふへー」

 鈴が授業終了とともに机に突っ伏し、弛緩し切った体を頭部のみで支えつつ、間の抜けた表情で明後日の方向を眺めていると、隣の席からささやかな苦情が飛んで来た。

「だらしない声出すなよ。こっちまで気が抜ける」

「気ぐらい抜いても良いでしょ。あたしは授業で疲れてんの」

「ほとんど寝てただろ」

 樹の目は冷ややかだった。

「明日、追試になっても知らないからな」

「はいはい。追試ね。……追試?」

 途端に真顔になる鈴。一時、周りの注目が集まるほど大仰に身を起こした彼女は、樹の方を凝視しながら声を震わせた。

「明日って、テストとかあったっけ?」

「数学と古文」

 樹が即答する。

 鈴は頭を鈍器で殴打されたような衝撃に見舞われると同時に、世界から音という音が消失して行くのを感じた。視界はぐにゃぐにゃと波立ち、自分がここにいる感覚すらも奪われて、意識がゆっくりと虚無の彼方へと吸い込まれてゆく。

「鈴」

「……はっ!」

 樹の面倒臭そうな声が、フェードアウトしつつあった鈴の意識を引き戻した。身から出た錆で地獄の瀬戸際に立っている鈴に対し、やがて彼は慰めとも励ましとも付かない言葉を寄越す。

「別にテストは今日じゃないだろ」

「え?」

「だから、今からでも頑張れば――」

「無理」

「? なんで?」

「何から手付けたら良いか分かんないし、むしろ何も分かんない」

 包み隠さず、堂々と告白する鈴。今度は樹が真顔になった。

「それでよく進級出来たな」

 手厳しいが、当たり前と言えば当たり前の感想だったので、反論はやめておいた。そんなことより、今はいかにテストを乗り越えるかを考えなければならない。

 鈴は悩んだ。いつも勉強に付き合ってくれている幼馴染みは、ここ数日体調を崩して欠席している。かといって、クラス替えが終わったばかりのこの教室内にも、現時点で当てはない。

 時間を掛けて悩みに悩み、悩み抜いた末に、鈴は呆気なく失意の底に沈んだ。

「詰んだ……」

 樹の視線は既に鈴にはなく、例に漏れず窓の外を向いている。しかし、意外にもその視線は、すんなり鈴の方へと戻って来た。

 樹が何を思ってそうなったのかは、すぐに判明した。

「……教えようか? 勉強」

 やや控え目な姿勢で、樹は再び口を開いた。

 持ち掛けられた思わぬ提案は、鈴の胸を占めていた悲嘆の一部を取り払った。聞き間違いを疑う程度には面食らっていた鈴は、目を瞬かせながら、彼の発言の裏を取るように聞き返した。

「良いの? ほんとに?」

「放課後、仕事が入ってなければだけど」

 幸い、聞き間違いではなかったらしい。

 失意から一変。ふつふつと湧き上がり、溢れ出した希望が、はち切れんばかりの活力を鈴に注ぎ込んだ。

 感極まり、血気盛んに固い握手を求めて伸ばした鈴の手は、樹にあっさり無視された。


 * *


 時刻は夜の十時を過ぎた頃。珍しく自室の学習机に向かっていた鈴は、珍しく持ち帰った教科書とノートをぼんやりと眺めていた。が、内容は右から左へ抜けて行く一方だった。

「ふへー」

 げっそりとした顔。零れる腑抜けた声。原因は、学校で蓄積された疲労に他ならない。

 表紙に名前を記しただけだったノートに、今は数ページに渡ってぎっしりと数式が書き込まれている。それらは全て今日の放課後に書いたものであり、樹の指導の結果だった。鈴が短いテスト範囲の六割ほどを頭に叩き込むことに成功したのは、彼のお陰だ。

 しかし、予想だにしなかったスパルタに泣き言を言ったのは一度や二度ではなく、ようやく解放されて帰路に就いた頃には、鈴は母親に心配されるほどのボロ雑巾と化していた。

「あー、駄目。集中出来ない」

 長い嘆息とともに、鈴は立ち上がる。気晴らしになるかは分からないが、飲み物でも買いに行こうと思ったのだ。

 入浴時に下ろした髪を低位置で纏め、薄手のカーディガンを羽織る。財布とスマートフォンを入れたポーチとペンライトを手に、鈴は寝ている母親を起こさないよう、こっそりと自宅を出た。

 多くの店舗がシャッターを閉めた夜の下町は、街灯があるとはいえ、決して明るくはない。ペンライトで道を照らしつつ、鈴は最寄りのコンビニを目指す。コンビニはすぐに見えてきた。

 コンビニを目前にして、鈴の足が止まる。

 が聞こえた気がした。ぎょっとしてそちらを振り向くと、道路を挟んだ向かいにある公園に違和感を覚えた。

 何がおかしいかも分からない。でも、何かが確実におかしいという、自分でも説明が出来ない確信があった。その違和感に、鈴は覚えがあった。だ。

 二度目の悲鳴。鈴の意識が全部そちらへ向かってしまった今、もう耳を澄ます必要もなかった。例の如く、鈴以外に気付いている者はいない。ならば、やることは一つだ。

 はやる気持ちを抑え、左右を確認した後に、スマートフォンを取り出す傍らで道路を渡る。公園内は既に消灯しているものの、周辺の道路灯や屋外灯の光が僅かに届いており、幸いにも全くの暗闇という訳でもなかった。

 足早に道路を渡り切り、間もなく公園の入口に立った鈴は、緊張で冷や汗が滲むのを感じながら、慎重に中の様子を窺った。

 公園のほぼ中心部に、人がうつ伏せに倒れている。どうやら男性のようだ。鈴は小刻みに震える足を内心で叱咤し、そろりそろりと男性の方へ近付いて行った。

 男性の体をペンライトで照らした瞬間、鈴は息を呑んだ。

 男性は、肩口から腰にまで及ぶ大きな切り傷を負っていた。とても浅いとは言えないこの傷は、今もなお大量の血を吐き出し続け、血溜まりを広げ続けている。生きているとは、到底思えない。

 後ずさり、辺りを見回す。死神の姿はない。まだ到着していないのか、或いは――魂はもう回収された後なのか。どちらにせよ、悠長に迷っていられる状況でないのは確かだった。

「鈴!」

 電話を掛けようとした鈴の肩を、何者かが掴んだ。突然のことに飛び上がり、顔を上げた鈴の目の前に、樹が立っていた。彼は藍色のオーバーコートを着用し、大鎌を手にしている。

「宇野君……?」

 樹のただならぬ様子が、鈴の胸をざわつかせた。樹の表情からは明確な焦りの色が見て取れ、死神である彼にとっても、由々しき事態が生じているのは疑いようがなかった。

「鈴。すぐにここを離れるんだ」

「え?」

「それから、今回は通報しなくて良い」

「……どういうこと?」

 早口で発せられた台詞は、いずれも鈴の理解に余るものだった。

「説明なら後でする。今はとにかく――」

 樹が言い終えるよりも先に、滑らかな女の笑い声が風とともに流れ、空気を満たした。単なる笑い声ではない。その声が冷笑の類だと、鈴は瞬時に確信した。

 どこまでも冷たく、人を嘲る笑い。滲み出るおぞましい悪意は、鈴に背筋が凍るほどの気味の悪さと不快感をもたらした。

 声の主を探るが早いか、前方の木の上から何者かが降り立った。慌ててペンライトを当てると、黒いオーバーコートを着た女と、大鎌が夜の闇に映し出された。

 にわかには信じがたい光景に、鈴は目を見開いた。

「なんで……」

 真っ赤な大鎌と、先程目撃したばかりの男性の死体が、鈴の中で完全に符号した。ショックで振動を伴った声は、止まらない。

「どうして、?」

 ここで、鈴の様子をしげしげと見ていた女が口を開く。

「死神の中にも、人間を守る変わり種がいるのね」

 樹のことを言っているのは分かったが、当の樹は無言だった。彼は女の言葉を黙殺し、再び鈴を促す。

「早く行って」

「っ、でも……宇野君は? 宇野君はどうするの?」

「あの死神をする」

 底冷えするほど静かに告げた後、樹は鈴の前に進み出た。

 大鎌をかざし、臨戦態勢に入った女と向かい合う樹の後ろで、鈴は暗鬱の渦中で悟った。今は、彼に従うしかないのだと。


 * *


 公園を脱出し、二人の死神の死角に身を潜めて早々、鈴は糸が切れたように地べたに座り込んだ。全身から力が抜けていた。

 膝を抱え、鳴り響く戦いの音を茫然自失の体で聞く。暫く動けそうにもなかった。ぐちゃぐちゃになった頭で、取り留めのない思考をただ反すうする。

 人間が死神に殺されたという、一週間前に樹がしてくれた話とは噛み合わない現実。その人殺しの死神と樹が、対立して戦っている現実。――樹が殺されるかも知れない現実。

 突き付けられた恐ろしい現実の数々に、鈴は身を震わせ続けた。



【To be continued】

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