第5話 菫色の死神

「そこで何をしている?」

 膝を抱えて震えていた鈴に、声を掛ける者がいた。余りに静かで抑揚のないその声には、他者を拒むような冷たい響きがあった。

 纏わり付く不安に、思考力をあらかた取り上げられていた鈴は、呼ばれるがままに蒼白な顔を上げる。彼女の瞳は間もなく声の主の姿を捉えるが、それは彼女の胸に渦巻いていた不穏に、更なる混乱をもたらす結果となった。

「え……宇野君?」

 目の前の少年は、冷ややかさすら感じさせる虚無的な表情で、鈴をじっと見下ろしていた。

 樹と全く同じ顔で、全く違う空気を纏ったこの少年に、鈴は尋問でもされている心地になったが、雑然とした感情に掻き乱され、答えることは叶わなかった。しかし、少年は今し方の鈴の呟きで何かを察したのか、真一文字に結んでいた口の端を僅かに吊り上げ、薄ら笑いを浮かべた。

「なるほど」

 一人で納得すると、少年は早々と鈴から視線を外した。彼は鈴の前を横切りるも、程近い死角に立つと、素知らぬ顔で居座る姿勢を見せた。公園と歩道を仕切る壁に背を預け、彼は空を仰ぐ。

 そんな謎の少年の姿に、突然の変化が生じた。少年は大鎌と寒色のオーバーコートを身動ぎもせず装備し、死神の姿に変じた。文字通り一瞬の変化で、あの瞬間に瞬きをしていれば見られなかったのは間違いなかった。

「死神……?」

「そうだが?」

 唇だけを動かし、死神は答えた。

 戦いの音は続いている。こうしている間にも、樹は自らの身を危険に晒している。音はこの死神にも聞こえている筈なのに、唯一現状を打破し、樹を助けられるかも知れない彼が微動だにしないことに、鈴は苛立ちすら覚えた。

「っ、ちょっと!」

「なんだ?」

 死神がようやくこちらを見る。戦いに参加する訳でもなければ、人間の鈴に何かする訳でもない。立場も目的も分からないこの死神は不気味だったが、なりふり構ってはいられない。

「死神なら、早く宇野君に加勢してあげてよ! このままじゃ――」

「専門外だ」

 死神は腹立たしいほど落ち着いた顔で、鈴が一縷の望みを懸けて発した懇願を一蹴した。しかし、それは鈴が想定していた断り文句とは違っていた。死神は更に言う。

「死神にも適材適所というものがある」

 どういう意味かと問おうとした時、戦いの音が止んだ。

 鈴は衝動のままに立ち上がり、縺れる足で再び公園内へと駆け込んでいた。もう他のことなど気にしてはいられず、とにかく樹の安否を確認することで、彼女の頭の中は埋め尽くされていた。

 舞い戻った公園には、血塗れで横たわるあの女の死神と、それを静かに見下ろす樹がいた。

 樹は無事だった。けれど、体の至る所に血を浴びている。これが彼の怪我によるものなのか、いわゆる返り血というものなのか、夜闇では判断が付かなかった。

「……鈴?」

 樹がこちらに気付き、顔を上げる。鈴は彼の下に駆け寄り、すぐさま怪我の有無を確かめようとしたが、そうするよりも先に現れた理解を超える事象に、思わず息を呑んだ。

 樹の体や大鎌に付着していた血が、見る見る内に薄まっていく。彼は何もしていない筈なのに、血はもうほとんど視認出来ない。

 樹の目線が、再度下方に落ちたのが分かった。鈴は彼の視線を追い、また驚くこととなった。

 倒れていた女の死神の姿が

 今し方の血と同様に、女の死神の体はあらゆる色を失っていき、やがて霧が散るように消えた。彼女がここに存在していた証明となるものは、血の一滴さえも残されなかった。

「死神が死ぬとこうなる」

 樹が言う。

「肉体も魂も消滅する。人間みたいに転生することもない。死ねばそこで終わりなんだ」

 淡々と語り終えた樹の表情が、僅かに歪む。

「宇野君?」

 大鎌を持ったままの手を、樹は自らの左腕に押し当てているようだった。悪い予感がしてペンライトを向けると、彼の腕に残る血がはっきりと照らし出された。

 無論、返り血ではない。血は樹の腕の傷口から流れ出ている。かすり傷の範疇を超えているのは、出血量を見るだけで知れた。

「宇野君……っ、怪我してるじゃない!」

「大丈夫だよ」

「どこが大丈夫なの!」

 樹の怪我は明らかに看過出来るものではなく、痛みを感じながらも平然としている彼に、鈴の口調は更に荒くなる。

「そこをどけ」

 先程公園の外にいた死神の無機質な声が響く。音もなく鈴に追い付いた彼は、振り返った鈴に無機質な瞳を向けていた。

「! さっきの変な死神」

「こんな所にいる人間に言われなくはないな」

 鈴の皮肉を冷ややかにかわし、死神は樹と向かい合う。何か言いたげにしている樹を見据え、口を開く。

「ユピテル」

「メ、メルクリウス。この子は、その……」

「知っている」

「え?」

 樹の心を見透かしたように、メルクリウスと呼ばれた死神が悠々と言い放った言葉は、樹のみならず鈴にまで戸惑いをもたらした。

 メルクリウスは言う。

「マルスの奴が言い触らしていた。お前が性懲りもなく人間に見付かったとな」

「……あのお喋り」

 樹が恨めしげに独りごちる。鈴の脳裏に、一週間前に会ったあの長身の死神の姿が蘇った。しかし、それも束の間だ。

「って、そんなことより、宇野君の怪我を……!」

「言われなくても分かっている」

 ペンライトの明かりによって鮮明になった菫色のオーバーコートを夜風になびかせながら、メルクリウスはおもむろに大鎌の先端を樹の傷口へ向けた。意図をはかりかねていた鈴の前で、彼の大鎌が菫色の光を纏う。光は間もなく樹の傷に伝播し、自然法則を無視した治療を開始した。

 まるでテレビや動画の逆再生を見ているようだった。樹の腕を伝っていた血があっという間に傷口へ戻って行ったかと思うと、その傷口もたちどころに浅くなり、やがて痕跡もなく消滅した。気付けば、樹の腕は完全に怪我をする前の状態に回帰していた。

「……嘘?」

「嘘に見えるか?」

 樹の腕の時間のみを巻き戻したメルクリウスは、呆然とする鈴を放置し、女の死神によって殺害された男性の死体に歩み寄った。

 死ぬ必要などなかったのに、たった一人の悪い死神のせいで死んでしまった男性。彼は人知れず、ここで孤独に死んでいる。

「宇野君、さっき通報しなくて良いって言ってたけど……。あの人はどうなるの?」

 鈴が樹に問う。樹はすぐに応じた。

「今回の彼の死は、死神の掟に背いた反逆者によって引き起こされた。本来は起こる筈がなかったんだ。今回の件は死神こちら側の落ち度に過ぎない。だから――」

 一拍置き、樹は言う。

「彼の死を

 メルクリウスの大鎌が纏う光が、男性の死体を覆い尽くした。


 * *


 意識こそ戻っていないものの、男性の呼吸は安定していた。外傷から飛び散った血に至るまで、何もかもが元通りになっていて、ここが殺人現場だったのが悪い冗談のように思えてくる。

「じきに目を覚ますだろう。その前に帰っておけ」

 メルクリウスが鈴に忠告する。

「ああ……うん。そうだね」

 返事はするが、心なしか鈴は浮かない顔をしていた。語調からはいつもの精気が感じられず、くたびれた様子が窺えた。

「鈴?」

「んー?」

 声を掛けてみると、くたびれたままの声が返って来た。

「具合でも悪い?」

「ていうか、疲れたの。今日は色々あり過ぎて。もう頭パンクしそう。パーンってなりそう」

「……そう」

 分からなくはなかった。死神による殺人といい、死者の蘇生といい、人間に馴染みなどある訳がないのだ。

「家は近く?」

「すぐそこー」

「なら良かった。気を付けて帰れよ」

「んー、また明日ねー」

 最後まで気の抜けた声と動作で、鈴は手を振りながら回れ右をした。陸亀さながらの足取りで去って行く彼女の背中を見送っていると、無表情に黙していたメルクリウスが、不意にこちらを向いた。

「樹」

 今度は本名で呼ばれた。メルクリウスは依然として無表情だったものの、今は何故か棘のようなものを感じた。

「……なぎさ?」

 杞憂に終わるかも知れない。しかし、違和感が微弱な分、正確な判断は難しかった。

「分かっているとは思うが、いま一度言っておく」

 メルクリウス――宇野渚は、無機質な双眸を僅かに細める。

「余り人間と馴れ合うな」

「!」

 目を見開く樹。言葉も出なかった。

 そんなつもりはなかった。なかった筈なのに。

「下手に深入りすれば、あとで泣きを見ることになるぞ」

 なんの言葉も紡ぎ出せないまま、ただ渚の話を聞く。

「所詮、我々は既にだ」

「……分かってる」

 血の気の引いた顔を伏せ気味に、微かに唇を震わせながら、樹はようやっとの思いで頷き返した。

 樹が返事をした後も、渚は暫し見定めるようにこちらを注視していたが、程なくして無言で視線を外すと、静かに踵を返した。

「帰るぞ」

 渚は無感動に言い、樹を待たずして来た道を戻り始めた。

 遅緩に足を踏み出しながら、樹は言われたばかりの言葉の数々を反すうする。思いのほか尾を引いていて、更に気が重くなった。

 このもやもやした感情がいずれ綺麗さっぱり晴れてくれるのを、今は願うしかなかった。



【To be continued】

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