第3話 死神の仕事
「宇野君、歩くの速すぎ!」
交差点で赤信号に引っ掛かっている樹を発見した鈴は、これ幸いと距離を詰め、彼の真後ろに立つことに成功した。
樹は呆れ返った視線だけを寄越し、鈴の文句に冷静に反論した。
「鈴には関係ないだろ」
「関係あるって! 見失ったらどうすんの」
「何を?」
「宇野君を」
「は?」
樹が目を瞬かせる。鈴の発言の意味を図りかねているようだ。
「家がこっちなんじゃ……」
「全然違うけど? 宇野君に付いて来ただけ」
「……なんで付いて来るんだ?」
「死神の仕事に興味あるから」
しれっとした顔で言い切る鈴。樹は白けた様子で、ふいっと前方に視線を戻した。信号が変わり、横断歩道を渡り始めた後も、温度差の埋まらない二人の会話は継続された。
「興味本位で来られても困るんだよ」
「大丈夫大丈夫。見るだけだし」
「良いから帰れよ」
「邪魔はしないから」
「どうだか」
しかし、含みのある言葉と溜息を吐き出したきり、樹は喋るのをやめた。割とあっさり引き下がった彼に、鈴は拍子抜けすると同時に違和感を覚えた。
違和感の正体を確かめる時間はなかった。横断歩道を渡り終え、次の歩道に入って間もなく、樹の足が緩やかに停止した。彼は店舗が立ち並ぶ歩道左側に佇み、歩道全体を見回している。
鈴はある可能性に思い至る。早々に樹の正面に立ち、尋ねた。
「ここ?」
「そう」
この歩道で人が死ぬ。樹はそれをすんなり認めると、引き続き歩道を注視した。
歩道には行き交う老若男女を始め、コンビニやカフェに出入りする会社員や学生達、バス停のベンチで本を読んでいる女性などが見受けられるものの、現時点で異常があるようには思えない。誰に何が起きるのか、窺い知るのは容易ではなかった。
「どの人が?」
「絶対教えない」
樹に聞いてみたが、にべもない。
「え、なんで?」
「助けにでも入られたら迷惑だから」
「そんなこと――」
「しないって言い切れる?」
樹が僅かに声を低くする。今の彼に表情と呼べるものはなく、不自然なまでの沈着ぶりが、若干の気味の悪さを醸し出す。
「見殺しにする覚悟はある?」
悠然と発せられた言葉の意味を考える暇もなく、耳をつんざくほどの轟音が響き渡った。瞬間、鈴は樹に腕を掴まれ、問答無用でそちらに引き寄せられた。そのまま樹の肩口に顔をぶつけ、衝撃と一瞬の強い痛みに短い悲鳴が零れる。
轟音が止んだ。轟音と入れ替わるようにして、幾つもの絶叫が空気を揺さぶり始め、鈴は反射的に後ろを振り返った。
「死神の仕事を見るっていうのは、こういうことだよ」
樹の声が、酷く遠くに聞こえる。
歩道に突っ込み、横転した軽トラック。破壊されたバス停。路上に倒れている負傷者達。そして、軽トラックの真下に広がる大量の鮮血。近くに落ちている血塗れの本が、なんとも生々しかった。
呆然と立ち尽くす鈴。止まっていた思考がゆっくりと回り出し、少しだけ冷静になった頭が、徐々に現状を理解していく。
樹が手を引いてくれていなければ、自分も巻き込まれていたかも知れない。這い上がる恐怖と、むせ返るような強烈な血の臭いに顔を顰めていると、視界の片隅で樹が動いた。コンビニと携帯ショップの間に伸びる細い路地へ入って行く樹を、鈴は慌てて追った。
遅れを取って路地に入った時、既に樹の姿に変化が生じていた。制服の上にあの藍色のオーバーコートを羽織り、大鎌を手にしている。どこから出したのか、いつの間にこうなったのかは分からない。だが、彼がこの姿になった意味は、流石にもう分かる。
「いるなら後ろにいて」
「! わ、分かった」
今は従うしかなかった。言われるがままに後方から様子を見ていると、樹は静かに大鎌を振り上げ、軽トラックに――いや、軽トラックの真下に刃先を定めた。
振り下ろされた大鎌が藍色の光に覆われていたことも、藍色の光が流れ星のように軽トラックの真下へ流れて行ったことも、鈴達以外の誰もがそれに気付いていないことも、鈴の知識では説明が出来ないものばかりだった。
軽トラックの真下で、何かが白く光った。光は軽トラックの真下をゆらゆらとくぐり抜け、まっすぐにこちらへ飛来している。その光体を良く見ようと、鈴はじっと目を凝らした。
「蝶々?」
蝶の形をした謎の白い光体。戸惑う鈴を知ってか知らずか、樹はオーバーコートのポケットから手の平サイズの大きなペンダントを取り出すと、目の前までやって来た蝶の方へと差し出した。
ペンダントにはいわゆるゴシック調の紋様が描かれており、この紋様の外側を一周する外形で、どこかの国の文字がぎっしりと書き込まれている。そんな風変わりなペンダントに吸い込まれるかの如く、蝶は紋様の中心に止まって消えた。鈴には、蝶がペンダントの中に入って行ったようにしか見えなかった。
「これで懲りただろ」
蝶を収めたペンダントをポケットに仕舞いながら、樹は言った。
「魂の回収だけが死神の仕事じゃない。死が決まった人間の最期を見届けるのもまた、死神の仕事なんだ」
言い返せなかった。
その気になれば救えたかも知れない命を見捨て、見殺しにした罪悪感は、鈴の想像以上に胸に重くのし掛かった。運命を私情でねじ曲げられない理屈は分かるが、理屈と感情は全くの別物だ。
「あ、いたいた。おーい、ユピテル!」
間延びした声は、鈴達の頭上から降って来た。
突然の場違いな声に驚いた鈴は、咄嗟にこの声の主を探した。程なくして、彼女は携帯ショップの屋根の上に黒い人影があるのを見付け、その姿に再び驚かされることとなった。
身を屈め、こちらを見下ろしていた人影は、一度立ち上がったかと思うと、躊躇いなくこちらへ向かって飛び降りた。しかし、単なる飛び降りとは一線を画している。あたかも花弁が舞うような緩やかな下降で、明らかに重力を無視している。
舞い降りた人影は死神だった。樹のものとは異なる、ほとんどの人間が死神と聞いて想起する黒のオーバーコート。樹のものと同じ大鎌とペンダント。これらを一式を身に着けた長身の男性が、鈴達の前に立っている。
「いやー、なかなか凄い現場だね。死者が一人だったのは、不幸中の幸いだけど」
「そうだね」
「魂は回収した?」
「うん」
緊張感に欠けた男性の言葉に、樹は淡々と応じる。しかし――。
「ところでさ、ユピテル」
樹をユピテルと呼ぶこの男性の興味は、間もなく鈴へと移った。それは鈴の主観でも時間の問題だったが、樹はとても苦い顔になっていて、視線も既に男性から大きく外れている。
男性は元より細い目を更に細くし、鈴を見据えながら樹に言った。
「また人間に見付かったね?」
「……」
完全に黙る樹。その沈黙は当然肯定と受け取られ、彼は男性からデコピンを喰らう結果となった。
「あのー」
口元だけはずっと笑っている男性に、鈴は恐る恐る声を掛けた。
「ん? 何?」
「あんまり宇野君を責めないであげて。あたしも勝手に付いて来て迷惑掛けちゃったし……。それに、さっき助けて貰ったから」
理由になっていない気もするが、助けられた人間として、何も言わないでいるのは憚られた。
「へぇ、そうなんだ」
鈴の話を聞き終えた男性は、緩慢な動作で樹に向き直ると、彼の頭にぽんと手を置いた。
「彼女もこう言ってるし、今日はこれで許してあげる」
大鎌を肩に担ぎ、男性は身を翻した。
「じゃ、戻ろうか。上に報告しないと」
「……うん。行こう。マルス」
樹がマルスと呼んだ男性は、一足先に今朝の樹さながらの非常識な跳躍を披露すると、一瞬で屋根の上へと消えてしまった。鈴は、残された樹もすぐに彼の後に続くものだと思った。
ところが、実際はそうはならず、樹はいま一度鈴を振り返った。彼が僅かに湛えた微笑みは、酷く優しげで、寂しげだった。
「宇野君?」
「有難う」
樹がくれた想定外の言葉が、やけに鈴の心に響いた。返事も出来ないまま目を丸くしていた鈴に、彼はゆっくりと背を向けた。
「また明日、学校で」
こう言って、樹は今度こそマルスに続いた。
結局、何も返せなかった。周囲の喧騒をぼんやりと聞きながら、鈴は今し方までここにいた死神達に思いを馳せる。
今日一日で、色々なことがあった。人の死に触れ、死神と言葉を交わした。この感情をなんと呼ぶのか知らないが、きっと一生忘れることは出来ないだろう。
未だ関係者や野次馬でごった返していた歩道から、空を仰ぐ。沈み掛けた夕日が眩しかった。もうすぐ夜がやって来る。
【第1章 End】
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