第10話 死者の話[前編]
プルトンという死神の言葉に、鈴は胸を抉らるような痛みを覚えた。しかし、現状はそれを省みることすら後回しにせざるを得ないほど、予断を許さないものだった。樹もプルトンも既に互いに負傷している。時折、目を背けたくなる瞬間すらあった。
「何故ここに来た?」
後ろにいる鈴にいつから気付いていたかは定かでないが、渚がこちらを見ないまま抑揚のない声を投げてきた。ぎくりとした。交錯する感情を抑え、少し躊躇ってから、鈴はおずおずと答えた。
「心配だったから」
具体性に欠いている自覚はある。黙っている渚に対し、鈴は言い訳するように言葉を足した。
「そりゃ、何も出来ないけどさ……。樹君は大事な友達だから」
渚が静かに振り返る。今日になって初めてまともに鈴の顔を見た彼の表情はやはり虚無的で、何を考えているかは分からなかった。
「そうか」
てっきり皮肉の一つでも言われるものだと思っていたが、意外にも杞憂に終わった。鈴の言葉は肯定も否定もされず、渚に受け入れられた。質問の意図は知れないものの、少し面食らった。
樹の呻きが聞こえて、弾かれたように視線を戻す。吹き飛ばされた樹が背中から塀に叩き付けられ、膝を突く姿が視界に飛び込んで来ると、鈴は息を呑み、思わず悲鳴に近い声を上げていた。
「樹君っ!」
「!」
樹が目を見開く。彼はこちらを向いて、慌てた様子で口を開く。
「鈴、どうして――」
しかし、樹が言い終える間もなく、プルトンが動いた。
「……人間?」
それはうわ言に似ていた。プルトンはゆっくりと首を動かし、その精気のない虚ろな眼が鈴を捉える。間もなく、何かに取り憑かれでもしたようにふらふらと横揺れに歩き出した彼の足は、間違いなくこちらに向かっていた。血が凍る思いがした。
プルトンが徐々にこちらと距離を縮める。大鎌を突いて立ち上がった樹が、傷付いた足を引きずりながら彼を阻止しようと動く。だが、あの分では間に合わない可能性があった。
渚は戦うことが出来ない。何より、プルトンを刺激してしまったのは自分だ。鈴は震える手で重いショルダーバッグを握り締める。心臓は早鐘を打ち、喉はカラカラになっている。
他に何も考えられないほど無我夢中だった。間近まで迫ったプルトンに、鈴は手にしたショルダーバッグを力の限り投げ付けた。明らかに正常な判断力を失っていたプルトンは、回避もままならず、鈍い衝突音と共にバランスを崩した。
動きが止まったプルトンの背に、樹の大鎌が辛うじて届いた。アスファルトの上に倒れ込んだプルトンの手を離れた大鎌が、光を失い、僅かに遅れてその傍らに落ちた。
それを視認するなり、鈴は深く長い安堵の息を吐き出した。緊張の半ばほどが取り除かれたことにより、足からはすっかり力が抜けてしまい、へなへなとその場に座り込んだ。
倒れたきり動かなくなったプルトンに、樹が再び大鎌を向ける。プルトンは起き上がろうともせず、大鎌も手放したままだ。どこを見ているかも分からない暗い瞳からは、先ほどの狂気も、これ以上の抵抗の意思も窺えない。憑き物が落ちたように大人しくなったプルトンは、樹を見上げ、弱々しく哀願した。
「やるなら早くしてくれ。……早く楽にしてくれ」
一切の抵抗をやめ、樹に託して瞼を閉ざしたプルトンは――もしかしたら、最初から勝つ気などなかったのかも知れない。
樹の大鎌がより一層強い光を纏う。樹は振り上げた大鎌の切っ先を小刻みに震わせながら、かつての仲間に最後の言葉を掛ける。
「ごめん」
大鎌が振り下ろされた。プルトンの姿は少しずつ霧散して行き、やがて血の一滴も残さず消滅した。たった今まで彼がいた場所に陰った眼差しを向けていた樹の下に、渚が歩み寄った。
「怪我を見せろ」
樹がはっと顔を上げる。彼の慌てて取り繕う様は、やはり見ていて痛々しいものがあった。
渚の手中の大鎌の先が、樹の負った傷へと定められる。大鎌が菫色の光を宿し、複数箇所に及ぶ傷をたちどころに治療していく。全ての傷が完治した時、鈴はようやく心より安堵することが出来た。
「有難う。渚」
樹に礼を述べられても、渚は鼻を鳴らすだけだった。
渚が一人死体の方へと歩いて行った後、樹の目がまっすぐに鈴を捉えた。樹は緩やかに身を屈め、鈴に目線を近付ける。
「鈴」
「? 樹く――いひゃい!」
いつになく剣呑な顔をした樹に頬を引っ張られ、鈴は間抜けな悲鳴を上げた。
「心臓に悪い」
「ふひみゃへんれした!」
埋み火のように静かな怒りを向けられ、凍り付く。ある意味普通に怒られるよりも怖い気さえした。震えおののきながら実行した死にもの狂いの謝罪が功を奏し、解放された時は心底ほっとした。
「立てる?」
不覚にも若干顔が火照るのを感じつつ、樹に差し出された手を取り、立ち上がった。ショルダーバッグを拾い上げ、肩に掛け直していると、渚がこちらへ戻って来た。
「用事は済んだ。長居は無用だ」
「うん。戻ろうか」
樹達が袋小路から背を向ける。
鈴は迷い、悩んだ末に意を決した。筈だった。
「さっきの死神の話……」
二人が鈴を見る。渚は言うに及ばず、樹も不思議と落ち着いた様子だったが、こうして面と向かってしまうと、出掛かった言葉は完全に止まってしまった。本当はあの話の真偽を尋ねたかったのに、出来なかった。尋ねる勇気は容易に挫かれてしまった。
「ごめん。やっぱり今のなし」
発しようとした言葉は取り消した。すぐにでも話を変えようと、鈴は咄嗟に何かしらの話柄を探した。樹と渚の後ろに、黒いオーバーコートを身に付けた死神の男性が舞い降りるまでは。
「なんの話してんの?」
突然の登場を果たした男性は、鈴達からそれぞれ戸惑いや驚き、苛立ちの眼差しを向けられてもどこ吹く風だった。彼はふと周囲を見渡し、渚によって蘇生された人間が倒れているのを認めると、少しだけ残念そうに嘆息を漏らした。
「こっちも粛清になっちゃったか」
「じゃあ、マルスの方も……?」
「まあねー」
男性が樹の問い掛けを肯定する。この頃には、彼は既に飄々とした調子を取り戻していた。
鈴はこの死神の男性を知っていた。一度だけ会ったことがある。樹からマルスと呼ばれ、樹をユピテルと呼んでいたこの長身の死神は、前にも樹が担当した現場に現れた。
「ところで、君も来てたんだね。鈴ちゃんだっけ?」
「ど、どうも」
来ていたこと自体には突っ込まれなかったものの、渚とは別の意味で考えの読めないマルスに正面から見据えられると、必要以上の緊張を強いられてしまう。若干やりづらかった。
「それで、なんの話? 結構真面目な顔してたけど」
ずかずかと入って来ようとするマルスに気圧される。どう応じるべきか思い悩んだ。正直に答えるにしても、内容が内容だ。直接的な表現はどうしてもはばかられた。
「……死神がどうやって死神になったか」
迷った末に、鈴は可能な限り言葉を濁した。
自ら命を手放した人間が死神になったという話。そして、樹や渚もその一人だということ。にわかには信じられなかった。
散々迷いながらもごもごと答えた鈴だったが、マルスは拍子抜けしたとばかりにきょとんと目を丸くした。そんな彼の反応を目の当たりにした鈴も、図らずも彼とほぼ同じ状態になった。
「ああ、そんなことか」
「え?」
余りの軽さに、鈴は言葉を失った。
「ちょっと意外かも。ユピテルのことだから、これぐらいとっくに知られてると思ってたよ。だってユピテルだし」
「強調しなくて良いよ……」
樹が恨めしげにマルスを睨むも、マルスはそれを聞き流した。
「ま、死神のことはもう知られちゃってる訳だし、今更隠すようなことでもないしね。聞きたいなら教えてあげる。ただ――」
誰かが唸る声が聞こえる。声は倒れていた人間のもので、今にも目を覚ましそうに見えた。
「場所は変えた方が良さそうだね」
マルスはそう言って、鈴達を視線で促す。話はいったんここで打ち切りとなった。
三人の死神達と共に路地裏を離れながら、鈴はちらりと樹を窺った。そこにはいつもと変わらない樹の横顔がある。目が合うと、樹は微かに寂しそうに微笑んだ。
鈴にとって、樹は大事な友達だ。しかし、思い返してみれば、自分は樹のことをほとんど何も分かっていなかった。今日だけで、その現実を痛いほど思い知らされた。
【To be continued】
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