第16話 死神と少女の災難[前編]
タクシーで赴いた夕刻の雑木林で、藍色のオーバーコートを着た樹の後に続きながら、鈴は周辺の様子をこわごわと窺っていた。
見渡す限り草木しかなく、自分達の足音くらいしか聞こえないこの場所で、今から人が亡くなるとは考えづらかったが、樹がこうして魂の回収にやって来た以上、何かは起こるのだろう。しかし、本当になんの前兆も見付けられない。不気味なほど静かだ。
「ねぇ、本当にこんなとこにいるの?」
「うん」
「ていうか、どうしてこんななんにもない場所で?」
「……」
樹が答えてくれないので、鈴は自ら思考を巡らせてみる。
車とも人とも擦れ違わないこの雑木林で、間もなく誰かが亡くなる。可能性として濃厚なのは何か。やがて、鈴はあることに思い至り、いつも以上に青ざめることとなった。
「ま、まさか、殺じ――」
「違う」
樹が淡々と否定する。が、やはり答えは話さない。
樹の歩みは、それから程なくして止まった。少し開けた場所だった。彼の視線はやや上方を向いている。四本の木の枝からそれぞれぶら下がっている遺体を、彼は言葉もなく見詰めている。
鈴は双眸を大きく開いた。酷く動揺していた。
「これ、は……」
「……うん」
まだ身元も知られていない四体の遺体を二人で見上げる。はっきりとは窺えないものの、恐らく全員がまだ若い。
「もう死んでるの……?」
鈴に問われると、樹は静かに頷いた。
「
藍色の光を纏った大鎌を操り、樹は四人分の魂をペンダントに収めた。ペンダントをポケットに仕舞い、彼は呟くように言う。
「……僕は彼らを否定したくない。そんな資格もないけど」
樹は過去に一度だけ、鈴の前で死について語ったことがある。
『自分が死んで分かったのは、死が救いとは限らないってこと。少なくとも、僕にとっては違ったから』
樹はそう語っていた。自分が死後を生きる死者であることをどう思っているのか。自分が死神であることをどう思っているのか。それがこの言葉に集約されている気がして、いたたまれない気持ちになったのを今も明瞭に覚えている。
「樹君」
「ん?」
雑木林を引き返す途中、鈴はおもむろに樹の手を握った。きょとんとしている樹に、彼女は笑い掛けながら言った。
「なんとなく」
「……なんだよ、それ」
表情の消えていた樹が、小さく吹き出す。
言葉少なに二人で出口まで行き着いた時、見計らったかのように樹のスマートフォンが鳴った。樹は人目を避けて立ち止まると、短いの通話を済ませ、鈴に向き直る。
「ウラヌスに魂を届けたら、もう一件行く」
「そうなの? じゃあ――」
「付いて来るなよ」
「えー……なんで?」
不満げな鈴に、樹は抑揚のない声で答えた。
「戦うから」
* *
樹を放っておきたくない。一人で苦しんで欲しくない。そんな想いが自己満足でしかないことくらい、分かっているつもりだった。自分が人間で、ごく普通の無力な高校生でしかないことも。
ウラヌスという上層部の死神からの情報を頼りに、鈴達はある裏通りを訪れていた。日没が近く、通りは仄暗い。人の姿は疎らで、この時間帯でも賑わっている表通りとは一線を画している。
「戦うって言っただろ。そろそろほんとに怪我するぞ」
いったん私服に戻った樹が、付いて来た鈴に向けて、早速お小言を言ってきた。が、鈴は折れない。
「大丈夫。遠くから見守って、心の中で応援するだけだから」
「……」
しれっと答えた鈴を、樹が一度だけ振り返った。完全に諦めの顔をしている。こうなったら意地でも付いて来る鈴の頑なさは、既に彼の知る所となっている。
「僕は藍色だから、怪我しても治してやれないからな」
「分かってるって。……ん? 藍色だから?」
樹の投げ遣りな台詞を受け流そうとして、違和感を覚える。しかし、説明を求める間もなく、樹は足取りを早め、街路樹の陰に佇む菫色のオーバーコートを着た少年の下に進んだ。
「メルクリウス」
渚と合流し、再び死神の姿に転じた樹は、自分達が立っている歩道の先を見て、僅かに驚いたように息を呑んだ。驚いたのは鈴も同じで、思わずこんな呟きを漏らしていた。
「道の真ん中なのに……」
人目も憚らない歩道の真ん中に人だかりが出来ていて、その中心部に年配の男女が倒れている。樹が渚に問う。
「あの人達が被害者?」
「そうだ。いま蘇生を済ませた」
素っ気なく応じた渚は、腕を組む傍らで、微かに眉を寄せた。
「ここまで堂々とやられると、身を隠すのも骨が折れる。人通りが多ければことだった」
「そうだね……」
樹が同意する。
死神のオーバーコートを着ている間は、本人とその周辺の気配が気薄になり、普通の人間からは認識されづらくなる。という話は聞いている。しかし、姿が見えなくなる訳ではないので、まともに相手の視界に入れば当たり前に気付かれてしまう。
樹は少しの間、探るように周囲に視線を這わせていたが、探していたものは見付からなかったようで、すぐに渚の方へ向き直った。
「犯人は?」
「既にこの場を離れた。面倒が増える前に
言いながら、渚はある一点を指差した。
「移動していなければ、今はあそこにいる」
示されたのは、人だかりの向こうに窺える工事現場だった。鈴の記憶が正しければ、マンションが建設中の現場だが、現在はまだ鉄骨だけが建っている状態だ。日曜のため、作業員はいない。
樹と渚が互いに目配せし、速やかにそちらへ歩き出した。人だかりを避け、足早に進む二人の背を追い掛けると、程なくして目的の現場に行き着いた。入口周辺に犯人らしき死神は見当たらず、大なり小なり奥まで進む必要がありそうだ。
一応罪悪感を抱いている鈴を横目に、樹も渚も立ち入り禁止のポスターとバリケードを躊躇いなく無視し、軽い身のこなしで現場に侵入して行った。仕事上やむを得ないとはいえ、普段は基本的に常識人であるこの二人の、こんな姿を見る日が来るとは思わなかった。
樹を先頭に、鈴達は現場を探索しながら進む。
樹は強い。今回もきっと大丈夫だ。けれど、また怪我をしてしまう可能性は否めず、こればかりは気掛かりだった。渚がいてくれてはいるが、無傷で済むのならそれが一番良い。樹には傷付いて欲しくない。せめて、怪我の心配だけでもなくなれば。
「樹く――うぐっ」
樹に話し掛けようとしたら、いつの間にか立ち止まっていた渚に首根っこを掴まれた。一瞬息が止まり、鈴は数回咳き込んだ。
「ちょっ……何すんの!」
「その目は節穴か」
冷ややかに言われて、渚の無感動な視線の先を見る。前方にいる樹の更に奥に、黒いオーバーコートを着た背中があった。大鎌に藍色の光を纏わせた樹が、そちらへ向かって地を蹴る。樹の気配を察した黒い背中が振り向き、舌打ちし、樹が振りかざした大鎌を自らの大鎌で受け止めた。それを皮切りに、戦いの音が響き始めた。
自業自得だったのはしっかり理解した。しかし、その上で腑に落ちないものがあり、鈴はぼそっと不満を漏らした。
「止め方が雑」
「うるさい」
不満は一蹴された。
薄闇の中で戦いが繰り広げられている。見通しが悪く、この距離では戦況が分かりづらいが、下手に動く訳にもいかない。今は樹の力を信じて待つしかない。
戦いの音は程なくしてやんだ。静寂が訪れたのが分かると、渚と共に樹の下へ向かった。倒した敵の消滅を見届けていた樹が、ゆっくりとこちらを振り返った。
「樹君。怪我は?」
「大したことないよ。手を少し切っただけだから」
「手?」
右手に異常はないので、左手を見る。手の甲に切り傷があった。傷は浅く、軽傷と分かった。無傷とはいかなくても、大事には至らなかったことに胸を撫で下ろす。
渚に治療を施され、樹の怪我は跡形もなく消えた。浅い傷だったためか、時間もさほど掛からなかった。
「有難う」
「……いちいち礼など要らん」
渚が無愛想に言い、樹から顔を背けた瞬間――鈴は見た。
樹の背後に死神が降り立った。禍々しい黒い光を纏った大鎌を振りかざし、狂気と嘲りを持って樹を見下ろすこの死神の存在は、鈴の頭の中にけたたましい警鐘を響かせた。
「樹君! 後ろっ!」
焦心と怖気が剥き出しになった鈴の叫びを聞いて、樹と渚が弾かれたようにそちらを向いた。が、遅かった。
大鎌が振り下ろされ、広範囲を切り裂かれた樹の体が大きく後ろに傾く。硬い地面にどさりと倒れ込んだ樹の傷口から溢れ出した血が、血溜まりとなって地面に染み込んで行く。一瞬、耳鳴りが聞こえるほどの静けさがこの場を支配した。
樹は蒼白になった顔を苦痛に歪め、浅い呼吸を繰り返しながら呻いている。瞼が徐々に落ちて行く中で、彼は残された力を振り絞るように、今にも消え入りそうな声で鈴達に訴えた。
「鈴、渚……逃げ……」
しかし、切れ切れの言葉は、最後まで続かなかった。瞳が瞼の裏に完全に隠れるのと同時に、樹の体は一切の力を失った。
止まっていた時が動き出す。頭の中が真っ白になって、気付けば悲鳴を上げていた。双眸はあっという間に水気を帯び、鈴の視界をぐちゃぐちゃにした。必死に名前を呼んだが、樹は反応しない。
見苦しく喚く鈴には一瞥もくれず、死神は狂気と嘲りの眼差しを渚に移した。死神が次に取ろうとしている行動は、真っ白になった頭でも容易に理解が及んだ。
「嫌……やめて……っ」
無意味だと分かり切っていても、懇願の言葉が口を衝く。
苦い表情で後ずさる渚に、死神は大股に近付いて行く。両者の距離はすぐになくなった。
「菫色の癖に、そんな怖い顔すんなよ。どうせ何も出来やしねぇんだろ?」
死神が渚の肩を鷲掴み、突き飛ばす。背中から地面に叩き付けられた渚が、押し殺した呻きを上げた直後、死神が振り下ろした大鎌の刃が渚の腹に突き刺さった。渚の体は一瞬の痙攣の後、小刻みな震えを伴い、やがて脱力した。大鎌がおもむろに引き抜かれると、新たな血溜まりが生まれ、地面に染みを広げていった。
「呆気ねぇな。一人じゃ戦えねぇ出来損ない達は」
へなへなと座り込み、放心状態で涙を流し続ける鈴の前で、死神は為す術もなく倒された樹と渚を冷笑した。
「さて、どっちから殺してやろうか?」
もうほとんど機能してない脳でも、その恐ろしい言葉だけは拾い、呑み込んだ。この死神への恐怖など、既に鈴の中には存在しない。今は全く別の恐怖が上書きされていた。
二人が死んでしまう。消えてしまう。二人が目を開けてくれないことが、こんなにも怖い。心にはぽっかりと穴が空いて、体にはもう感覚と呼べるものは残っていなかった。
二人の血で朱に染まった大鎌が、より強く禍々しい光を灯す。とどめを刺すために。二人を殺し、消滅させるために。
「……誰か、助けて……」
空っぽになった鈴の心が、たった一つのうわ言を漏らした。
その時――黒い影が、鈴の脇を高速で通り過ぎた。
【To be continued】
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