第17話 死神と少女の災難[後編]
黒い影が、鈴の脇を高速で通り過ぎた。鈴がそれを辛うじて認識した時、死神は既に死んでいた。
赤い光を纏った大鎌が、死神を切り裂いていた。自分の身に何が起きたのか理解出来ず、目を見開いたまま倒れて行く死神の姿を、彼は怖気が走るほど冷ややかな表情で見下ろしていた。
「燿、さん……」
鈴が彼の名を呟く。
燿は答えず、消滅を始めた死神からも早々に視線を外し、ぐったりと横たわる樹に大鎌を向けた。痛ましい傷が刻まれた樹の身を赤い光が包み込み、怪我をする前の状態へと巻き戻していく。樹を治療し終えると、彼はすぐに渚の方へと歩いて行き、同様に治療を施した。
「駄目だよ。鈴ちゃん」
起伏のない声で、燿は鈴にそう言った。
「こういう時は、ちゃんと逃げないと。多分、次は鈴ちゃんが狙われてたよ」
冷たい正論。しかし、今は受け入れる気力に留まらず、異議を唱える気力もなく、ただただ抜け殻のように沈黙していた。そうしている内に、燿が緩やかな動作でこちらを振り返った。
「まあ、理屈じゃないよね」
あっさり説教をやめた燿の顔に、酷く優しい笑みが浮かぶ。その笑みが、鈴を極限の状態から解き放った。緊張の糸がぷっつりと切れ、先ほどまでとは意味の違う涙が、感情と共に堰を切る。一度堰を切ると、もう止まらなかった。
積もりに積もった想いが、ようやく言葉となって溢れ出す。
「凄く……怖かった……っ」
「うん」
鈴の前に腰を下ろし、燿は穏やかな声音で相槌を打った。
「樹君と、渚君が……死んじゃうと思って……怖くて……!」
「うん」
「もう、二人に会えなくなるかと思った……!」
「うん」
「もし、燿さんが来てくれなかったら……燿さんがどっちも出来る人じゃなかったら、二人がいなくなってたかも知れなくて、そうなってたら、あたし……っ」
「うん。……うん?」
泣きじゃくりながら胸の内をぶち撒けていた鈴の言葉を、燿は文句一つ言わず聞いてくれていたが、そんな彼の相槌に、原因の分からない疑問符が混じった。鈴が怪訝な目をしていると、彼は少しの空白の末、合点がいったようにぱんと手を叩いた。
「なるほど。そういう意味ね」
一拍置いて、燿は言った。
「それが普通なんだよ」
「……え?」
鈴が理解が追い付かないでいる中、燿は星空を仰ぐ。
「魂の回収と戦闘、治療と蘇生。この四つが死神の主な能力なのは知ってるよね?」
燿に問われ、鈴は頷いた。
「これね、普通の死神なら一通り全部こなせるんだよ。一人一人に得手不得手はあるけど、全く出来ないなんてことはない」
思わぬ事実に絶句する鈴に、燿は続けて言う。
「ユピテルとメルクリウスの方がちょっと特殊でね。二人は死神の能力を半分しか引き出せない。原因は未だに不明らしいけど、ごく稀にこういう死神が生まれるんだって」
「そう、なの……?」
「二人のコートの色が差別化されてるのは、それが理由。他の部署の死神が見ても、すぐに役割が分かるようにね。……でも、これ二人が聞いてるとこでは言わないであげて。気にしてるみたいだから」
「……分かった」
綺麗な色だと思っていた二人のオーバーコートが、本人達にとっては不名誉なものだったと知る。鈴は服の袖で涙を拭い、まだ眠っている二人を見た。樹を見て、渚を見て、燿の方へ視線を戻そうとした際、渚が微かに身じろいだ。
「渚君……?」
虚ろな瞳が瞼の奥から現れる。最初はどこを見ているやら分からなかったその瞳は、鈴と燿に見守られながら、徐々に焦点を取り戻していった。渚がゆっくりと身を起こす。
「渚君! 良かった……!」
「おはよ。良く寝てたね」
鈴と燿がそれぞれ声を掛けるが、渚は何も答えなかった。彼はどこか陰った目を下方に遣り、押し黙ったまま、自らの菫色のオーバーコートを強く握り締めた。
「メルクリウス。自分を責めちゃ駄目だよ」
「……うるさい」
ようやく口を開いた渚の悪態に、普段の気迫はない。渚は暫くそうしていたが、時間と共にオーバーコートを握り締めていた手を解いていくと、微弱な声音でぽつりと発言した。
「世話を掛けた」
燿が面食らった顔をする。彼は何度も目をしばたたいた後、いつになく真面目な眼差しを渚に向けた。
「どうしたの? らしくもないこと言って。拾い食いでもした?」
「撤回する」
不貞腐れた態度で大鎌を拾い上げ、一人立ち上がった渚は、概ねいつもの調子に戻っていた。
時を同じくして、唸るような樹の細声が耳に届いた。喜びに突き動かされてそちらを見ると、樹の瞼が半ばほど開いていた。
「樹君!」
喜びに頬を緩ませ、鈴は樹の名を呼んだ。身を乗り出した彼女の顔が視界に入るや否や、樹は今し方までぼんやりしていた目をはっと見開き、これ以上がないほど慌てた様子で飛び起きた。
「鈴! 渚! 怪我は――」
「先に自分の心配をしろ。馬鹿者」
目覚めるなり渚に罵倒され、樹はしゅんと項垂れた。つくづくどちらが兄だか分からない二人を見ていると、急におかしくなってきて、鈴は燿と一緒に吹き出してしまった。
「笑うなよ……」
不服そうに顔を上げた樹が、不服そうな顔のまま自分の大鎌を拾う。彼と共に鈴と燿も立ち上がり、服に付いた汚れを払った。
「マルスはどうしてここに?」
「ん? ああ、そのことね」
樹に尋ねられると、燿は涼しげに答えた。
「ついさっき、ウラヌスから連絡があったんだよ。君達の後を付けてる死神がいるって。ハデスっていうんだけど」
燿の言葉の内容はもちろん気になったが、樹と渚がほぼ同時に真顔になったのも、同じくらいかそれ以上に気になった。
短い嘆息を経て、燿の声のトーンが急下降する。
「俺、言ったよね。用心しろって」
樹と渚が、僅かに身を引いた。ただならぬ空気に圧倒され、完全に口を挟むタイミングを逃した鈴の目の前で、燿の繰り出した拳骨が二人の頭頂部に落ちた。
* *
「もう遅いから、途中まで送ってくよ。あの時の公園まで」
そんな言葉に甘え、鈴は先ほどの工事現場からギリギリ徒歩圏内の下町まで、樹と一緒に帰って来た。
もう既に間近に迫った公園を遠目に見る。出会って間もない頃、初めて樹の戦いを目にした場所だ。あの日を境に、樹のことが気掛かりになった。言葉にならないくらい心配するようになった。なんの力にもなれないのを理解した上で、放っておけなくなった。
「ここまでで大丈夫?」
「うん。大丈夫」
公園前に到着すると、別れ際の遣り取りが始まる。けれど、鈴はこのまま樹と別れることに後ろ髪を引かれていた。
「じゃあ、気を付けて帰――」
「ま、待って!」
「うん?」
樹の台詞を遮り、鈴はおずおずと尋ねた。
「もうちょっとだけ良い……?」
「? 僕は良いけど」
「あたしも平気だから。家までほんの数分だし」
「分かった」
樹は怪訝な顔はしていたが、すんなり了解してくれた。
けれど、言葉を紡ごうとした鈴の口からは、自分でも驚くくらい何も出て来なかった。何か言い掛けてはやめ、言い掛けてはやめを繰り返している内に、樹が顔を覗き込んできた。
「鈴?」
樹に正面から見詰められ、鈴もまた彼を正面から見詰める。変わらない樹の姿に、一度は収まっていた想いが込み上げた。歯を食いしばって耐えようとしたが、駄目だった。目頭がたちまち熱を帯びる。制御を失った感情の波に呑まれ、鈴はすすり泣きながら樹の体に縋り付いた。樹が息を呑む気配がした。
情けない表情を見られたくなくて、樹の胸板に顔をうずめる。少し速くなった樹の鼓動が聞こえる。樹の生を感じる。
「有難う」
振動を伴い、小さくなった声で鈴は言った。
「有難う。生きててくれて」
伝えたいことはたくさんあった筈なのに、そのほとんどが言葉にならなかった。たくさん泣いた筈なのに、涙は次から次へと溢れ出し、休むことなく頬を伝って行く。
互いに一言もなく、鈴のすすり泣く声ばかりが空気を震わせていた。しかし、そんな永遠に続くかのように感じたしじまも、やがては終わりを迎える。
温かい体温の宿った手が背中に触れた。体勢上、樹の顔は窺い知れないが、鈴には彼が笑ったのが分かった。
「うん」
樹は柔らかな声音で頷きを返すと、壊れ物を扱うような優しい手付きで、そっと鈴の背中を撫でた。
すすり泣きが、嗚咽に変わった。
* *
「うっわ、明日雨? やだなー。あれ? 野球逆転してる。凄い凄い。あ、お笑いやってる。どうせなら最初から観たかったなー。そういえば、このドラマ人気みたいだね。俺には全然刺さらなかったけど――って、ちょ、取らないでよ!」
樹不在の宇野家にて、テレビ番組をはしごしながら一人で喋っていた燿は、いつの間にやら脇に立っていた渚にリモコンを没収された。口を尖らせて不服の意を示すと、険のある双眸で見下された上に、明確な棘を含んだ冷淡な声で問い立てられた。
「何故いる?」
「んー、なんとなく?」
「用がないなら帰れ。うるさくて敵わん」
尋問でもしているかのような渚の威圧的な言動は、樹辺りなら簡単に気圧されてくれるのだろうが、燿に言わせれば子犬が吠えているだけなので、恐れる理由がない。燿は平然と渚を見返した。
「用ってほどじゃないけど、聞きたいことならあるよ」
渚が微妙に渋顔になる。彼は無言でテレビを消し、リモコンを没収したまま定位置に戻ると、頬杖を突いて無愛想に燿を促した。
「手短に話せ」
一応話を聞く態勢にはなってくれたので、燿は遠慮なくあけすけな質問をぶつけた。
「ぶっちゃけどう思ってんの? ユピテルと鈴ちゃんのこと」
問われて、渚は煩わしそうに溜息を吐いた。そして、視線をローテーブルに落としてから、仕方なくといった様子で応じた。
「私から何か言うつもりはない。忠告は済ませてある。あとは
「……ふーん」
つい半眼になりつつも、渚の建前に相槌を打つ。
渚の場合、樹とは大きく異なり、顔にはほぼ出ない。しかし、彼がこのタイミングで視線を外したことで、燿は半ば以上確信するに至った。燿は腕を組み、その確信した内容を口にした。
「言うつもりはないっていうか、言えないんでしょ」
「!」
渚の目が剣呑なものに変わる。燿は畳み掛ける。
「あの子がユピテルの支えになってるのは、見れば分かるからね」
渚は肯定も否定もせずに燿を睨んでいたが、急に黙った時点で答えを言っているようなものだ。ひとしきり黙った後、彼は剣呑なまま燿を見据え、おもむろに口を開いた。
「……だからお前は嫌いだ」
地を這うような低い声でそれだけ言い捨て、渚はローテーブルの上のマグカップを手に取った。まだ辛うじて湯気が立っているコーヒーを一気に飲み干し、彼は空になったマグカップをぞんざいに戻しながら腰を浮かせた。
「ねぇ、俺にもコーヒー入れてよ」
「水道水でも飲んでいろ」
分かりやすく機嫌を損ねた渚は、突き放すような語調で燿の要望を却下すると、つかつかと隣の部屋へ逃げて行った。
【第5章 End】
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