第6章 藍色と少女の想い
第18話 藍色と菫色
「おーい! プルトン!」
二〇〇九年七月。黒いオーバーコートに身を包んだ
プルトンは間もなくこちらに気付くと、持ち前の温厚な笑みを浮かべ、軽く手を上げて見せた。燿と樹が近付いて行ったところ、彼はどうやら自分の足の状態を気にしているらしかった。
「プルトン、怪我?」
「右足を少しね。でも、大した傷じゃないよ。治療は得意じゃないけど、これぐらいなら自分で――」
「あ、ちょっと待って」
「うん? なんだい?」
「その怪我、この子に治させてあげてよ。練習も兼ねてさ」
燿に言うと、プルトンが樹を見た。樹が会釈する。
「新しくうちの部署に二人来たって聞いたけど、この子が?」
「そうそう。その内の一人だよ」
「分かった。じゃあ、任せるよ」
気さくに応じ、プルトンは掴んでいた大鎌を脇に置いた。
「ほら、ユピテル」
「うん」
燿に促され、素直に首肯する樹。最初こそ表情の硬かった彼も、少しずつ他の死神達に心を開いていき、時折笑顔を見せるようにまでなっていた。弟の方とは雲泥の差である。
樹は前に進み出て、持ち慣れない大鎌の先をプルトンの傷口にかざした。真剣な面持ちで意識を集中させている。燿もプルトンも、樹が当然このまま治療に移るものとばかり思っていた。
予期せず訪れた、不自然なほど長い沈黙。燿がプルトンと顔を見合わせていると、樹が不可解な呟きを漏らす。
「あれ……?」
樹は明確な動揺と焦りの挙動を晒した。様子がおかしい。
「ごめん……! もう一回やってみるから」
樹は慌てて弁解するように告げ、再びプルトンの治療を試みた。しかし、何も起こらない。大鎌が反応しない。
「な、なんで……?」
樹の動揺と焦りが加速する。
「ユピテル、まさか……」
自分の持っている知識と照らし合わせることで、燿は樹が持つ特殊な体質を理解した。自分の顔が緊張を帯びたのが分かった。すぐには掛ける言葉が見付からず、どうしたものかと考えていると、一足先にプルトンが口を開いた。
「大丈夫。気にしないで。この怪我は自分で治すから」
プルトンが樹に笑い掛ける。が、当の樹は傍目にも疑いようがないほど落ち込み、下を向いてしまった。彼の性格上、自責の念に駆られている可能性があった。そんなもの、全く必要ないのに。
プルトンは気遣わしげに眉尻を下げつつも、それ以上は触れず、自らの治療に取り掛かった。
「ユピテル」
樹の頭に手を載せながら、燿は言った。
「自分を責めちゃ駄目だよ。君はなんにも悪くないんだから」
「でも、僕が上手く出来なかったから――」
「違う違う。これはそういう話じゃない」
「え?」
樹が浮かない顔を上げ、燿を見る。真面目なのは結構だが、余り真面目すぎるのも考えものだ。
「コートの色は変わっちゃうと思うけど、誰もユピテルを責めやしないよ。もちろん、俺もね」
「? どういう意味?」
「帰ったらちゃんと説明するよ。とにかく、自分を責めちゃ駄目ってこと。分かった?」
こうでもしないと、樹は不要な自責を続けてしまうだろうと確信し、燿は樹に念を押した。樹が頷くまでには、躊躇うような僅かな間があったものの、ひとまず安心した。
「……有難う」
まだ幼さの残る樹の顔に、微笑が浮かぶ。感謝の言葉は想定していなかったので、完全に虚を衝かれた。若干驚くと同時に、燿も釣られて口許を緩ませていた。
「マルス」
話している内に、治療を終えたプルトンが立ち上がった。
「大変なこともあるだろうけど、その子を支えてあげて」
「うん。そうするつもり」
「それなら良かった。課は違うけど、オレも出来る範囲で協力するから、いつでも声掛けて」
「ありがと」
律儀なプルトンの気遣いが有り難かった。
プルトンと別れ、一通り挨拶回りを済ませた後、燿は樹を連れて会合の場に向かった。同課の死神全員で樹を支えていくために、これからの方針を決める必要があった。
新たな事件が起こったのは、その翌日のことだった。
* *
目の前で人間が死んだ。交通事故だった。
人間が乗用車の下敷きになる瞬間、宇野
「ちゃんと見てなくちゃ駄目だよ。人間の最期を見届けるのも、死神の役目だって言ったよね?」
「……」
「なんで泣くの!?」
燿がつい大きな声を出すと、渚は大袈裟に身を震わせ、理解に苦しむほど気怖じして小さくなった。
当初は樹のように徐々にでも心を開いてくれることを期待していたが、渚は出会った頃のまま一向に変わる兆しがなく、今や同課の死神全員の心が折れ掛けている状態だった。
「もう、こんなことで泣かないでよ。これじゃ俺が悪者みたいじゃん。流石に心外だよ。俺はこれでも慈悲深くて包容力有り余ってる優しいお兄さ――がっ!」
「その辺にしとけ。怖がってんだろうが」
同課のアポロに背後から拳骨され、燿は渋々黙った。
「魂の回収は死神の仕事の基本だ。やり方は分かるな?」
アポロが仕切り直す。渚は声も出さずに頷き、黒いオーバーコートの袖でゴシゴシと涙を拭うと、不釣り合い過ぎる大鎌を構えた。ところが、それから幾ら待っても渚は動かなかった。
「メルクリウス? どうしたの?」
そこはかとなく嫌な予感がして、燿は渚の顔を覗き込んだ。
予感は的中した。渚は反応しない大鎌を見詰めながら、どうすれば良いのか分からず、その場に固まってしまっていた。
「え、嘘でしょ?」
「マジかよ」
燿とアポロが、口々に動揺を言葉にする。
「藍色と菫色が同時に出るとは……おれ達は夢でも見てんのか?」
「前代未聞?」
「おれが知る限りではな」
「へぇ。凄すぎてやばいね」
我ながら頭の悪そうな感想を漏らしていると、こちらを上目遣いに窺っている渚に気付く。燿は渚の表情を見て、盛大に呆れ、盛大に吐きたくなった溜息をすんでのところで堪えた。
「別に責めてる訳じゃないから、いちいち萎縮しなくて良いよ」
そろそろ埒が明かなくなるので、早々に気を取り直す。
「黒のコートは今日で最後になるだろうけど、気に病む必要はないからね。死神にも適材適所ってものがあるから」
「?」
意味を呑み込めていない渚の肩に、ぽんと手を置く。
「何も心配しなくて良いってこと」
気休めになるかは分からないが、励ましのつもりの言葉を掛け、燿はアポロに向き直った。
「アポロ。代わりに回収やっといてくれる? 俺はメルクリウス連れて、上に相談して来るから」
「はいよ」
二つ返事で請け負い、前に進み出たアポロは、渚をくいっと後ろに押し遣ると、事故現場の方を向いたまま再び口を開いた。
「……まあ、あれだ。なんとかなんだろ。気にすんな」
頭を掻きながら、渚に余り器用とは言えない応援の意を示した後、アポロは間もなく請け負った仕事に取り掛かった。
「メルクリウス。行くよ。今後のことは、皆で考えようね」
踵を返し、元来た道を戻り始める。渚の足音を背中越しに聞く傍らで、燿はここ二日で立て続けに発覚した奇妙な巡り合わせについて、ぼんやりと思索していた。
* *
雨の予報は外れ、
慌ただしい中やって来た中間テストの初日。鈴は直面した現実に激しく打ちひしがられていた。ここまで一夜漬けが役に立たなかったテストは、記憶の限り存在しなかった。努力とも言いがたい努力が徒労に終わった絶望と、赤点がほぼ確定した絶望が重なり、突き落とされた失意のどん底から這い上がることすら叶わない。下校時間が早まった程度の幸福は、もはや焼け石に水でしかない。
樹も渚も、初日にして早くもボロ雑巾と化している鈴にはまるきり触れず、黙々と通学路を歩いている。面倒臭がっているか、鬱陶しがっているか、或いはその両方だろう。
「樹君」
「何?」
「なんで勉強教えてくれなかったの?」
不満を包み隠さない鈴に、隣を歩く樹が仏頂面になった。
「全教科教えてなんて言われて、引き受ける訳ないだろ」
「だって、全部同じぐらい苦手なんだよ? 絞るなんて無理に決まってるで――いひゃい!」
「開き直るな」
膨らませていた頬をつねられ、生じた鈍い痛みに阿呆のような声が漏れた。確かに今の言動は良くなかった。
「あ、あのさ、樹君」
「今度は何?」
言動についてはいたく反省した。しかし、その上でまだ諦め切れないものがあり、鈴は恐る恐る樹に尋ねた。
「明日の分だけでも付き合ってくれたりしない……? ほんのちょっとで良いから……」
樹が半眼で黙ってしまったため、鈴は否と確信し、肩を落とした。もちろん、図々しい頼み事なのは分かっていたので、こうなったら素直に引き下がるしかない。
「明日のどれ?」
思いがけない反応に瞠目した。樹の表情には多分の呆れと若干の棘が含まれていたものの、それでも簡単に見放そうとはしない彼の姿勢に感極まった。鈴は涙ぐみ、答える。
「化学と英語」
「……」
「化学」
見放されそうな空気が漂ったため、肝を冷やしながら訂正した。
樹は暫し真意の読めない目で鈴を見詰めていたが、やがて視線を前方に戻すと、棘の取り除かれたいつもの声音で応じた。
「良いよ」
本日二度目の感動で、涙ぐむどころか本当に泣きそうになった。
「有難う! 樹君!」
「……分かったから、ちょっと離れて」
「へ?」
「近い」
「あ、ごめん。つい」
気分が上昇し過ぎて、距離感をうっかり忘却の彼方に追い遣ってしまっていた。言われた通り、ちょっとだけ離れた。
ふと違和感を覚える。樹の耳が少し赤みを帯びているように見えたのだ。そんな訳がないのに。これについて、鈴は早々に考えるのをやめた。無意味だ。
化学に絞ったは良いものの、一夜漬けが通じる気がしないのは、英語の方も同様だった。鈴は一縷にすら満たない望みを懸け、前を歩いている渚を見た。
「ねぇ、渚く――」
「寄るな。知人と知られでもしたら沽券に関わる」
「酷っ!」
沽券という単語は知らなかったが、罵られたのはニュアンスで分かった。「まずい」という顔でこちらを見る樹を脇目に、鈴が渚への反論を口にしようとした時、空気が変質した。
鈴が、樹が、渚が、一度に歩みを止める。
重力が増したかのような、息苦しさすら覚える圧迫感。空気中の温度が急激に低下したかのような、震え上がるほどの寒気。悪寒が背中を這い上がり、おぞましい不快感を与えてくる。
周囲を通行している人間達は、誰一人として異常に気付いていない。あたかも鈴達の立っている場所だけが現実から切り取られていると見紛うくらいに、誰もが平然としている。
「元気そうね」
鈴の音を思わせる澄んだ声。少女の声。それが耳元で聞こえた。本来なら美しく響く筈のその声が、今はとても恐ろしいものに思えて、鈴はこの場に凍り付いた。
誰かが脇を通過する気配はあった。にも関わらず、どこを見ても誰もいない。立ち尽くす鈴達三人と、依然として何も気付いていない通行人達以外、もう誰の姿も存在していない。
変質した空気はすっかり元に戻り、少女の声も、脇に感じた気配も、霧が晴れたようになくなっていた。今し方の異常が現実に起きたものだったかさえ、鈴は既に自信が持てなくなっていた。
「今……誰かいた?」
鈴が呆然と発した言葉に、答えられる者はいなかった。
【To be continued】
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