一の九

 川井信十郎は、ふと目を覚ました。

 階下で話し声がする。

 すでに陽は落ちたようで、窓からは、十五夜にちかい月の光がつめたくさしこんでいた。

 うたた寝のあとの、手足はだるくて指を動かすのもおっくうで、まだはっきりしない意識のまま、彼は階下から聞こえてくる声を聞くともなしに聞いていた。

 それは、会話というには奇妙に小さな声で、ぼそぼそとささやくように、男がなにかを云っているのだった。

 板一枚の床だから、耳をすましてみると、ほとんどすぐそこに人がいるように、話声は聞こえてきた。

「どうちたの。このまえもそうだったよねえ。どうちて声をだしてくれないの」

 まるで子供が母親に甘えるような、欲しいものをおねだりするような喋りかたをする男の声だった。

「声をだちてえ。いやとかやめてとか、いつもみたいに、かわいい声を聞かちてよう」

 声の主は、おそらく清彦だろう。

 なにか虫唾が走るような、嫌らしい声の調子だった。

 割れた床板の隙間からは、灯火の明りが漏れていて、信十郎はそこまで横向きにころがるようにして身体を動かして、その隙間から階下の様子をのぞき見た。

 そこには、床にうつぶせに寝ころぶ男の背中がみえる。

 その男、清彦の身体が、上から下へと、すべるように動いた。

 すると、その下からは、半裸になったおゆいの身体があらわれた。

 清彦の頭部が、おゆいの身体の上ではいずるように動いている。

 ちゅ、ちゅ、とか、くちゃ、くちゃ、だとか、おゆいの身体を吸い、なめまわす音が、聞こえてきた。

 ――こいつはくずだ。

 まだ童蒙と云っていい年端もいかぬ少女を性の対象として見、あまつさえ、犯すなどとは、くず以外の何者であろうか。人間のくずだ。この男は人間のくずだ――。

「うん、おいちいおいちい。おゆいの身体は、甘くって、ちゅっぱくって、舌がとろけてしまいそうだねえ」

 あまりにも不快な響きをした男のささやき。

 おゆいは、声をだすまいと、必死に顔をしかめ、手で口を押さえてこらえている。おそらく、自分の喘ぐ声を、信十郎に聞かせまいとしているのだ。信十郎が意識を失っていた間も、こんな目にあっていたのだろうか。いや、昨日今日だけのことではないだろう、何カ月か、何年か、ずっとおゆいは、この卑猥な男のなぐさみものにされてきたのだ。

 信十郎は、感情に突きあげられるように立ちあがった。

 我慢の限界を、完全に越えた。

 どうせ、今夜にはここをとうと思っていたところだ。どうなろうと、かまうものか、という気持ちだった。

 急いで袴をはく。おゆいが丹念に――店のものにみつからないようにひっそりと、洗ってくれたものだった。

 両刀を腰にたばさんだ。

 割れそうなほど強く床板を踏み鳴らして歩き、梯子段をすべるようにおり、信十郎は、男のわきに立った。

 清彦はこの突然あらわれた見知らぬ男を目の当たりにして、完全に驚愕し、おののいている。

 信十郎は、おゆいの身体におおいかぶさっている清彦の脇腹を、まったく容赦なく、蹴り飛ばした。

 肋骨が折れる感触がつま先につたわった。

 清彦が、けたたましく悲鳴をあげて、転がった。立ちあがろうとするが、痛みと恐怖で腰が抜けたようになってしまって立てず、後ろさがりに、はいずるように逃げ、土間へ転げ落ちた。

 きゃあきゃあと、かんにさわる悲鳴をあげつづけながら、清彦はたてつけの悪い戸を必死にこじ開けて、外へ逃げ出した。

 信十郎は、それを追って自分も外に飛び出し、さらに何度も男の身体を蹴り、それでも怒りはおさまらず、馬乗りになって何度も頬を殴った。清彦の口のなかが切れ、血が周囲に飛び散っても、殴るのをやめなかった。


 小畑栄太は、運ばれた膳をまえに、さて、藤堂平助の帰りをまとうか、それとも先に食べてしまおうか、などと思案しているときだった。

 旅籠の庭のほうから、泣き叫ぶような声が聞こえてきた。

 立って二階の廊下の窓からみると、納屋だろうか、粗末な建物のまえで、男が別の男にまたがって顔を殴打している。

 これはいけない、と思い、部屋にもどって大刀をひっつかみ、ふたたび廊下へ走りでて、階段を降り、縁側から下駄も履かずに庭へと飛びおりた。

 店の者はあたふたしているだけだし、客たちは野次馬のように騒動を見物しているだけだった。

「おい、なにをしている」

 とがめた声に、殴っていたほうの男が顔をあげた。栄太は瞠目した。顔の下半分は無精髭におおわれているし、まげはゆがんでいたが、見間違うはずもない。同じ隊に所属して、毎日顔を合わせていたのだから。

「川井――、川井信十郎かっ」

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